「……僕はそう思わない」

 ポツリと、ジャンが否定の言葉を呟く。
 その視線は、真っ直ぐ俺に向けられていた。

「少なくともユーリ、君はこの世界でまだ何も失ってないじゃないか」

「失くしちゃいないけど、その代わり何もないだろ? この世界の知識も、金も、人脈も」

「いや、あるね。あるよ」

 何を根拠に……と言おうとした俺の右肩をポンポンと小突き、ジャンは床に散らばったままになっていたイラストの小片を集め、皺を丁寧に伸ばし、ジグソーパズルの完成品のようにして机の上に並べた。

「さっきは、驚きの余り声にならなかったけど……あらてめて見てもやっぱりスゴいよ」

「スゴい……? 何が?」

「うん、やっぱりスゴい! この絵は味があるよ! 古典派の画家が描くような重厚さや、写実派の絵みたいな精密さはないけど、独特だよ!」

「独特!?」

 ありきたり。
 陳腐。
 平凡。

 今までそんな評価ばかり受けていた俺の絵を、そう言ってくれるのか……?

「さっき君は"目が死んでる"って言ったけど、僕にはとてもそうは見えないよ! 円らだし、輝いているし……活き活きして見えるよ!」

 いや、それは単にハイライトの……

「それにこの鼻と唇! 目とは対照的に極限まで簡易化してるよね。目の印象を強くする為……いや、それだけじゃないな。動物的……そうか、人間が本能的に可愛いと思うデザインになってるんだ。単なる簡易化じゃなく、より人間を原始的に描いているんだね!」

 いやいや、そこまで考えて書いてる訳じゃないんだけど……

「きっとこの画風は、"心の目で見た人間"じゃないかな。目って顔の中でも特に重要な部分だし、印象も強いからね。何より、人間をより原始的に表現している所が、表層に囚われていない証拠だよ。どうだい?」

 いやいやいや、それはなんていうか、マンガ絵ってそういうモノだって子供の頃からずっと擦り込まれて来たから――――

「どうなんだい?」

「……そ、そう……かも?」

「やっぱり! 君は心で絵を描くんだね。崇高だよ!」

 ……う、胸が痛いぞ。
 でも、もしかしたら最初にこういうマンガ絵を描いたであろうお方がジャンの解釈通りの理由で目を大きく描いたかもしれないし、完全否定するのもな。

 何にしても……マンガ絵、アニメ絵、萌え絵……呼び方はなんでもいいけど、この世界でこの手の絵は独特な作風って事になるのは間違いないみたいだ。
 シュールっていうか、キュビスムというか……俺らがピカソや一部の少女マンガを見た時の印象に近いものをジャンは感じているのかも。

「僕、こう見えて世界中を渡り歩いてきたし、それなりにいろんな芸術品を見てきたけど、こういう、なんて言うのかな……実際に見える姿形に囚われない表現の絵は見た事がない。君の絵は魅力的だ。きっと君は、画家として成功するよ」

 ジャンとの付き合いはまだ半年だけど、彼の性格はある程度把握している。
 とても気遣いの出来る男だ。
 逆に言えば、褒め言葉も話半分に聞いておいた方がいい。

 とはいえ、悪い気はしない。
 寧ろ嬉しくて思わずハーレムシェイクに興じたいくらいだ。
 でも、そう簡単にパトロンが見つかるとも、画家として成功するとも思えないのは向こうの世界での挫折があるからなのか、単に根暗な性格の所為なのか――――

「ま、なんにしても……ここがなくなったら将来どころの話じゃないんだけど」

「そうだね、生活が出来なくなるしね。僕にとっては拠点ってだけじゃなく思い出の場所でもある。出来れば残して貰いたいんだけど……」

 ここハイドランジアは、俺がリコリス・ラジアータに迷い込んでから初めて寝泊まりした場所。
 厨二っぽく言えば"最初の地"。
 そういう意味では、俺にとっても故郷と言えなくもない。
 現実問題としても、心情的にも、なくなって欲しくない場所だ。

 でも非力な俺たちには何も出来ない。
 ニート寸前にまでなったイラストレーターと、元英雄の落ちぶれ受付。
 誰も手を貸してはくれない。
 誰も耳を傾けようとは思わない。

 誰も―――― 

 ……いや、待て。
 今、目の前にいるじゃんか。
 俺の絵を認めてくれた奴、いるじゃん。

 前の世界では、もう誰もいなくなっていた。
 あれだけファンです、来栖さんの絵最高です、なんてツイッターで言ってた連中も、俺の人気が落ちた途端に一切接触してこなくなったし、検索で『来栖結理』を探しても誰一人話題にしなくなっていた。

