「うーん……うーん……グリズリーが……鬼嫁グリズリーが襲って来る……」
そこは、レヴォルツィオン城内の救護室。
壁に打ちつけた後頭部が痛々しく腫れ上がったノアの寝言が室内に響く中、ユグドは軍医の説明に耳を傾けていた。
「怪我自体は軽傷ですので、安静にしていればじきに目を覚ますでしょう。まさか城内に鬼嫁グリズリーが現れたとは思えませんが」
「きっと過去の辛い記憶が悪夢になってるんだと思います」
一切の躊躇なくそう答え、軍医を見送る。
幸い、身体的な問題はなし。
王族を守るべく、普段から鍛錬しているノアだからこそ大事に至らなかったともいえる。
とはいえ、アクシス・ムンディの一員が元王族の侍女という微妙な肩書きの女性を負傷させてしまった事は事実。
不可抗力とはいえ、治療費、慰謝料などの損害賠償は免れない。
ユグドの頭痛の種がまた一つ増えてしまった。
「失礼するよ」
不意に上品なノック音が聞こえてくる。
ユグドが返事をする間もなく、扉が開き――――
「ノアが巨大な熊に襲われたと聞いて……ん? 君は確か……」
「お久しぶり、というほどでもないですが、ご無沙汰してます。ラレイナ王」
「はっはっは、今は"元"だがね」
ティラミスの父、そしてノアの仕える傭兵国家メンディエタの元国王が入ってくる。
ここ最近ずっと城周辺の芝刈りをしていたらしく、肌はこんがりと焼けていて、しかも全体的に筋肉質とあってとても王族には見えない。
ちなみに、彼にノアの現状を知らせたのはユグド。
城内の給仕に伝えるよう頼んでいた。
当事者であるウンデカは、直接謝らせると色々ややこしくなりかねないので、引き続きクーの護衛に当たらせている。
「この度は私どもの過失によってノアさんを傷つけてしまい、申し訳ありませんでした」
代わりにユグドが深々と頭を下げる。
アクシス・ムンディの誰かが不始末をしでかした場合、謝罪するのはユグドの役目。
交渉士である以上、避けては通れない仕事だ。
「はっはっは。人間誰しも人をグーで殴り倒す過ちを犯すものだ。大事にする気はないから頭を上げてくれ」
「寛大なお言葉、痛み入ります」
心中で安堵の息を漏らしつつ、ユグドはラレイナ王と再度目を合わせた。
以前会った時と外見はやや変わっているが、その目の光は変わらない。
どうしてこれほどの人物が国を追われたのか不思議なほどの器の大きさ――――
「私もつい先日、芝刈りの基本がなっていないと絡んできたこの城の召使いに肘を落としてしまってね。大目玉を食らったよ」
――――と、国を追われて当然とも言うべき軽さを備えたラレイナ王の高笑いが救護室にこだまする。
ユグドはあらためて、ノアの苦労をひっそりと偲んだ。
「ところでその後、どうですか? 22の遺産は見つかりそうですか?」
「うむ。実は全く手がかりが掴めず途方に暮れているところに路銀が尽きてしまってな。八方塞がりとはこの事よな。はっはっは」
「まあ、そんな簡単に見つかるようなら今頃ノーヴェさんがとっくに回収してしまってるでしょうしね」
大陸最高の権力者である帝国ヴィエルコウッドの皇帝ですら、集めるのに四苦八苦するほどの稀少品。
権力を失った亡命中の王族が手がかりを得るのは至難の業だ。
まして、まだ何の実績もない冒険者が見つけられるほど甘くはないだろう。
「君は22の遺産について、何処まで知っているのかね?」
ふと、ラレイナ王が飄々とした表情で問いかけてくる。
何か手がかりを知っているなら教えろ――――そんな意図にしては、余りにも露骨すぎる質問。
とはいえ、ノアへの過失がある以上、無碍にもできない。
「ここ最近、妙に関わる機会は多いですけど、知ってる事は殆どないですね」
「ほう、その割にシーマンの女王からは色々吹き込まれていたようだが」
一瞬――――空気が凍り付く。
ユグドは顔色一つ変えないラレイナ王に、思わず舌を巻いた。
