その翌日――――演奏会当日。
アクシス・ムンディの面々は大聖堂から離れた位置にある花園の管理小屋に屯し、各々時間を潰していた。
先程までドイス司教がここで仕事をしていたが、今は演奏会を聴きに訪れる要人を街中で迎えるべく外出中。
その為、大聖堂には今〈ヴィーゲンリート交響楽団〉の面々しかいない。
それには理由がある。
ユグドの懸念通り、今日になって突然『演奏会が終わるまで聖堂内に入らないで欲しい』と要望を受けたからだ。
特に演奏会中は絶対に入らないよう釘を刺されてしまった。
招待客である要人が使いを寄こし、そうするよう指示してきたと、ナユタは説明及び謝罪をしてきた。
要人護衛や警備は任されていない為、依頼をこなす上で支障はない。
ただ、ここまで露骨に閉め出されてしまうと怪しまない訳にはいかない。
一体どんな演奏会を、誰に対して行うのか。
魔曲を使った要人暗殺を企てているのではないか――――と。
管理小屋の中は重苦しい雰囲気に包まれていた。
が――――
「にしても……まさかの"セシル"だったにゃー」
ポツリと、不意にユイが漏らしたその言葉で空気は一変。
スィスチに至っては、今にも吹き出しそうになり口元を手で隠している。
「……なんか文句あるっしょ?」
その一人の不満げな顔も、全く抑止力にはならない。
セシル――――それがセスナの本名だという。
彼女が偽名を使っていた事に対し、ユグド達が猜疑の目を向ける事は特になかったが、その本名の持つ清楚な響きと本人のギャップには動じずにいられない。
「や……やっぱりダメっ! せっ、セシルって! この子がセシルって! ゴメン、セスナ! じゃなくてセシル! そんな聖なる名前っぽいの、どうしても笑っちゃうって!」
「これ、スィスチ。失礼であるぞ。名は体を表す、とは言うが、名付けるのはあくまでも親。本人が名前の響き通りに育つ必要などないのだからはははははははは」
クワトロも我慢の限界が来たらしく、高々と笑い出す。
なお、昨日はこの十倍以上の笑い声が休憩室に響きわたっていた。
「だから今回の依頼、乗り気じゃなかったっしょ。楽団の中に知り合いがいたらこうなるのは予想できたっしょ。魔曲の名前を出して脅せば、例えユグドでも断わるかと思ったのに……」
「セスナさん……可哀想」
付き合いの極めて浅いノアだけは、笑わずに同情していた。
尤も、セスナにとってはそれが一番堪えるのだが。
一方――――ユグドは別の意味で頭を悩ませていた。
「結局、今回の件に魔曲が関わってるっていうのは、セスナさんのミスリードだった訳ですよね」
「ま、そうなるっしょ」
「コイツ、開き直ったにゃ! 散々引っかき回したクセして生意気にゃん! 死にぇ!」
今回の演奏会で魔曲が使われる――――その可能性を憂慮したのは、セスナの一言があったからだ。
それが虚言であるならば、これまでの邪推は全て穿った見方をした上で偶然整合性が取れていたに過ぎない。
ナユタの説明も、一応全て筋が通っているのだから。
ユグドはユイから追いかけ回されているセスナを眺めつつ、頭の中で昨晩の記憶を回想していた。
セスナ――――あらため――――セシル=ハイドン。
ナユタがそれを暴露し、嵐のような笑い声が暫く休憩室を蹂躙し続ける中、ナユタはセスナに悲しげな目を向け一言――――
『また会えて、とても嬉しいであります』
確かにそう告げていた。
周囲の笑声に隠すように、かなり音量を抑えていた声ではあったが、ユグドにはハッキリとそう聞こえた。
ナユタのその一言は、再会の挨拶としては極めて一般的。
ただ一点、表情と噛み合っていない点を除けば。
苦笑ならまだしも、含み笑いをしながら言う科白ではない。
まるで、二人の間に何らかの因縁めいた過去があるかのような背景をも窺わせる齟齬だった。
しかしユグドは、この事でセスナを問い詰めるような真似はしなかった。
アクシス・ムンディは護衛団だ。
必要とされるのは、強敵から対象を護衛できるだけの戦闘力と、どんな状況にも対応できる柔軟性、そして信頼。