 お仕事がないか探る為に打ち合わせと称して接触を試みた各会社の編集も、今更お前なんてお呼びじゃねーよって文面のメールを寄こすばかり。
 落ちた俺を見てせせら笑ってるような、そんな現実が蚊の大群のように飛び交っていた。

 ウンザリだった。
 人でなしばっかりだと絶望した。
 だから俺は、外界から接触を断った。
 自分を守る為、自分の領域を作ってそこで生活していた。

 引き籠もりの何が悪い?
 自己防衛なんて、法律でだって認められてる。
 他害も自害も同じだ。
 誰も彼も人間。
 自分の心を守るのは、他人を守るのと同じだ。

 でも……本当にそれでいいのか?
 例え何も悪くないとしても、本当にそれでいいのか?
 自分を守るってのは、そういう事なのか?
 殻の中であらゆるダメージを遮断して護身開眼……って、何か違うんじゃないか?

 だって、"この世界の"俺には――――

「ユーリ、一ついいかい?」

「……何だ?」

 ジャンの真剣な顔に、俺も顔を引き締める。

「僕達は負け犬、敗残兵だ。それは認めなくちゃならない」

「そうだな。負け犬なんて言葉、教えるんじゃなかったよ。絶対聞きたくない言葉の第7位だ」

「はは……だけど、敗残兵だからって投降する必要もないし、武器を捨てる必要もない」

「そりゃそうだ。戦争に負けた訳じゃないんだから」

「そして、君には絵っていう武器がある」

 そうだ。
 俺には絵がある。
 元いた世界では通用しなかった武器だけど、この世界ではまだ"わからない"。
 わからないってのは、無限の可能性だ。

「その武器を、このハイドランジアの為に使う意思はあるかい?」

「……看板を塗り直すとか?」

「いや。でも、それもいいかもしれないな」

 ジャンはどうやら、何かプランを思いついたらしい。
 だとしたら、それはきっと再生のプラン。
 一度沈んだ人間とギルドを再浮上させる為の。

 またそっぽを向かれるかもしれない。
 いや、それ以前に相手にもされないかもしれない。

 でもジャンは俺の絵を、何の変哲もない俺の絵を『独特』と言った。
 オリジナリティを認めてくれた。
 元いた世界では決して聞かれなかった声が聞こえてきた。

 なら、繰り返すとは限らない――――かもしれない……じゃないか。

「ってか、そういうお前だって比喩抜きで武器を持ってるじゃんか。何しろ……"亜獣"だっけ? そのバケモノみたいなのと何度も戦った元英雄なんだろ?」 

「いや……僕はもう、第一線では戦えないんだ」

 突然、そう述懐したジャンは黒の上着を脱ぎだした。
 更にはその下の白いシャツまで脱ぎ始める。

 ……いやいやいやいやいやいやいや!

「ちょっ、おま……! お前みたいな外見の奴がゆっくり服脱ぐのってなんか生々しくてゾワゾワするから止めてくれ!」

「?」

 俺の言っている日本語が通じないのか、ジャンは惚けた顔をしながら
 黙々と服を脱ぎ続けた。
 そして、露見したその肌は――――

「……」

 擦り傷、切り傷、爪痕……無数の傷痕で埋め尽くされていた。
 間違いなく、戦い――――それも亜獣との戦いによって負った傷だ。

 生々しい、なんて言葉じゃ言い表しきれない。
 服を着たジャンからは想像出来ない、爛れて凸凹になったその身体は、ここが俺のかつての日常とは違う事を痛烈に教えてきた。

「当時未熟だった僕が、後に英雄なんて呼ばれる大仕事に参加した代償さ。日常生活には支障ないんだけどね」

「……道理で、元英雄にしちゃ細身だと思った」

 そう返事するのが精一杯。
 やっぱりコイツ、俺より遥かに壮絶だ。
 人生も、人間的にも。

「そういう訳で、僕の今の武器は戦う力じゃない。見聞、見識……君の世界の言葉、これで合ってるかな?」

「ああ。さっきも言ってた『世界中を渡り歩いてきた』ってアレか」

「うん。人脈はともかく、人生経験ならそれなりのモノを蓄えてるつもりだよ」

 ジャンは服を着ながら、そう自信ありげに語った。
 確かに、英雄としての実績も庶民としての実績もある人間なんてそうそういないだろうし、それは誇るべき武器なのかもしれない。