「……流石は元国王。色んな情報網をお持ちで」
「種明かしをすれば、大した事ではないのだがね。当事者から聞いただけだ」
つまり、シーマンの女王エメラとなんらかの情報交換をしていたという事。
メンディエタとシーマンは位置的に近く、交易も盛んという事実はユグドも知っていたが、まさか亡命中の王と現女王が直接コンタクトを取っているとは予想できなかった。
「確かに女王からも遺産について話をして頂きましたね。関わるなと忠告も受けました」
「ある程度関わっているからこその忠告だな」
「実際、シーマンの保持している遺産となら関わってます。でも、これを貴方に話しても仕方がないと思いまして」
「私達が入手できる可能性は万が一にもない……そう言いたいのかね?」
ユグドは敢えて口での返事は控えた。
それでも真意は伝わったらしく、ラレイナ王は肩を竦め苦笑いを浮かべる。
「エメラ女王も肝心な事は話してくれなくてね。いずれにせよ、シーマンに所有権のある遺産をどうにかしようとは思わないのだが」
「どうせなら、直接ノーヴェさんに頼んでみればいいんじゃないですか? 案外、遺産抜きでも引き受けるかもしれませんよ」
「ほう……皇帝と知り合いなのかね」
ノーヴェさん――――その呼び方と性格への言及から、ユグドがノーヴェと知り合いだと察したらしい。
これまでの会話からも、かなりの切れ者だという事が窺える。
つくづく、国を追われている元王とは思えない人物像に、ユグドは驚きと同時に不憫さを覚えた。
「個人的に何度か会った事がありまして。あの人なら、魔王討伐と聞けば喜んでメンディエタに行きそうでしょう?」
「確かに、そういう人物ではあるが……ヴィエルコウッドに借りを作る訳にはいかないのでね」
ラレイナ王はユグドの発案をやんわり却下し、クルリと背を向けた。
「ノアが目覚すまでここにいてくれないか? 私はまだ仕事があるのでね」
「了解しました」
「うむ。ではまた会おう。ユグド君」
大きな背中を揺らしつつ、ラレイナ王は救護室を出て行った。
ノアが心配で駆けつけた割に、探りの入れ方が堂に入っていたのは――――
「起きたら『おはよう』くらい言いましょうよ、ノアさん」
「げ。バレてた」
ベッド上で目を瞑っていたノアは意外と素直な反応を見せ、直ぐに上体を起こす。
「お見事でしたよ。引け目がある以上、こっちも素直に話さざるを得なかったですし。ここまで計算してウンデカさんの攻撃をわざと受けたんですね?」
「最初は軽く後ろに倒れて気絶するフリ……の予定だったんだけどね。ったく、なんなのよあの重い拳は。一瞬本当に死ぬって思ったんだから」
そして後頭部を右手で擦りながら――――次の瞬間、ジロリとユグドを睨んだ。
「っていうか、それより貴方! ユグドってなんなのよ! シャハトじゃなかったの!?」
「悪い、あれ偽名。うちのリーダーの名前なんです」
「ぎっ……」
あっけらかんと告白したユグドに対し、ノアの口から歯軋りが漏れる。
「貴方ねえ……じゃー何? 私、あの下心ミエミエのだらしなさそーな男の名前を心の中で連呼してたってーの? うわっ、サイテー……」
「そこまで貶さなくても。ていうか、なんで人の名前を心の中で連呼するんですか。呪いでもかけたとか?」
「…………えーそーよ! とびっきりの呪いかけてやったの! あーもう!」
ベッドの上で悶えるノアの姿に、ユグドは偽名を使って正解だったと確信した。
「はぁ……遺産は見つかんないし、お城の人たちには髑髏の騎士とか呼ばれるし……良いコト全然ない」
「遺産はともかく、髑髏に関しては思いっきり自業自得でしょ。あんな仮面身につければ誰だって髑髏の騎士でしょうよ」
「だって、あれくらいインパクトないと雇って貰えないって思ったんだもん! おかげで仕事は見つかったし! 私の判断に誤りはないの! ないのになんでこんな不幸なのよーーーーーっ!」