にも拘らず、メンバーの素性に関しては一切不問としている。
それはリーダー、シャハトの意向が影響している。
『過去は過去、なんて事は言わねぇーよぉー。でもよぉー、どんな過去だろうと信頼を得られない理由にゃならねぇーと思うんだよなぁー』
惚けた言い方ではあったが、ユグドが一度その理由を尋ねた時の彼の返答は、それなりにリーダーらしくもあった。
ユグドもその意向を尊重し、他のメンバーの過去を無闇やたらに聞いたり突っついたりはしていない。
その必要も感じていない。
実際、それで一度裏切られた事もあったが、その時の裏切り者は依然としてアクシス・ムンディの一員であり、信頼を置く立場にいる。
「……何?」
「いえ、なんでも」
無意識に向けていた視線を、スィスチから外す。
結局のところ、信頼なんてそれほど綺麗なものではない。
積み重ねればいいというものでもない。
他人の心を完全に見える術でも使えるのなら別だが、そうでない限りは仮定の域を出ないのが実状。
ならば信頼もまた、仮定の領域に過ぎない。
この人を信頼する――――
そういう仮定があって初めて、共同作業は成立する。
一人で出来ない事もできるようになる。
ならそれをひっくるめて信頼と呼べばいい。
ユグドはそう結論付けていた。
だから、セスナが偽名を使おうと、まだ何かを隠していたとしても、信頼を損なう理由にはならない。
リーダーや他のメンバーも同じかというと、決してそうではないだろうと確信してはいるが、ユグドは独自の信念で各々の過去へ深く踏み込む事を控えている。
ただし――――依頼人の安全を損なう理由があれば話は別。
今回、ユグド達は要人護衛の依頼を受けた訳ではない。
あくまで、帰国する際の楽団の護衛が任務だ。
もし魔曲が一切関わっていないのなら、彼らの安全性に問題は生じないだろう。
「セスナさん。魔曲……本当に今回の依頼と無関係なんですか?」
けれどユグドはまだ、懸念を完全に捨ててはいなかった。
「ホッファーの楽団が自分のいるアクシス・ムンディに依頼をしてきた……という時点で、ナユタさんの存在を疑ったのは理解できます。オレ達を指名したのはドイス司教の紹介によるものでしたけど、それを知らない段階では寧ろ疑って当然ですよね」
「そ、その通りっしょ。だから、ヤバイと思って咄嗟に"魔曲"の名前でビビらせて依頼回避を狙ったっしょ。何か問題あるっしょ?」
「いえ」
ユグドの返答が素っ気なかった事もあって、微妙な空気が二人の間に漂う。
暫時の後――――
「……あーし、その辺散歩してくるしょ。直ぐ戻るっしょ」
セスナは逃げるように小屋を出て行く。
その瞬間、ノアとユイが海から上がって来た潜水夫のように大きく息を吐き出した。
「き、緊張したにゃ……」
「ちょっとユグド! なんだってあんなピリピリしてんのよ! こっちまで息が詰まるじゃない!」
「仕方ないでしょ。実際、緊張を伴う状況なんですから」
瞑目しながらそう漏らしたユグドに、クワトロとスィスチが同時に片目を見開く。
先に口を開いたのはスィスチだった。
「それって、マニャンの要人がもう直ぐ現れるから……じゃないわよね?」
「勿論。セスナさんはああ言ってましたけど、総合的に考えて魔曲が関わってる可能性はまだ十分にあるかと」
「そうなの!?」
ユグドの読みを歓迎するかのような嬌声をあげたのはノア。
思わず耳を塞ぎつつ、ユグドはクワトロが言っていた『聴覚の遮断の難しさ』をあらためて実感した。
「な、何なんですか。いきなり大声で」
「や、実はさ。魔曲って聞いて思い出した事があって」
意外にも、ノアは魔曲について知識があったらしい。
ユグドのみならず、その場の全員がノアの話に耳を傾ける。
「えっと、今回の依頼とは関係ない事かもしれないけど……私達が追ってる『22の遺産』の中に、魔曲を奏でる楽器があるみたいなの」
「22の遺産……またか」
最近、常につきまとってくるその言葉に、ユグドはウンザリとした顔でカクンと肩を落とした。
