――――気高き女性だった。
己の信念を貫き通し、女性であっても剣の道で未来を切り開く。
国を変え、世界を変えると本気で考え、その為の最短距離を直走る。
そんな女性だった。
だが彼女には、大事なものがもう一つあった。
妹がいた。
盲目の妹だった。
見えない目は未来をも閉ざす。
現代の医療ではどうする事も出来ず、彼女は光を感じる事の出来ない一生を歩む事になる。
歩めれば良い。
けれど現実には、這いずり回ってどの方向が前かを懸命に探し続ける、そういう人生を送らなければならない。
そういう運命にあった。
毎日が逡巡だった筈だ。
妹の手を取り、光にはなれなくても前が何処かを教える事は出来る。
そうすれば、前に進む人生を一歩一歩共に歩める。
でもその場合、剣を同時に持つ事は出来ない。
剣か、妹か。
夢か、肉親の情か。
彼女は――――クトゥネシリカ=リングレンはずっと、その迷いの中で日々を送っている。
フェイルはそう感じてた。
「……迷い、だと?」
弓兵であるフェイルにとって、クトゥネシリカは必ずしも同列で並び得る存在ではなかった。
だが、クトゥネシリカにとって最短の道であるデュランダル=カレイラへの師事を世界で唯一叶えている以上、彼女の人生の延長線上にフェイルはいる。
どちらが前にいるのか、それはわからなくとも。
だから、聞かずにはいられなかった。
早朝のランニングで偶然鉢合わせた幸運を使って。
「うん。シリカは迷った事ない? 自分の人生に」
フェイルはあった。
弓矢という武器をこの世界に残す、その目的自体に迷いはないが、方法に関しては毎日が試行錯誤。
今でも、接近戦を身に付ける事が果たして正しいのか、常に時も自答しながら修練を積み重ねている。
「そんな事をお前に答えて何になる。そもそも、お前と私では所属が違う。語らうような関係でもない」
冷たく感じられるクトゥネシリカの返答は、いつだって嫉妬に満ちていた。
彼女にとってフェイルは、この世の誰よりも忌むべき存在。
デュランダルの弟子という一つしかない椅子に、剣士でもない部外者が堂々と腰掛けているのだから。
「でも、僕が何か感銘を受けるような返答だったら、それ多分師匠に話すよ。今日はこういう話を聞いた、って」
「馬鹿馬鹿しい……勘違いするなフェイル=ノート。自分はデュランダル様に構って貰いたいと思っている訳じゃない。あの方から剣を教わりたいだけだ」
「でも師匠は技術だけじゃ強くはなれないって日頃から言ってるけどね。日々の中で誰と会話して、誰の思想に耳を傾けるかも大事なんだって」
強くなる最低条件は、他者の優れた部分にどれだけ目を向け、吸収出来るか。
デュランダルは毎日のように、フェイルにそう諭している。
出来るだけ多くの人に会い、話をして、その人物の事を知りなさいと。
「……今の話、本当か。お前の作り話じゃないだろうな」
「作る理由が一つでもある?」
「ないな。だとすれば自分は今、デュランダル様の薫陶を受けたも同然……なのか」
実際には、そこまで大袈裟なものではない。
ただ、デュランダルが他人に言葉で教えを説く事など滅多になく、その事をフェイルはまだ知らなかった。
「し、仕方ないな。良いだろう、今の金言の駄賃に、先程のお前の質問に答えてやろう」
「涎出てる」
「で、出てない! バカにするな! 幾ら感動していてもそこまで己を崩してなどいな……!」
そこまで叫び、クトゥネシリカは口の端が湿っている事に気付いた。
「……見苦しい所を見せて済まない」
「いいよ別に。シリカが師匠を大好きで仕方ないって事くらい知ってるし」
「だから違うと言ってるだろうが! そういう、その、世俗的な好意で自分やデュランダル様を語るな馬鹿!」
今に始まった事ではなかった。
クトゥネシリカを冷やかす事で、空しくなる心情を味わうのは。
フェイルは余り友達を作らない。
特に同世代に関しては皆無に等しいほど。
理由は単純で、近い年代の他者と接する機会が殆どない人生だったからだ。
まずその時点で、クトゥネシリカはフェイルにとって特殊な存在だった。
年齢で言えば、彼女の方が少し上だが、世代という括りなら十分同じ枠に入るし、何より同期。
フェイルが宮廷弓兵団に入るよりほんの少し前、クトゥネシリカも騎士団に入った。
エチェベリアの騎士団は、銀朱を筆頭に最大八つの団があった。
だが戦乱の世ではなくなった時期に一つ二つと減り、ガーナッツ戦争終戦後は目立った戦争もなくなった為、現在は半分の四つにまで減少している。
尤も、これは軍事の縮小ではなく、用途を細分化させる必要がないからだ。
クトゥネシリカは当然、銀朱への入団を希望した。
とはいえ彼女自身、まだそれだけの腕はないと自覚もしている。
高い目標を掲げつつ、現在出来る事をしようと努力を積み重ねている最中だ。
王宮騎士団【鋼煉】所属の一般兵。
それが、クトゥネシリカの現状であり、そして――――限界だった。
「迷いはない。フレイアを一緒に連れてきた事が、自分の決断の全てだ」
誰もが、彼女を甘いと評した。
目の見えない妹の世話をしながら、女性剣士として上を目指すなど、無謀だと鼻で笑った。
露骨に煙たがっている者も少なくないと、フェイルはガラディーンから聞いていた。
「……その事で色々言われているのは知ってる。フレイアまで悪く言われるのは、正直……辛い」
クトゥネシリカも、そういう自分の現状を理解している。
だからこそ、デュランダルを追いかける彼女を快く思わない者は多い。
彼の庇護下に入れば、誹謗中傷など出来なくなると考えているに違いない――――そう思われている。
「でも、あの子は自分にとってたった一人の妹だ。自分が面倒を見るのは当り前の事なんだ」
それでも、クトゥネシリカは揺るがない。
揺らいでいても、それを決して口にはしない。
フェイルは、そんな気高い彼女を心から尊敬していた。
「……両親は?」
「健在だ。この世界の何処かにはいるだろう」
答えとしては、それだけで十分だった。
「そっか。ありがとう。聞きたい事はこれで全部」
フェイルにとっては、この上なく充実した時間。
そしてこの日聞いた言葉は、フェイルの心の中に色濃くいつまでも残り続ける事になる。
「自分も一つ問おう。他愛のない事だが」
「いいよ。何?」
「お前は、自分が今どれだけ恵まれているか、考えた事はあるか?」
それは、妬みと悪意と、羨望と優しさが混じり合った複雑怪奇な質問だった。
だから可能な限り、単純に答える。
「ないよ。そんな暇は」
「……嫌な満点回答だ」
気持ちが昂ぶったのか、クトゥネシリカは珍しく口元を緩めながら、でも眉尻は上げながら、フェイルの肩を拳で突き、ランニングを再開した。
その方向に、フェイルが進むべき道はない。
「はぁ……」
なんという事のない朝の風景に溜息が漏れる。
劇的な事など期待していなかったが、それでも余りに虚しく、そして実りある会話だった。
――――自分にとってたった一人の妹だ。自分が面倒を見るのは当り前の事なんだ
多大な影響を受けた記憶の欠片が一つ、フェイルの光なき目に映った。