矢を突き立てた感触は、あまりにも柔らかく、そして手応えのないものだった。
既に筋肉を硬直させるほどの力は残っていなかったにせよ。
フェイルはその理由を知っていた。
デュランダルにとって、フェイルに息の根を止められるのは、予定通りの結末。
自分が思い描いていた過程こそ幾つか叶わなかっただろうが、ようやく解放されるという安堵に満ちた瞬間だったに相違ない。
それだけに、歯痒い思いが全身を駆け巡る。
国の宝、未来とさえ言われていた男が、こんな結末を最上と位置付けていたなど、認める気にはとてもなれそうにない。
だが認めなければならない。
腐敗しきった現状を。
「不思議なものだな」
フェイルの嘆声が聞こえる筈もないが、感じるところはあったのか――――沈黙に取り憑かれたように静まりかえっていた室内の空気を、ビューグラスが払った。
「不死性を宿す生物兵器もあれば、期限付きの異能を備えさせる生物兵器もある。やはり、命あるものは一括りに出来るものではない」
この状況下にあって、紡ぐ言葉は研究者のそれ。
現実を受け入れられず膝から崩れ落ちたアルベロア王子の隣で、鋭く、それでいて探求心に由来する粘性を宿した目を、フェイルに向けている。
「これで、世界の恥部に触れる権利を残したのは儂と流通の皇女、そしてお前か」
「……僕はそんなものに興味はないんだけどね。残ったのが阻止したい二人なら、結局同じ事になるのかな」
その返答は、声が上ずっていた。
今し方、物言わなくなった師匠を目の当たりにする事は出来ず、フェイルの中には奇異な感情が渦巻いている。
師匠を失った実感と、その手にかけた実感。
師匠を失った実感を抱けない自分と、現実を直視出来ない自分。
相反するものが余りに多く、感情が麻痺しつつある。
けれど、落胆や自責の念はない。
国の背負う事など到底出来ないが――――デュランダルが最早後戻り出来ないところまで来ているのは、彼がリオグランテを殺した時点でわかっていた。
既に助かる見込みはなく、『死神ではなく弟子に終わらせて欲しい』と希望した師匠の最後の願いを断る訳にはいかなかった。
避けられない道。
でも、そこを進む事に苦悩がないなどと、どうして言えるだろうか。
故に、ビューグラスとの会話、そしてまだ重大な仕事が残っている現状は、フェイルにとってはある種の救いだった。
「儂が何をしようといているのか、お前にわかるのか? それとも……親子だからわかるなどと、御伽噺じみた事を言い出すつもりじゃあるまいな?」
挑発的だった。
その物言いに、フェイルは強い違和感を覚えた。
見えないが、わかる。
彼は変わってしまった。
幼少期の印象とも、仕事を請け負っていた頃とも、今のビューグラスの印象は大きく異なる。
間違いなく、今の彼は――――高揚している。
「僕は貴方を理解しようとは思わない。今の貴方に感情移入出来るところは何もないし、まして血の繋がりを感じるような感覚は一切ない。だから、貴方という人間を客観的に分析してみた。一応、それなりに近くで見てきたからね」
「面白い。お前が儂をどう見ているのか、聞かせて貰おう」
「……オジサマ?」
珍しく長い沈黙を保っていたスティレットが、これも珍しく苛立ちを露わにした。
二人のやり取りは、彼女にとって何のメリットもない。
それでも、余興として楽しめるのが彼女の性質だったが――――現在、それが失われている。
誰も彼も平常心ではない。
当事者ではないファオ=リレーやハル、既に脱落したハイト、そして姿なきもう一人も。
「貴方がやって来た事は、大量殺人を前提とした人体実験。国家ぐるみの犯行だ。被験者の中には僕も含まれていた。目的は、生物兵器の散布によって人間を大量に殺す効果的な方法がないかの模索……じゃない。生物兵器を取り込んだ人間がどう変容するか、その変容パターンを確定させる為の実験だ」
毒を散布するのとは根本的に異なる。生物兵器を毒代わりにするのは、コスト面でも効率面でも全く不合理。その可能性は全くない。
だが、逆に生物兵器を軍事等に活用するのであれば、人道的な面を無視する事で、一応の意義は生じる。人間が別種の生物の要素を体内に取り入れる事で生じる様々な変容は、人類そのものの可能性を模索する事にさえ通じるからだ。
「貴方の目的は、その実験を完成させる事じゃなく、軍事利用をはじめとした生物兵器の運用に薬草学が不可欠であると証明する事。僕はそう判断した」
これまでに経験した様々な抗争、多くの助言や犠牲。
そして、アニスの現状と、ビューグラスのアニスに対する扱い。
それらを総合的に判断した結果、ビューグラスの本当の目的の中に、アニスの治癒は――――ないと結論付けた。
「ほう。ならば、その証明に何故『世界の恥部』が必要なのだ?」
「今は実験不可能な、生物兵器と薬草学にまつわる情報が、その中にあると貴方は踏んでいる。違う?」
矢を離した手は、ずっと痺れている。
気を抜けば嗚咽を漏らしそうな衝動が、何度も押し寄せてくる。
それでもフェイルは、ビューグラスに持論を叩き付け続けた。
「かつての花葬計画は、ロイヤル・パルフェ、マンドレイク、グランゼ・モルトの三つを主成分とした薬による安楽死をテーマにしていた。でも今は、これらの材料が枯渇していて、実験は不十分。だからその三つ、或いは別の希少種を使った人体実験のデータを貴方は欲している」
「なるほど。最初の花葬計画の時点で、既に生物兵器が絡んでいるとお前は踏んでいるのか。だからその実験データの中に、儂が欲している情報があると」
「多分貴方は、当初はアニスを治そうとしていた」
フェイルの指摘は淡々と行われた。
既に諦めてしまったから、それが出来た。
「偶然、生物兵器を取り込んでしまったアニスを治すには、人間を生かし、生物兵器だけを殺す毒が要る。その発想から、安楽死を研究した花葬計画……当時の鎮魂計画に辿り着いた。けれど貴方は、当初の目的を捨ててしまった。薬草学がこの国にとって最重要となる筋道を見つけてしまったからだ」
薬草学の権威にとって、父にとって、娘よりも大切なものがあった。
この事実を受け入れない限り、ビューグラスの暴走は止められない。
歯軋りしながら、フェイルはそう確信していた。
「生物兵器を殺すんじゃなく、恒久的に生かす。そして暴走を許さず、力の増幅や特殊能力の発芽などの恩恵を残した上で、取り込んだ人間と共存させる。それを可能とするのは、種類によっては数千年生き、傷付いた茎葉を完璧に再生させる"植物"だ。だから、生物兵器に植物の特性を持たせればいい。国家からの依頼とは別途に、貴方はその可能性を模索していた」
光なきフェイルの眼差しを向けられたビューグラスは、眉間に深い皺を刻んでいた。
「それが、指定有害人種の正体だ」