 問題は――――そんなジャンの武器と俺の武器を、ハイドランジアの復活にどう役立てるかだ。

「ジャン、そろそろ聞かせろよ。何か思いついたんだろう?」

「その前に、君の意思を聞きたい。何より……君は元の世界に帰る気は――――」

「ない」

 食い気味、というより制する勢いで俺は即座に否定した。

「元の世界にいた俺は、どうしようもないクソ絵師だ。ゴミに繁殖したカビだ。あんな現実に戻るくらいなら、ここで野垂れ死んだ方がマシだ」

「……そ、そう」

「でも、野垂れ死ぬよりはお前の案に乗っかって散る方がよさそうだ」

「散るかどうかは、君次第」

 そう俺を指差しながら、ようやくジャンは計画を語り出した。

「君も知っての通り、冒険者ギルドはいろんな仕事を請け負っている。逆に言えば、間口を広げすぎた事でかえって役割が薄くなったとも言える」

「ここに頼むくらいなら、他の専門家に任せよう、か」

「そう。冒険者ギルドならでは、ハイドランジアならではのサービスが必要だ。君の国では"おもてなし"って言うんだったかな?」

 あー、そんな言葉まで教えたっけ。

「そこで、君の絵の力を借りたい。ハイドランジアでは請け負った仕事の内容と結果を報告書としてまとめてるんだけど、これに絵を付ける。勿論、絵は仕事中の冒険者を描いたものさ」

 成程……そう来たか。
 つまり、仕事をこなすだけじゃなく、その仕事を『絵付きの読み物』にする。
 絵付きの本ってだけなら、このリコリス・ラジアータでも決して珍しくないけど、冒険者ギルドの仕事を本にするとなると話は別だ。

 いわば"ノベライズ"。
 ジャンルはノンフィクション・ファンタジーってトコか。
 当然、元いた世界には絶対にないジャンルだ。

「この『絵付き報告書』を、依頼達成後に依頼主へプレゼントする。中にはそのプレゼント目当てで依頼を持ってくる人が出てくるかもしれない。そうなれば、依頼は一気に増えるよ」

「オマケ商法か……いいかもしれない」

 実際、日本でもよく見かける商売方法だ。
 そして成功している例もかなり多い。
 勝算アリだ。

「報告書は僕が描くよ。君は絵を描いてくれればそれでいい。ただし最高の絵を頼む。夢と希望に溢れた冒険者の力強い絵……それなしに、僕達の浮上はない」

「……夢と希望、ね」

 どっちも、今の俺には縁のないものだ。
 だけど自信がない訳じゃない。

 実を言うと、ファンタジーは得意分野。
 何故かってーと、人生経験が薄いからだ。

 いや、人生経験が薄いヤツがみんなファンタジーを描くって訳じゃないよ?
 ただ、自分の人生を反映させるリアル志向の絵より、子供の頃からプレイしてたゲームやマンガ、アニメの世界観を活用出来るファンタジー絵の方が自然と描きやすくなるってのも純然たる事実だと思うんだ。

「やれる?」

「やれるさ。いや、是非やらせてくれ」

 俺は敢えて、ジャンに深々と頭を下げた。
 仕事を貰えるありがたさ。
 必要として貰える充実感――――久しくなかった感覚だ。

「こっちこそ、是非お願いするよ。ただし失敗は許されない。だよね?」

「だな。もう落ちるのはゴメンだ」

 落ちるところまで落ちた、だからもう怖いものなんてない――――それは本当に地獄の底まで落ちたことのない人間のセリフだ。
 落ちる感覚を味わったなら、あの感覚は二度と味わいたくない筈だから。

 本当は怖い。
 新しい事を始めるのはいつだって膨大なエネルギーを使う。
 まして、まだ半年しか滞在してない別世界での新事業。
 前人未踏の領域だ。

 成功のノウハウなんて何処にもない。
 けど、底を見るのはもうゴメンだ。
 怖いし、疲れるけど――――上を見るしかない。

「目にものを見せてやろうじゃないか。君の中に居る、かつてのイラストレーターへ」

「おう。お前の中に居る、かつての英雄にもな」

 そして、そんなヤツらが集ったこの、かつて活気のあった冒険者ギルド〈ハイドランジア〉へ。

 それは自分への報復。
 きっとこの世で最も正しい報復だ。

 


 ――――斯くして、俺達の再起を賭けた戦いは幕を開けた。

 

 

 

 - 落ちぶれ絵師の正しい異世界報復記 -







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