「そ、そんな嫌な顔しないでよ。私達にとっては死活問題なんだから」
「まあ、そうなんでしょうけど」
ノアはメンディエタを支配する魔王を倒す為、魔王討伐を幾度も成し得てきた皇帝ノーヴェ=シーザーが集めているという22の遺産を探している。
その遺産を彼に渡す見返りに、魔王を倒して貰おうというのが彼女の、そして共に亡命中の元メンディエタ王族達の目的だ。
「一応聞いておくとしよう。その遺産の名称は何と言う?」
「えっと、確か……そうそう、幻笛ギャラルホルン。です」
遥か年上のクワトロの質問だった為か、とって付けたような敬語でそう返す。
ギャラルホルン――――その名称は、管楽器である事を示していた。
「詳しい事はわからないけど、それ一つで魔曲すら奏でられるってのがウリの角笛みたい」
「複数の楽器の音を一つで奏でる角笛……ですか。相変わらず非常識な」
「ホントよね」
そう嘆息しつつも、ノアはその存在を疑っている様子はない。
ユグドにしても、実際に自動で動く船などをその目で確認している為、頭から否定する気にはなれなかった。
セスナが言うには、魔曲とはかなり複雑な楽譜である事が常で、最低でも十数人の演奏家が必要だという。
楽器の種類も非常に多く、その上で各パートに超絶技巧が求められる。
音楽国家ホッファーの演奏家であっても、そう簡単には演奏できないのだろう。
となれば、お手軽に魔曲を奏でられるというそのギャラルホルンは、魔曲を軍事利用する上で非常に有用なアイテムだ。
「だとしたら、今回の"演奏会"の目的って、魔曲での要人暗殺や洗脳じゃなくて……」
「22の遺産を手に入れる為の取引だとするならば、ユグドよ。護衛の意味合いが変わってくるのではないか?」
「……ちょっと、人の科白取らないでよ」
言動を先回りし、全部持っていったクワトロにスィスチの白い目が向けられる。
尤も、日常茶飯事なので険悪な空気は微塵もない。
「ええ、変わってきますね。魔曲演奏の影響や秘密漏洩じゃなく、取引で得た遺産……幻笛ギャラルホルンを奪われない為の護衛に」
それどころか、護衛を雇う理由としては説得力が格段に増す。
そして同時に、アクシス・ムンディへ依頼してきた理由もより明瞭なものとなる。
これまで何度か22の遺産に関わってきた組織なら、遺産を狙う人物が現れても対処法を熟知しているだろう――――そんな期待を持たれている、という推察が成り立つからだ。
最近のアクシス・ムンディの仕事内容を調べた上でゲシュペンスト大聖堂を会場に選んだのだとすれば、ドイス司教の紹介という経緯も実際には『誘導』とさえ言えるだろう。
ドイス司教に紹介を仰げば、アクシス・ムンディの名前が出るのは想像に難くない。
「えっと……もしかして私、お手柄?」
「かもしれません。現段階ではあくまでも可能性に過ぎませんけど、辻褄は合いますから」
「取り敢えず、ノアよくやったにゃ。ご褒美に人食いバッタ狩ってきてやるにゃん」
「あ、あはは……ありがと、ユイさん。バッタは要らないけど」
ノアは褒められて上機嫌。
それ以上に、22の遺産の一つの在処がわかるかもしれないという期待感もあるのだろう。
とはいえ、仮に取引が真実だとしたら、ホッファーという国家権力が買い取ろうとしているのは明白であり、入手は極めて困難なのだが。
「なんとなく、筋書きは見えてきた気がするけど……結局やる事は変わらないのよね。護衛の危険度が増したくらいで」
「うーん、どうにかして取引に横やり入れられないかなあ……でも交渉するお金もないしなあ……」
スィスチとノアが異なる種類の溜息を同時に吐く。
その直後、ユイがピクピクと頬を揺らし、視線を大聖堂の建っている方へと向けた。
「お客さんが来たみたいにゃ。迫力あるにゃー……これはかなりの大物にゃん」
「ユイさん、そんなしっかり気配読めるんですか。スゴい……ん?」
感心し、音のない拍手を送っていたノアが、不意にその手を止める。
「だったら昨日、どうしてバンマスの人が休憩室に現れた時、事前に察知しなかったんですか?」