野生動物の雄叫びには決して含まれない悲哀。
そんな人間味タップリの慟哭に、ユグドは思わず合掌した。
「手を合わすなっ! で……貴方は何? 仕事?」
「ええ。式典の護衛を任されまして」
「フーン……世界的な式典の護衛をねえ……そんなに信用があるとは思えないけど?」
皮肉の効いた指摘。
しかし、それに乗って事実を話せばノーヴェとの関係性を先程以上に明かさざるを得ず、そうなると色々面倒なので、ユグドは誤魔化すことにした。
「半月前はそうでしたけど、最近になって評価が上がってきたんですよ。今、六件の依頼が重複してるくらいですからね」
「六件……? そんなに大きな組織なの? アクシス・ムンディって」
「少数精鋭ですけどね。だから人手不足なのは否めません。オレもここ数日、ロクに寝てませんから」
実際、ユグドの目の下には薄っらとクマができている。
特にこの三日間、睡眠時間は合計で二時間にも満たない。
「へー……それじゃ、手伝ってあげよっか? 今日限定だけど」
「え? ノアさん仕事中でしょ? このお城の護衛」
「呼び捨てでいいよ。それと、私は前日に最終演練まで済ませてるから、もう上がり。地下でコソコソ動いてる不届き者の正体もわかったしね」
冒険者とその護衛という身分さえ明らかならば、公にしている地下迷宮に足を運ぶ事自体はなんら問題なし、ということらしい。
ちなみに最終演練とは、式典に備え本番と同じような段取りで一通り予定を消化すること。
大規模な式典なので、最終演練は二日間、一日一回ずつ行われ、警備兵を含む現場作業者はどちらかに出席するよう義務付けられている。
「うーん、でもノアさん怪我人だしな……幾らわざととはいっても、頭打った事に変わりはないし」
「呼び捨てでいいってば。頭はホラ、大丈夫。これくらいのタンコブ、なんてことないから」
「そうは言っても、ノアさんはラレイナ家の侍女だし……勝手にコキ使っていいものか」
「……呼び捨てにする気ないのね。ってか、手伝い申し出た優しい女の子をコキ使う前提で悩むなっ!」
当てる気のない拳を振り回してくるノアの腕には、以前と同じアームブレイドが装着されている。
以前、ラシルが妙に気にしていた剣だ。
「あ……そうだ。ラシルさんを探さないと」
そこでふと、ユグドはラシルの行方がわからなくなっている事を思い出した。
彼女がいなければ他の地点への移動に時間が掛かる。
ラシルというよりリュートが必要なのだが、勝手にリュートに乗るとラシルが怒り狂う為、彼女を探さざるを得ない。
「ラシルって、あの銀色の髪の無口な女の人?」
「……無口?」
「ホラ、前に私たちを見送ってくれた時にいた綺麗な女の人。一言も話さなかったから無口だなーって」
「ああ、確かに。あの時はなんかその剣が気になって仕方がなかったみたいですよ。実際には無口じゃないです」
「そうなんだ。アームブレイドってそんなに珍しい武器でもないと思うけど」
そう不思議そうに呟きつつ、ノアは自身の腕に装着されたアームブレイドを眺めていた。
剣身の中央部が隙間になっており、そこにグリップが付着するスタンダードな構造。
ラシルの龍槍ゲイ・ボルグのような豪華な装飾はないが、獣の顔と牙を模したデザインが迫力と凄みを醸し出しており、業物の雰囲気を演出している。
「ちなみに、名前は?」
「ああ、これは……」
ノアが答えようとした、その時――――
「む、ユグド。何故貴様がここにいるのじゃ?」
声以上に、一瞬で誰かわかる口調。
ユグドが振り向くと案の定、そこには背中にゲイ・ボルグを背負ったラシルの姿があった。
探す手間が省けたと安堵する一方、微かな不安が過ぎる。
ここは救護室。
そこに現れたということは、怪我をしたのかも――――
「ボンボン共に捕まって実のない話を聞かされた疲労を、30分でも寝て回復させようとしていたのじゃが……やれやれ、また直ぐ移動か」
