視る力は目に依存するもの。
しかし視た物を認識し理解した上で情報として蓄積するのは、視力だけの問題ではない。
認知する意識があって初めて成立する。
思考が外部から離れ、自身の内包する記憶や観念に囚われていると、例え目の中に入れている景色であっても認識が出来ず、視た事にはならない。
どれだけ目が良くても、その部分は変わらない。
トライデントはそれを理解していた。
意識が他に向いている瞬間は、どれほどの手練でも初動が遅れる。
そうなれば、仮にどんな奥の手を用意していたとしても不発に終わる。
右肩が壊れた相手にでも、そこまでする。
トライデントの抜け目ない戦略は、彼が師を仰いだ人物に由来していた。
準備は入念に。
戦う前には必ず相手の特性を頭に入れ、可能ならば模擬戦を行っておく。
そこまでして、初めて"全力"と云える――――
王宮でそう学べたのは、トライデントにとってかけがえのない財産だった。
模擬戦は既に終えている。
自身の意図したものではなかったが、結果的にそうなった。
その時の記憶は、今もトライデントの中で燦然と輝いている。
屈辱の歴史として。
暗雲が立ち込めて然るべき記憶も、彼の中では立派な教材。
宝物でさえある。
眼前の人物は、不意打ちの筈だった魔術さえも自身の攻撃の為に利用した。
爆破系魔術の音と煙を隠れ蓑にし、矢を放ってきた。
そういう人間に対し、絶対的優位という理由で喜々として攻撃を仕掛けるのは早計。
寧ろそれが自分にとっての落とし穴になる事を、トライデントは学んでいた。
「内容自体は単純極まりない契約だ。このメトロ・ノームで研究された邪術……魔術と生物兵器を融合させて発明した『生魔術』の全情報と引き替えに、エチェベリアは史上最短での戦勝という誉れを得る。そしてもう一つ、メトロ・ノームを『完全封印する封術の譲渡』。それだけだ」
フェイル=ノートは俯いたまま、この話に聞き入っている。
そして考えている。
今、ここヴァレロンでどれだけ巨大な陰謀が渦巻き、そして露見しようとしているのかを。
これをフェイルに敢えて聞かせるメリットは、トライデントにはない。
だがデメリットもない。
トライデントにとって、エチェベリアという国が抱えている暗部や常軌を逸した謀略など何ら興味の対象とはならなかった。
あるのは二つのみ。
師への忠誠。
そして――――付けるべき決着。
正々堂々力比べがしたいのではない。
どちらの戦闘能力が上など、比べる意味もない。
ただ純粋に、結果を出したい。
宙ぶらりんになってしまったあの戦いの決着を。
既に王宮の人間ではなくなって久しい。
師との接点もなくなっている。
それでも。
だからこそ。
トライデントは――――ガラディーン=ヴォルスの僕として、デュランダル=カレイラを師と呼ぶフェイルとの戦いに決着を付けなければならなかった。
「生魔術……それはどっちの国も正式に認めている兵器じゃないよね。邪術、って言うの? その範疇って事か」
「所詮は呼び方の問題に過ぎない。要は指定有害人種を何と見なすかというだけ、なのだから」
「自分がどう呼ばれるか、気にもしないって言うの?」
フェイルが指定有害人種と断定している事に、驚きは全くない。
既にその特性は輝く柱の前で見せている。
トライデントにとっては想定内の見解だった。
当然動揺などない。
そして、この会話に時間をかければかけるほど、激痛に耐えている筈のフェイルは集中力も思考力も失っていく。
優位性は更に加速していた。
だがそれでも警戒は決して怠らない。
例えば、痛み止めの薬を摂取させるような隙は絶対に見せない。
フェイル=ノートが現在薬草士である事は、とうに把握済だった。
脂汗が滲み出ている。
それでもフェイルは苦悶の表情も焦りも一切見せず、質問を投げかけてくる。
その姿を、トライデントは――――
「気にする意味などない。自分の中で既に決めてある」
「後学までに教えて欲しいけど、話す気はある?」
「……ない。君に教えたところで、理解も出来まい」
「なら当ててみせようか」
仕掛けて来た――――率直にトライデントはそう受け取った。
無論、それが奥の手である筈はない。
だが右肩を砕かれたフェイルがここから勝機を見出すには、戦闘を心理戦に落とし込み、戦わずして勝つくらいしか現実的な方法はない。
「不要だ。お前は死ぬ。これからここでな」
潮時と判断し、トライデントは前傾を深める。
魔術は使わない。
矢を放てないフェイルの状態を考えれば、遠距離から魔術による攻撃を続けるのが最も安全だが――――それでは"あの時の続き"にはならない。
『疑うな。もう魔術は使わない。自分はあくまで槍兵。魔術は、添え物だ』
自分自身で言い放った言葉。
その上での最後の攻防が、ようやく幻ではなくなる。
「……長かった」
思わずそう口に出た事を、トライデントは微かに驚いていた。
自分自身がそこまでこだわっていたのだと自覚し、同時に肩が軽くなったように思えた。
「ならば、それも善し」
今度は敢えて、自らの意思で言葉にした。
勝機や形勢の見知が、頭の中から消えていく。
あとは純粋に、あの日の戦いに終止符を打つのみ――――
「こだわるね」
そう呟いたフェイルの声が、微かにトライデントの耳の奥を刺激した。
だがもう、それについて何かを思う事もなかった。
トライデントの身体は、疾走状態に入っていた。
周囲の景色が溶け、フェイルの身体のみが視界に映る。
狙いはその中心部。
心臓や頭部ではなく、鳩尾を狙う。
槍の大きなメリットの一つは、それが完全なる致命傷になる事。
突進する力と腕力、そして槍の自重により生まれる貫通力は、剣とは比較にならない。
仮にフェイルが服の下に金属製の帷子を着込んでいても、結果は変わらないと確信していた。
この打突を――――あの戦いで見舞うつもりだった。
当時は槍先端部が尖っていない御前試合用の武器だったが、それでも内蔵を破壊するくらいの事は出来た筈だった。
だから何も結果は変わらない。
一切の無駄のない、最小限の予備動作で踏み込み突きを放つトライデントの貌は、己の歯を砕くかの如き鬼の形相と化していた――――