「そういえば……でもま、ユイさんって気配察知以上に油断が得意ですから」
ノアの割と鋭い指摘に対し、ユグドがいつものように茶々を入れる。
だが――――ユイの方はいつものような顔つきではなかった。
「……言われてみれば変だにゃん。あの時、別に油断してなかったにゃ」
「我もだ。確かにあの娘……ナユタと言ったか。気配を消す技能の持ち主かもしれぬ」
セスナの幼なじみ。
音楽国家ホッファー出身のハープ演奏家。
そこに、アクシス・ムンディが誇る二大感知係、その両者を持ってしても察知しきれなかった気配断ちのスキルが加わったとして、そこから導き出される答えは――――
「……マズいかも」
「ユグド?」
ユグドは自分達の読みが甘かった事に気づき、唇を噛み締めつつ立ち上がる。
大局を見誤っていた――――そんな痛恨の思いを抱きつつ。
「セスナさんを探しに行きましょう。最悪の事態もあり得る」
「どういう事? ちゃんと説明してよ。アンタ説明大好き人間じゃないの」
スィスチの言葉は受け入れがたいものだったが、今のユグドにはそれを否定する心の余裕はなかった。
「あのバンマス……ナユタって名前でしたか。気配を消すのが上手いって事は、少なくとも"その手"の訓練を受けてる事が予想できます」
「その手?」
「間諜、若しくは暗殺であろう」
クワトロの補足に、それまでピンと来ていなかったノアが固まる。
熟練の技を身につけた武の達人であればまだしも、まだ十代と思われる奏者のナユタがその域に達しているとは考え難い。
索敵回避に特化した訓練を受けていると確定しても問題ないだろう。
となれば当然、真っ当な奏者である筈がなく、その彼女が所属している〈ヴィーゲンリート交響楽団〉もまた普通の楽団とは言えない。
「あの楽団、セスナさんが言ってた〈魔曲軍〉かもしれません」
魔曲を演奏する軍隊――――ここにきてその存在が急浮上してきた。
「で、でも、それがどうしてセスナさんの"最悪の事態"に結びつくのよ」
そこまでの説明を終えたユグドに、ノアが納得いかないという顔で問いかける。
一方、クワトロとスィスチの表情には緊張感が色濃く浮かび上がっていた。
「……セスナさんは魔曲に詳しかったんです」
「そ、そうなの? でも彼女、演奏家なんでしょ? だったら詳しくても不思議じゃ……」
「ええ。ただ噂話を知っている程度なら。でもあの人は……詳し過ぎたんです」
ホッファー出身の音楽家が魔曲について詳しく知っている、それ自体は不思議ではない。
だが魔曲の軍事利用、そして〈魔曲軍〉なるものの存在まで把握しているのは、知り過ぎの感が否めない。
ユグドとクワトロが議論したように、通常の戦闘で使用するには魔曲は不向き。
暗殺や洗脳に特化した軍事利用が妥当だ。
ならば必然的に、魔曲を扱う軍隊は暗殺部隊という事になる。
となれば、その存在が国家機密なのは言うまでもない。
暗殺部隊を堂々と表に出す訳がないのだから。
ならば、一般人にはその存在すら知られていない筈。
にも拘らず、セスナは知っていた。
知り過ぎていた。
「そして、セスナさんは恐らく……」
その理由は一つ。
「〈ヴィーゲンリート交響楽団〉……いや〈魔曲軍〉の一員だったんです」
そうユグドが告げた刹那、ユイが弾けるように小屋を出て行く。
元魔曲軍の奏者が所属している組織に、現魔曲軍が依頼という形で接触を試みた意味は、誰でも容易に理解できるだろう。
ノアもようやく事の重大さに気付いたらしく、顔を青ざめさせていた。
「ど、どうするの!? セスナさん、いなくなっちゃったじゃない! ユグドが感じ悪いから!」
「いえ……おそらくアレは、ここから出て行く機会を窺ってたのよ。だとしたらセスナは今……」
「はい。ユイさんが気配を察知してくれてるでしょうけど、それに頼るまでもない」
ユグドの言葉に、その場の三人がほぼ同時に頷いた。
「大聖堂内にセスナさんはいます。楽団の連中と一緒に」
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