建築学や建築材料に明るくないフェイルでも、その『廊下』の異様さには
直感的に気付けてしまう程、そこは違和感に満ち溢れた空間だった。
病院内で移動可能な区域である以上、そこもまた先程までと同じく病棟である事には変わりない。
少なくとも、病院の敷地内という定義から逸脱するとは考え難いだろう。
にも拘らず、今フェイルの眼前に広がるのは、まるで100年以上――――
或いはそれより遥か昔の建造物としか思えない、質の低い石材が壁にも床にも用いられている。
そうフェイルが視認出来た理由は至極単純。
切石が用いられていない。
まるで洞窟の中のような、加工しているとは到底思えないほど凹凸の多いその廊下は、
灯りもないまま前方へひたすら長く伸びている。
梟の目がなければ、一寸先さえ見通せないほどの闇。
病院というより冥府に近い空気を漂わせている。
「ここは……」
「このヴァレロン・サントラル医院の原点。そう呼ぶべき場所だ」
原点――――ガラディーンのその言葉に、フェイルは即座にこの空間の意味を理解した。
「発足当初の建物をそのまま残してる……って事?」
「そうらしい。一切の改築を行わず、増築という形で病院を大きくし、
ここは手を加えず残してある。築100年は優に超えているだろうな」
石材は木材や煉瓦とは違い、1,000年以上もの年月にも耐え得る材料。
敢えて古い建築物をそのまま残し、その国の建築様式の歴史を物語る文化遺産として
大事に保存するのは良くある話でもある。
けれど、病院という機能性を重要視されている施設においてはその限りではない。
衛生面の観点から常に最新の環境と設備が求められる性質上、例え殆ど風化や経年劣化を
していなくとも高頻度で建て替えられるくらいだ。
「まさか原点を忘れない為に残してある、なんて殊勝な事は言わないよね」
「さてな。某は創立者ではない故に真実を語る術は持たぬ。が、代弁者とは旧知の仲でな。
その者に便宜を図る程度の事であれば、可能かもしれぬ」
「この病院の院長?」
グロリア=プライマル。
以前、提携を結ぶ際に直接面会した人物の姿がフェイルの脳裏に過ぎる。
「いや。その者よりも遥かに年上の男だ。直接経営には携わっていないが、
この病院の理念を掲げた……というよりは、"理念の元となったモノ"の開発者、
と言った方が正しい表現か」
普段は実直なガラディーンが、敢えて持って回った言い方をしている事実が、
一筋縄ではいかない人物像を明瞭に映し出している。
ヴァレロン・サントラル医院の理念を掲げた、いわば病院の生みの親。
全く想像が追いつかず、フェイルは眉間に皺を寄せたままその場に立ち止まった。
「歩みを止めるな。答えは直ぐそこにある」
その停止は無意識だったが、同時にそれには意味がある。
梟の目でガラディーンの視線の先を凝視フェイルは、考え事を理由に止まった訳ではない、
と自己分析せざるを得なかった。
暗闇の中でも、ガラディーンはそこに何があるかを正確に把握出来ている。
これは単に達人だからという理由では成り立たない。
かといって、梟の目と同等の能力を有しているとも思えない。
彼がこの建物に精通している証拠。
代弁者とは旧知の仲――――先程のその言葉が、フェイルの頭の中で明度を濃くしていく。
「その扉の向こうに?」
ガラディーンは、廊下の途中にひっそりとある大きくも小さくもない扉を眺めていた。
その向こうには、複数の人間の気配。
フェイルの良く知る気配が幾つか混じっている。
この一連の騒動の"中核"が扉の先に待っている――――そう確信させる気配が。
「ここを開けば、お前は真実と引き替えに平和な日常たる未来を完全に失うだろう。
本来ならばそれは避けたかったが、最早そういう段階でもないのかもしれぬ」
「当然。それにね」
ガラディーンに見えていようがいまいが関係ない。
そんな心持ちで、フェイルは強い目で覚悟を示した。
「今この瞬間が僕の日常なんだよ」
闇に溶け込む下準備は、心ならずも出来ていた。
師匠と呼んでいた男が、そう導いた。
或いは仕向けたのかもしれないし、叩き落としたのかもしれない。
それ以上の勘ぐりは最早不要。
現在、ここにいるのは自分の意思であり、自分の選んだ人生なのだから。
「……某だ。一人客人を連れて来たが、構わないな」
ガラディーンはフェイルから目を逸らし、感情を押し殺した声でそう扉の向こうに語りかける。
返事はない。
それが暗黙の了承なのは明らかで、実際ガラディーンも特に待つ事はせず、徐に取っ手に触れ、
その扉を開く。
重厚感など全くない、ただの病院の扉。
それがまるで牢獄の鉄格子にも似た、絶望的で鈍い光沢を帯びているように、梟の目には映っていた。
その目が、静かに閉じられる。
室内は灯りが設置されていて、隅々まで輪郭を浮かび上がらせていた。
石材そのものは荒々しいままだが、先程までの薄ら寒い廊下とは違い、
綴織の壁掛けによって温かみのある色彩がもたらされている。
当然窓はなく、中央には年季の入った円卓が陣取り、厚みを感じさせる深紅の布で覆われている。
円卓の周囲には、六つの椅子。
フェイルはその光景を、何処かで見た事があると錯覚した。
そう、それは錯覚。
少なくとも内装は似ても似つかないのだから。
けれど、かなり近い空気を五感が察知していた。
フェイルが思い出していたのは、王宮にいた頃に盗賊から案内され入った、あの隠し部屋。
王宮に携わる全ての人間の記録が眠っている書斎。
何故、そこを思い出したのか。
答えは明白だった。
椅子の一つに据わっている人物の"顔"が、雄弁に物語っている。
「久しぶりですね。僕達以外の誰かがこの会合に加わるのは」
そう真っ先に声を掛けたその男性の顔には、仮面が装着されていた。
あの日、見た物と同じ仮面が。
そして、少しくぐもっているのも含め、あの時と同じ声。
フェイルを真相に近付け、夢から遠ざけた"白色の仮面の男"がそこにはいた。
彼だけではない。
室内にはあと二人、どちらもフェイルと既知の関係にある人物がいた。
しかしその濃度は対象的。
一人は――――
「いいんじゃないの? これだけの頻度で絡むと、もう他人って気もしないしな」
カラドボルグ=エーコード。
皮肉な事に、このヴァレロン・サントラル医院でも医師として働く彼がいるのは、
フェイルにとって想定外だった。
一方、もう一人は想定内。
彼に会う為に来たのだから当然だった。
「……」
室内でただ一人声を発しなかったその人物――――ビューグラス=シュロスベリーは、
フェイルとは目も合わせず、真一文字に口を結んでいた。