フェイルは王宮を出た時、自身の故郷であるジェラール村に帰る事を一切考えなかった。
理由は明瞭。
既にそこは村という体を成していなかったし、故郷という感覚もなかったからだ。
伝染病によって、多くの村民が犠牲になった。
そこにはフェイルの両親もいた。
実の親ではないとはいえ、幼子の自分を世話してくれていたであろう彼らに対し、フェイルは――――当時、記憶として残せるほどの年齢に達していなかった。
親に対する感情が欠落していたのは、それが理由だとずっと思っていた。
物心つく前に別れた人間に対し、何かしらの想いを抱く事など出来ないと決めつけていた。
だが、それは事実とは異なっているとフェイルは次第に自覚するようになった。
王宮の記録帳に記されていた自分に関する記載には、遺伝実験体としてジェラール村へと送り込まれた事実が一情報として羅列されていた。
ビューグラスが、自分の子供を使って行った実験。
その経過を見る上で、何故わざわざ自分の手元に置かず、貧村であるジェラール村を選んだのか。
アルマやファルシオンは、優しい解釈を聞かせてくれた。
罪悪感から、フェイルの姿を目に入れたくなかったというアルマの意見。
禁忌とされている人体実験を行っている負い目から、自分の居住地から遠ざけたというファルシオンの意見。
どちらも甘く、そしてそれなりに筋が通っている、フェイルにとって耳に心地良い解釈だ。
だが、現実が非情である事を、フェイルはよく知っている。
そしてアルマも、ファルシオンも。
彼女達も、容易に想像出来た事だろう。
ビューグラスが実験体であるフェイルを遠ざけた理由は――――保身の為だ。
フェイルに行われた人体実験が、どの程度の危険性を帯びているのかは不明。
ただ、死亡してもおかしくないくらいの実験なのは想像に難くない。
生物兵器を用いた実験なのだから。
もし、当時まだ子供のフェイルが死ねば、同居していたビューグラスは怪しまれる。
事故を偽っても、彼と敵対する勢力が糾弾してくるのは目に見えている。
検死を行うから、子供の遺体を預けろ――――そう訴えてくるかもしれない。
そういうリスクが一つ。
また、別のリスクもある。
どちらかといえば、こっちが本命だ。
それは、生物兵器の実験そのものが周囲に何らかの悪影響を与える可能性。
例えば、フェイルの体内に毒を発生させ、その毒が体外に放出されてしまう――――そんなケースが考えられる。
無論、フェイルに投与された生物兵器がどのようなものなのかがわからない以上、憶測の域を出ない。
だが、憶測はかなりの確度で可能だ。
薬草の権威であるビューグラスは、薬にも、毒にも詳しい。
解毒剤の生成にも長けているが、『解毒剤が作れない毒』にも当然明るい。
その手の毒が生まれる可能性を予見するのも、そう難しくはないのだろう。
何より、現実としてジェラール村には伝染病による被害が生まれた。
それが病なのか否かは記録として残っていない。
大量に死亡者が出て、皆が苦しんだから、伝染病に違いないという認識だったと推察される。
病ではなく――――毒だとしたら?
そこに矛盾はない。
フェイルの体内で毒が発生して、それが村に放たれたとしても。
だから、両親も犠牲になった。
一番近くにいたから。
フェイルがその推測に辿り着いたのは、自身が薬草士としての見聞を深めた頃。
思いついたその日は眠れなかった。
自分の存在が、沢山の人たちを、一つの村を、壊滅させてしまったのだとしたら――――
「お前の背負った罪は、お前の意思とはおよそ関係のないものだ。だが、現実的にはお前そのものが兵器のようなものだった」
フェイルの思考は、デュランダルに読まれていた。
当然だ。
鷹の目、梟の目を意識した時点で、自分が遺伝実験体であった事を思い出さない訳にはいかない。
そこからの連想は、余りに自然だった。
「そこで一つの難題が生まれる。兵器そのものに罪があるのか? 人を殺める武器は悪なのか?」
禅問答としか言いようのない、確かに難題というべき問いかけに対し、フェイルは目を細める。
無意識下での行動。
それは紛れもなく隙だった。
だが、デュランダルはそれを突いて来ない。
これも当然だ。
彼は、最初からフェイルと敵対する気など微塵もなかったのだから。
「お前の立場と視点に変換しよう。弓矢と毒草。これらは罪深き存在なのか? 毒草と薬草は表裏一体。ならば薬草でさえも害悪なのか?」
答えなど――――出る筈もない。
断罪する意味のない無機物に対し、審判の必要はないのだから。
だが、人を殺傷する目的で作られた武器や、生まれながらに人を殺める力を有した物が許されるのなら、人を殺す目的で技術を磨いた暗殺者や、大勢の人間を捕食するとわかっている動物はどうなのか?
彼らが誰かを殺したという確固たる証拠なく、彼らの存在を悪だと見なす事は出来るのか?
出来ないのか?
「私はそうは思わない。人の命を奪うものが絶対悪とは言い切れないと考える。寧ろ、その殺傷力と技術が生み出す恐怖は、正しく運用されないリスクを考慮しても尚、この国に必要なものだと結論付けた」
「……随分、話が飛躍してきたね。でも、師匠のやってる事がやっと理解出来たよ」
「どの時点でお前に伝えるか、私なりに悩んでいた」
デュランダルは――――抑止力を作りたかった。
より強力な抑止力を。
それが、隣国デ・ラ・ペーニャとの戦争に主力兵として参戦し、国家の安全を担う騎士団の副師団長として国防の一翼を担い続けた男の出した答えだった。
「この国には、決定的なものが欠けている。わかるか?」
「……冠」
「そうだ。冠がない国は、守るべきものが真の意味で見えてこない。縋るものがない国は、いざという時に離散する。私はその現実を戦争で学んだ」
「学んだ? あの戦争は圧勝じゃなかったの?」
「我が国の圧勝だ。しかしそれを決めたのは武力ではない。交渉と、取引だ」
フェイルも既にそういう事実があるのを確信していた。
そして、その取引がメトロ・ノームに眠っている"何か"と関係している事も。
「その取引で得た収穫の一つが、お前の中にある」
「え……?」
「生物兵器は元々、魔術に対抗する為のもの。だが、お前に投与され、実験された生物兵器は違う」
既に、デュランダルの口から答えは出ている。
それは――――
「生物兵器に対抗する為の生物兵器……」
「そうだ。そして、我が国の中にはそれをエチェベリアの新たな冠としようとする方がいる」
その物言いは、明らかに身分が上の人物を想定していた。
「国王……ヴァジーハ8世」
デュランダルの顔の位置は変わらない。
ただ静かに、フェイルの二つの眼を眺めていた。