「病院ごと……か。元王宮所属の連中が院内を荒らし回っていたのは、お前の差し金だったって訳だな」
当然ながら――――個々が無闇に暴れ回った程度で大病院の施設が物理的に潰れるなど、まずあり得ない。
ただ、計画的に主柱を破壊して回れば話は別。
支える物がなくなれば、どれだけ巨大で優れた建材を使った建物だろうと、容易に崩れ去る。
「あらぁン。貴方だって、地下の柱を破壊して回るように言ってたんでしょ? 知ってるわよン♪ それとも――――」
スティレットの目はいつだって妖しく輝いている。
それは今も変わらない。
「誰かへのメッセージだったのかしら? 病院の柱を破壊されないように気を付けろ……とか」
彼女の恐ろしいところは、その目を冗談交じりの時も、警告や脅迫の時にも一切変えない点に集約されている。
それは人間には到底不可能だ。
ただ無表情でいるのとは訳が違う。
感情を抑えるのは難しくない。
感情を消すのは容易ではないが、不可能ではない。
感情を平坦化させるのは、ある意味では病と表裏一体ではあるが、実例は多数存在する。
しかし、感情を特定の状態で維持し、それを一定の揺らぎのまま固定化するのは、心のある者にはまず実演出来ない。
どれだけそのように演技しようとしても、必ず綻びは生じる。
演技でなければ尚更だ。
「ンな周りくどい事はしないさ。お前を怒らせたかっただけの話だ。俺がどれだけ口説いても靡かない女に、ちょっとした意地悪をしたかっただけさ。『死の雨』の供給管を減らすってだけの、下らない挑発だ」
「ふうン? 貴方が下らないって言ってする事が本当に下らないとは到底思えないけど? リジルちゃんはどう思うン?」
話を振られた生物学の権威は、若干の困り顔を隠しもせず、わざとらしく天井を仰いだ。
「ま、そうですね。その点はスティレットさんを支持します。でも彼の意図がどうあれ、批難はしませんよ。邪魔をするのも自由ですから。損得勘定だけの集いなら、僕はこの場にはいません」
「あらン、手厳しいわねン」
「生物兵器サイドとしましては、少々現状に不平不満を持っていまして。結構蔑ろにされているなあ、と」
リジルは怒りの感情など微塵も含まない声で、寂然たる顔を向ける。
彼もまた、外見年齢の数倍を生きた者ならではの、人間離れした感情の見せ方。
カラドボルグは冷笑を浮かべながらも実感する。
この場が如何に人間の常道を外れた者達の集いであるか。
自分が若輩者に過ぎないか――――を。
「そんな悲しい事言わないでン。随分良いデータが取れたでしょン? 剣聖のオジサマだって協力してくれたじゃない」
「その点は、まあ。僕はこの国のコアにはそれほど関心がないので、スティレットさんと衝突する事もありません。勇者候補リオグランテや、魔術士のハイト=トマーシュについても、お陰でレアケースの良質なデータが頂けました。とはいえ――――」
机の上を、指で叩く。
その音は決して大きくはなく、まして激情を示すものではない。
「貴方の弟への投与。これは頂けません。生物兵器の運用を著しく阻害しかねない、とても粗悪なやり口です。看過出来ません」
けれど、リジルがそのような行動をとった事は、これまで一度もなかった。
その過去が、彼のたった一つの何でもないこの所作を、特異に印象付けている。
怒りなのか。
怒りに見せかけているのか。
沈黙が、解釈の困難さを物語っていた。
「……そんなにダメだったかしら?」
結局、スティレットは洞察を途中で止めた。
それは非常に恐ろしい判断だったが、同時に正解でもあった。
「余り貴女に強い言葉は使いたくないんですけどね……後が怖いですし。でも、生物兵器を『人の価値を衰退させる』事に使うのは度しがたいんですよ。始まりは魔術への対抗でしたが、今はそこまで狭義的ではありません。でも、麻薬と同じような扱いをされれば、開発者の一人として抗議せざるを得ません」
「成程。リジル殿の意見は尤もだ」
議論の外にいたビューグラスが割って入る。
明らかに仲介の為。
「儂にも経験はある。薬とする為の研究が、その成果が、快楽を得る為の道具にされた経験が。決して心穏やかではいられん。人生を汚された心持ちになる故にな」
「そうなのン? あたしにはそういうの、よくわからないかしらン。でも不肖の弟にアレを投与したのは、価値を下げる為じゃないのよン」
それでも尚――――
「だって、憧れのあたしに一歩でも近づけたんだもの。本望だと思わない?」
スティレットは動じない。
淡々と本心を述べている。
決して論点が交わらないと確信しながら。
「……結局、弟をどうしたかったんだよ? この街でも有数の実力者だったんだろ? 生物兵器漬けにする意味はあったのかよ」
たまらずカラドボルグは問いかけた。
スティレットの他のあらゆる行動は、道義的観点では到底許されざるものではあったが、彼女の利益に繋がるという観点において合理的だった。
だが、バルムンクに生物兵器を投与し、正気を失わせるという行動だけは、どうしても理解が及ばなかった。
例え彼がアルマに心酔し、アルマを匿おうとしていたとしても――――スティレットには剣聖が付いている。
身内の情を無視するならば、正攻法で十分に倒せただろう。
生物兵器を投与し、バルムンクを凶暴化させるリスクを冒す理由が見当たらない。
まして、彼から理性を奪えば、身内しか知り得ないスティレットの何らかの情報が外部に漏れる恐れさえある。
カラドボルグには百害あって一利なしの方策としか思えなかった。
そして同意見だからこそ、リジルも異議を唱えているのだろう。
そんな疑念に満ちた目に対するスティレットの答えは――――
「あの子はああ見えて、あたしの弟なのよン。あたしと同じ血を引いているんだから、『あたしのもう一つの可能性』を見せてくれたって思わないかしらン?」
冷酷そのものだった。
生物兵器を体内に宿した自分の、別の可能性――――それを実験する為の道具に、実の弟を使ったと、彼女はそう言っている。
「……そうかよ」
反論する気にもなれず、カラドボルグはそれだけを返す。
同時に、現状を正しく把握した。
最早、迷う余地は何処にもないと。