フェイルは自分が狂っているなど一度として思った事はないし、他人にそう言われた事もない。
変わった人生を歩んでいる自覚はあるが、心の中に狂気を宿しているほど道を踏み外している自覚はなく、まして狂人の思考をトレース出来るような人生を歩んだつもりは微塵もなかった。
「国王の目的は、生物兵器の制御だ」
だが、この推測に淀みはなかった。
確信と言っていいほどの感覚が、左半身から少しずつ滲んでくる。
それが何を意味するのかは全くわからなかったが。
「あら、貴方もお仲間だったのね」
「生憎、外道の仲間入りをしたつもりはないよ。ただ、ずっと考えてはいたけどね。生物兵器を自ら取り込んだ人の気持ちを」
思考を共有しているスティレットもまた、その一人。
だがフェイルが思い浮かべている人物は別にいる。
「師匠……デュランダル=カレイラが何をもって生物兵器を受け入れたのか。理屈はわかるよ。あの人は負けちゃいけなかった。誰にも負けられないから、生物兵器を取り込んだ人間にも、やはり負けられない。なら、対抗するには同じ事をするしかなかった。理屈はわかるんだ。でも納得が出来ない」
「どうして? 貴方はあの男の全てを知っている訳ではないんでしょ?」
「師匠が僕の面倒を見た理由を考えれば、大体わかるよ。あの人は僕だけを手元に置いていた。僕を何故か信じていた。いずれ作る特殊部隊の筆頭に据える為に。普通ならどう考えてもあり得ない」
「ふーん?」
思考は共有されている。
フェイルの考えている事は、スティレットにも即座に把握出来る。
それでも、スティレットは自分から口に出すほど野暮ではなかった。
「師匠と僕は、一部重なる所があった。似てたんだ」
似ているから、考えが読める――――というほど単純ではない。
まして、信頼できると断言できる筈もない。
あるとすれば、それは故郷のような、身内のような安心感。
デュランダルは、安心したかった。
フェイルはそう解釈していた。
「僕を据えれば、安心出来る。それだけの事だったんだよ。もし僕に裏切られても、師匠は後悔しなかったと思う」
「でも貴方は最期まで面倒を見てあげた。彼を殺す役目……それこそが、特殊部隊の最後の仕事。そんなところ?」
「……」
特殊部隊とはすなわち暗殺部隊。
汚れ仕事を専門にする、薄暗い世界の誉れ。
何故それをデュランダルが欲していたのか。
自分を信用していないであろう国王に対抗する為?
自分と命のやり取りをしようと画策していたガラディーンとその派閥に負けない為?
否。
デュランダルは――――いざという時に死ぬ準備をしていた。
自分が制御不能になり、エチェベリアにとって悪となるのを懸念し、そうなる前に命を絶つ手段を模索していた。
「世界中で貴方だけが、あの銀の仮面を砕けるって、そう信じていたのね。男って時々そういう意味不明な思い込みに走るのよ」
「……確かにそうかもしれない」
フェイルとて、デュランダルの意図を汲み取っていた訳ではない。
ただ、彼が最後に自分を指名した事で、ようやく理解出来た。
白い信頼と黒い信頼があるとすれば、デュランダルが自分に寄せていたのはどっちだったのかを。
「だから、生物兵器を頼る人間の心理は理解できる。他は何一つ共感できない王だけど」
「そーねえ……ま、変わった御仁よね。でも貴方の言う通り、彼が注力していたのが生物兵器なのは確かよ。やけにこの国に流入している理由がそれ。オジサマと組んで、この国全体を実験場にしていたんだから」
「……っ」
既に予想はしていた事。
だが嘘のない今のスティレットに宣言された事で、フェイルはやりきれない思いを持て余すしかなかった。
実の父が、この世で最も外道な行為――――無差別大量殺人に進んで関与している。
しかも自国の民を犠牲にしている。
その血が自分に流れているのを自覚すると、心が折れそうになる。
「血なんて幾ら繋がってても、所詮は別の身体よ」
「……バルムンクさんに対しても、そういう気持ちだったんだね」
「そうよ。あの子はあの子。結局、それがわからないまま逝っちゃったけど」
ふと――――スティレットの思考が一瞬、フェイルの中に混じり込む。
『なあ……俺はもうすぐ死ぬのか?』
バルムンクの声だった。
常に強く、常に強気だった彼の、不安げな声。
フェイルの記憶の中にあるより、もう少し若い声だった。
「色々あるのよ。色々と。薬草士ちゃんもそうだったように、ね」
「……病気だったの? そんな素振りは全くなかった」
「そう? あたしには焦ってたように見えたけど」
スティレットの目にそう映っていたとしても、フェイルには判断出来ない。
ただ、アルマに対するバルムンクは確かに何処か焦っているようには見えた。
同時に――――遠慮しているようにも。
「あの子の性格上、本気で愛しているのなら、何があっても優先して守ろうとしたと思うのよね」
「……自分がいずれ出来なくなるから、敢えてそうしなかった?」
「ま、それは憶測。っていうか、今はあたし達の事はどうでもいいのよ。薬草士ちゃんが知りたいのは、違うでしょ?」
指摘の通りだった。
フェイルは、両肩を抱いて歩く方に正面を向けさせる母親のようなスティレットの言葉に従い、探索を続けた。
時間の感覚はない。
睡眠もなければ空腹もない。
ただ流れる映像、声、時折揺れる感情のような風に身を任せる。
世界の恥部の多くは法律に違反する事や非人道的な行為ではなく、要人の歪んだ性癖や浅ましい一面だった。
だが時折、とてつもなく邪悪な意識が割り込んでくる。
肌の色。
出自。
障害。
――――差別は金になる。
戦争は栄誉になる。
宗教は。道徳は。神は。
ありふれたそれらの意識を、フェイルは素通りした。
どれくらい時が経ったのか。
やがて、フェイルは到達した。
アルマを元に戻す方法。
生物兵器から解放される方法。
この二つは――――
「関連してる……のか?」
ヴァジーハ8世が求めているものの中にある。
世界の恥部を覗き続け、まるで星の数を数え終えたような感覚になった末に得た結論だった。
「そう。同じ。アルマ=ローランは魔力そのものなのだから、魔力さえ制御できれば後は自分の意思次第。つまり自律魔術が鍵を握るの。でも、それだけじゃ足りない」
自律魔術を用いてアルマの意識と繋がる事自体は、この世界の恥部に触れた時点で行っていた事。
足りないのは――――復元力。
「生物兵器によってもたらされる、あの奇跡のような『死ねない力』と『活性化する身体』。それを突き詰めれば、アルマ=ローランはいつか以前の状態に戻せるかもしれない。でも……」
「それがある限り生物兵器は残り続ける。いや……歴史から抹消しない限り、なくならない……のか?」
フェイルの両目が、その未来を視ていた。