流通の皇女の溜息は、これまで多くの人間に絶望を与えてきた。
彼女の失望は融資の打ち切りを意味し、それによって路頭に迷う羽目になった人間は決して少なくない。
だが、今ここで落とされたスティレットの吐息は他者に向けてのものではなく、心から漏れ出た自己の気化とでも言うべき類のものだった。
「だから世界の恥部を求めたと? ヴァールの一族と同じ種類の研究をした国や機関が存在しないか」
ファルシオンのその発言は、彼女が状況だけでなくスティレットの思惑や背景までをも理解していた証。
ただ、彼女の言葉をスティレットは口の端を釣り上げ、完全否定した。
「生憎、そんな研究が他でされていない事くらい、世界の恥部を覗くまでもなく調べられるのよね。だからあたしは、理想の国を作ろうと思ったのよ。だってそうすれば、仮にヴァールやその一族がこれ以上研究を発展出来なくても、ヴァールがあたしを裏切っても、違う誰かがあたしの為に自律魔術の研究を進めるでしょ? あたしを信頼する人間しかいない国なんだから」
彼女が世界の恥部に欲しているのは、ただ一つの真理だけだ。
故に迷いはない。
「ファルシオンちゃん。この世で一番信頼関係を得られるものってなんだと思う?」
「それは……」
思わず言い淀む。
一瞬、とてつもなく恥ずかしい事を言いそうになったからだ。
「先に言っておくけど、お金はダメよ。有効なようで、実際には大して信頼には繋がらないのよね。意外と人間ってロマンティックなの。あと洗脳もダメ。短期間なら有効でも、長期間だと脳が壊れてダメになっちゃうみたいだから」
そんなファルシオンの心を見透かしつつも、スティレットは敢えて彼女が決して答えないであろう二つの誤りを示した。
そして、弛ませていた口元をゆっくりと元に戻す。
「絶対的な信頼関係の源になるものはね――――弱味」
スティレットの回答と同時に、ビューグラスは顔を歪ませて笑みを浮かべる。
彼もまた、同じ持論を持っている。
フェイルは静かにそう解釈した。
「人間、弱味があるのは決して悪い事じゃないの。それがあった方が他人から好かれるし、近付いても来るのよね。人は他人の弱味が大好きだから、それを握れば勝った気になれる。逆に、握られても負けた気にはならない。苦痛か屈辱はあるかもしれないけど。だから、弱味で繋がった人間同士は意外と衝突しないのよね。噛み合うのよ」
「弱味ね……つまりアンタは、世界の恥部とかいうワケわかんねーモンで世界中の弱味を握りてぇワケだ」
今一つ話について行けてなかったハルだったが、この話題だけはピンと来るものがあったらしく、胸糞悪そうに問いかけた。
彼自身、父親への劣等感をはじめ様々な弱味を持っている人間。
それが色んな人間との繋がりを作った事は、認めざるを得なかった。
「どうかしらね? 世界中、全ての権力の弱味を握る。それが正解なら、きっと貴方の頭の中くらい単純に事が進むんでしょうけど」
「ンだとコラ! ケンカ売ってんのか!?」
「争いなら、とっくに始まっているじゃない。この場で世界の恥部を見る事が出来るのは一人だけなんだから」
――――その発言の瞬間、既に意識ない者を除く室内の約半数の人間が眉を顰めた。
「……それは聞いていなかったぞ。余を騙したというのか?」
特に顔を歪めたのは、デュランダルを失い戦意喪失状態にあるアルベロア王子。
その身体は、怒りで震えていた。
「そんな大それた事考えていないから、組もうと提案させて頂いたのよ? 王子サマ」
まるで子供を諭すような物言い。
王族であるアルベロア王子にとって、かつてない屈辱が押し寄せてくる。
「世界の恥部を覗くのはあたし。でも、王子サマが望む情報は提供してあげますわ。あたしが作る国を、エチェベリアから独立させてくれるなら……ね」
メトロ・ノームで国を興し、分離独立する。
それこそが最終目的だと、スティレットは吐露した。
「王子サマが王サマになって、あたしの国を独立させてくれるのなら、自由国家を全力で応援してあげる。悪い話じゃないでしょ?」
「バカな。貴様にこれ以上の力を持たせるなど……」
「あたしが怖いの? 王子サマ」
不敵に笑む。
スティレットの妖艶な笑顔の前には、魔女という言葉すら余りに弱々しい。
既に意思の力が弱まっているアルベロア王子に、対抗出来る程の胆力は残っていなかった。
「冗談ではない……! 二代にわたって女にいいようにあしらわれるなど、王の名が廃る……!」
「仕方あるまい。彼女は流通の皇女の二つ名に相応しい稀代の傑物。骨抜きにされた父君は兎も角、まだ若い殿下が敵わずとも、それを恥だとは思わぬ事だ」
歪んだ笑みをそのままに――――ビューグラスはゆったりとした所作で、スティレットの正面に回った。
「世界の恥部を覗けるのは一人だけ。儂も聞いていない話だ。説明願おう」
「説明するほどの事でもなくてよ、オジサマ。世界の恥部を封印しているアルマ=ローランは人間ではなく魔力そのもの。そこから記録だけを抜き出すのは無理なのよね。魔力ごと取り込まないと」
「魔力……そのもの?」
事情を知らないフランベルジュが、アルマの正体に反応を示す。
当然だ。
彼女だけでなく、ハルにとっても、ファルシオンにとっても、そして――――フェイルにとっても、今のスティレットの言葉は到底鵜呑みになど出来ない話だった。
今まで普通に会話し、喋れない時間帯はあったものの普通に意思の疎通が出来ていた彼女が、人ではなく魔力だと言われたところで、信じられる筈もない。
「……」
ヴァールのように、予備知識がなければ。
当然、それがないフランベルジュとファルシオンは困惑するしかなかった。
「待ってよ。魔力そのものって何? あの子は人間でしょ?」
「人間性を凌駕するほどの膨大な魔力を持っている……それを誇張した例えですか?」
「面白い事言うじゃない。それも間違いじゃないわね。でも正解でもない。貴女達が人だと思って接してたあの子はね、魔力に人格を持たせただけの存在なのよ」
言葉に詰まる。
何を言っていいのかわからない。
そんな面持ちで、二人は絶句するしかなかった。
そして、そんな二人以上にアルマと親しくしていたフェイルは――――
「……道理で」
それだけを答え、納得したような顔で虚空を眺めていた。
「フェイルさん……?」
「アルマさんは、どうあってもアルマさんだよ。あんな人、他に二人といないしね」
その平然とした受け答えは、ファルシオンとフランベルジュだけでなく、二人の関係性を知る者であれば驚きを越えて違和感や不信感さえ抱くような内容だった。
だが、どうでも良いといった投げやりな態度でもない。
フェイルの真意が掴めず、ファルシオンが疑念を口にしようとしたその時――――
「重要なのはアルマ=ローランの正体ではない。彼女の中の情報を魔力ごと取り込むという行為が、一度しか行えないと示唆した先程の発言の真偽だ」
ビューグラスの声に怒気はない。
あるのは、静かな狂気。
「流通の皇女よ、嘘は許容出来ぬぞ。もし嘘をつけば……この場にいる全員、アルマ=ローランさえも例外ではなく、死に絶える事になるのだからな」
彼もまた、命という弱味を握る事で目的を果たそうとしていた。