――――その日、空は暗雲に包まれていた。
しかしそれは決して、誰かの不幸を暗に示したものではない。
世界は平等に空を映し出す。
晴れの日も、雨の日も、全ては同じ空の下で暮らす人々の目にあるものでしかない。
もしそこに意味があるとすれば、誰かが幸せを掴むその裏で、誰かが不幸せを被っているこの世の在り方そのもの。
曇りの日に不幸せな一日を過ごす者は必ずいる。
何故なら、世界中の全ての人々が幸せか平凡に過ごす一日など、決して存在しないのだから。
「……」
エチェベリア国王、ヴァジーハ8世の顔色は、謁見の間の証明によって映し出された色そのままに染まっている。
彼の感情が入り込む余地はない。
「陛下。お初にお目に掛かります。かつてこの王宮で宮廷弓兵団に所属していた、フェイル=ノートという者です」
畏まるでも跪くでもない。
ただ言葉だけの礼儀に、何の意味があろうか。
フェイルの心境そのものが、言葉になっているだけの事だった。
「世界の恥部を覗いた者でもあります」
この怠惰の王が最も関心を示すであろう情報を、敢えて提示する。
だが彼の顔色が変わる事はない。
変える術を知らない、と言い換える事も出来る。
「恐れながら、貴方はこの国の恥部でした。保身の為に多くの有能な国民を殺してしまった。権力、人気、存在感……何かにおいて自分を脅かす存在を、貴方は悉く葬り去る。僕がこの王宮にいた頃から……いや、そのずっと前からそうしていたのでしょう」
扉を閉め、フェイルはゆっくり前身を始めた。
「僕を暗殺者として育てようとした人がいます。その人は、この国の為に私設の特殊部隊を秘密裏に作ろうとしていました。どうしても、それが必要でした」
一歩一歩、何かを懐かしむように、或いは捨てていくように、フェイルは歩を進める。
「貴方を人知れず始末する為だと、結論付けました」
止まる。
玉座に座る国王までの距離は、普段謁見する者が膝を落とす位置と寸分違わず。
彼が赦す、最大限の譲歩の距離だった。
「遅ればせながら、役目を果たすべく馳せ参じました」
背負った弓を左手で掴み、矢筒に入れた矢の羽を末弭で引っかけ、宙に浮いた矢を右手で取る。
何度も何度も繰り返してきた所作だ。
「毒が塗ってあります。よって、心臓か脳に突き刺さらない限り、貴方の死因は毒死という事になるでしょう」
弓を構える。
何一つ奇を衒わない、道場にでも通えば最初の内に倣う基本態勢。
尤も、弓矢を教える道場など、今の時代もう存在していないが。
「殺します」
言葉も飾らず。
フェイルは真っ直ぐに弓を引き、矢先を自分が生まれ育った国の王様に向けた。
ここに至るまで、フェイルは何一つ、国王の反応を予想してはいない。
よって、どのような反応をされても、予想通りでもなければ、予想外でもない。
なれば――――
「今日の天気が、自分の心情を映し出していると思った事はあるかね?」
どのような言葉が、どのような表情が向けられたとしても、動揺する事はない。
無の境地とは、そういうもの。
それが暗殺者としての出発点であり、終着点でもあった。
「いえ。思いもしません」
「そうか。私はあるよ。生まれながらに王となる宿命を背負った自分が、この世界の全てを支配していると感じる瞬間。それが唯一、王である事を忘れられる時間だった」
怠惰の王は、安寧だけを欲した。
それは、多くの犠牲のもとに成り立つものだったが、躊躇はなかった。
全ては――――
「……苦しき日々だった」
己の弱さ故に。
「冥土の土産に、父親の話でもしましょうか」
そこに感情はなく、フェイルの声は誰一人駆けつけようともしない謁見の間に響く。
この城にいる誰も、心からこの国を支えるべき人物がここにいるとは思っていない。
剣聖が退き、それを継ぐ筈だった男が帰ってこない事で、決定的となった。
誰が手を汚すか。
既にそういう段階だった。
「僕の父親は、色んなものを背負っていました。薬草を極めようとする者として、地方都市ヴァレロンの重鎮として、エチェベリアを代表する使者として、病床に伏す妻の夫として……たくさんの重責を担っていました。彼は、その全てを自分の力で果たそうとしていました。けれどいつの日か、それは不可能だと悟りました」
ヴァジーハ8世の態勢は変わらない。
背もたれに身体を預け、肘掛けに右肘を突き、右手で頬杖を付きながら、身体を傾けて話を聞いている。
「彼が最初に斬り捨てたのは子供でした。次に妻。要は家族ですね。そうする事で少しだけ軽くなった彼は、薬草士としての本懐を遂げました。自分の人生を捧げた薬草で、教皇と王の望みを叶えたのです。めでたしめでたし」
感情はこもっている。
だがフェイルの心に、言葉を生み出すだけの熱は既になかった。
「その男が、自分のやりたい事をやり尽くした男が、最後に妻を治す事を放棄した自分の人生を懺悔しました。話は以上です」
然したる意味はなかった。
ただ、本当に冥土の土産があるというのなら、こういうものこそ相応しいと思っただけの事だった。
「……私は、特に何もない」
反応があった。
そういう事もある。
フェイルは弓を引く右手に微かな揺れを感じた。
「本当に……驚くほど何もないよ。いつかこうなる事をずっと恐れていた筈なのにな。絶対的な忠誠など、何の保証にもならないとわかっていたのだが。それを裏切られても、私には何も生まれて来ない」
「それは多分、貴方が何でもなかったからだと思います」
何でもないのだから、何かが生まれる筈もない。
生まれてから今日まで、彼は一度として何者かであった事はなかった。
「勇者という称号を提唱したのは、ヴァジーハ1世……貴方の祖先でしたか。強いて言えば、貴方はその人物に勝ちたかったのでしょう」
「私が……?」
「ただの予想ですよ」
本当に、何の意味もないやり取りだった。
「そうか……そうだったのか。私は、ただ与えられたものを守ろうとしていただけではなかったのか」
納得したように、或いはそう自分に言い聞かせるように、ヴァジーハ8世の名を与えられた初老の男は、何度も小刻みに首肯した。
その身体が一瞬だけ痙攣し、肘掛けから腕が落ちる。
背もたれに身体を預けたまま、その身体はやがて腐りゆく肉塊となった。
「違うよ。そんな訳がない」
最後に与えた希望は、彼自身、納得している筈がなかった。
納得したかっただけの事。
フェイルが、そんな怠惰の王の願いを叶えたのは、彼に何が間違っていたのか、何を誤ったのかを考えさせない為だった。
もしかしたら、その中に本当の救いがあるかもしれないから。
「……リオ。ウェズさん」
仇は討ったと、声には出さない。
心も言葉は発しない。
ならばこれは、一体何なのか。
「アバリス隊長」
恩師でもないその名を呼んで、構えを解く。
教わってはいない。
ただ、時間だけがそこにあった。
「貴方が言った事を一つだけ、否定させて下さい」
『フェイル、最後に一矢撃ってみたらどうだ? 虚空に向けて撃つのは気持ちが良いぞ』
既に物言わぬ王の亡骸を一瞥し、踵を返す。
「気持ち良くはないです」
そのまま、来た時と同じ歩幅で謁見の間を後にした。
エチェベリア国王ヴァジーハ8世が崩御したこの日の午後――――
エチェベリアの多くの街で、雲間から光が差し込んでいた。