ユグドのそんな心配は一瞬で杞憂と化した。
「あら。噂をすれば、ってヤツね。お久しぶりです」
ユグドの背後で、ノアがベッドから降りラシルへ微笑みかける。
その瞬間、ラシルの顔色が露骨に変わった。
「ん……其方は確か、前にベルカンプで騒動を起こしていたメンディエタ王の侍女だったか」
「そう。ノア=アルカディアよ」
「妾はラシル=リントヴルムじゃ。其方とは縁がありそうな気がしておった」
嫌な予感がユグドの首筋を冷やす中、ラシルは朗らかに微笑み、ノアへと近づいて右手を伸ばし――――
「妾に仇なす剣の持ち主なのだからな!」
直ぐにその手を引き、右脚を跳ね上げる。
フェイントを交え顎を目掛け放たれた疾風のような蹴りに、ノアは――――
「ちょ……!?」
――――辛うじて反応。
上体を反らし、そのままベッドへと倒れ込んだ。
「ほう。後ろのベッドまで計算に入れて回避しよったか。流石"ドラゴンキラー"の持ち主だけはあるのう」
「……ドラゴンキラー?」
突然のラシルの攻撃に理由を問い質そうとしたユグドは、その言葉に戸惑いを覚えた。
ドラゴンキラー。
ドラゴンを狩るために作られたと言われる剣だ。
武器屋の息子であるユグドは、実物こそ見たことがないものの、その武器の存在は知っていた。
「そやつの腕に装着された得物は、紛れもなくドラゴンキラーじゃ。以前会った時は確信が持てんかったがの」
ラシルは背負っていたゲイ・ボルグを手にし、ベッドから起き上がったノアの喉元に向けて矛先を向ける。
その佇まいは、騎士という身分に相応しい美しさを有していた。
「ドラゴンキラーの所持は龍騎士への宣戦布告と受け止めようぞ。ここであったが百年目! さあ、妾を楽しませるがよい!」
まるで魔王のような文言でノアに食ってかかるラシル。
好戦的な笑みを浮かべ、鋭い目つきで臨戦態勢に入っている。
一方、ノアはというと――――
「……?」
ベッド上で上半身だけを起こし、キョトンとしていた。
「ほう……この妾の殺気を浴びて、そのようなすっとぼけた顔が出来るとは大したものよ。だがその憎々しい態度、どこまで持つかな?」
「い、いやちょっと待って。そういう事じゃなくて……」
「問答無用! 龍騎士の誇り、とくと味わうがよいわっ!」
犬歯を剥き出しにしたラシルが今まさにノアへ向かって踏み出そうとした、その時――――
「〜♪」
余りに場違いな、口笛の音色。
飛び込もうとしたラシルも、やむを得ず応戦しようと身構えていたノアも、その口笛によって脱力を禁じ得ず、カクンと身体を沈ませた。
口笛を吹いたのは――――ユグドだった。
「音楽は争いを鎮める……そうセスナさんが言ってましたけど、確かな情報みたいですね」
髪を掻き上げ、落ち着いた声で告げる。
そんなユグドの様子を、ラシルとノアは呆けた顔で見つめていた。
「どうです? 落ち着きましたか?」
「落ち着きはしたけど……」
「ユグド、貴様……」
そして、吠える。
「口笛下手すぎじゃ! なんという邪悪で歪な旋律……頭の中が腐敗するかと思ったわ!」
「なんなの今の!? 魔術とか妖術とか呪術とか、そういうの超越した悪意を感じたんだけど!」
「……え? オレの口笛そんななの? 嘘でしょ? 今まで普通に上手いって思ってたんですけど――――」
「止めいっ! 耳がねじ切れる!」
試しにもう一度吹こうとするユグドを、ラシルが敵意剥き出しの顔で制止。
ノアも本気で胸を撫で下ろしていた。
「おかげで戦意が削がれたのじゃ……なんという体調不良。具合が悪すぎる。しばらくここで寝るぞ」
「私も……よかった救護室で。今すぐ休息とらないと死んでたかも」
いそいそとベッドに潜って横になる二人を呆然と長めながら、ユグドは――――
「交渉、成功」
知り合い同士の戦いを回避させた自分の交渉術に満足し、そう呟いた。
……その目に浮かんだ涙をそっと拭いつつ。
前へ 次へ