ヘレンチア助教授が常駐する教授室は、以前訪れた時より目に見えて混雑化が進んでいた。
ある程度整理されていた机の上は、半開きの資料や端の揃わない書類の山で埋まっているし、床には木の実の殻が散乱、本棚もまるで泥棒に遭ったかのようにあちこちが抜け落ちている。
「何? 何の用?」
そしていつにも増して拒絶反応が顕著なヘレンチア助教授の声と苛立った顔。
研究に煮詰まっているのは明白だった。
こういう場合、関わっても碌な事にならないのはウォルトも重々承知していたが、今回はそれが好機だと判断し、ツカツカと彼女の机へ向かって突き進む。
「先日はお騒がせしました。そのお詫びと……貴女の真意を聞かせて貰えればと」
「真意? 何の」
「どうして貴女は昨日、ここを出てこなかったんですか?」
昨日――――ウォルトの指示でオルフェとリラはまず彼女へ『武器を持った人間が大学内にいる』という報告をしに行った。
しかし結果的に、彼女は報告を受けるのみで、何もしようとしなかった。
確認さえも。
ただ、ウォルトはその事に憤慨している訳ではない。
真意を聞けば、彼女の行動理念がわかるだろうと思っての訪問だった。
「知ってたから」
そしてその返答は、予想の範疇だった。
「やっぱり、ミスト教授の旧友が大学を訪れると知っていたんですね」
「話はそれで終わり?」
「いえ。今の答えで確信しました。何もかも面倒臭がっている訳じゃないのなら、貴女のその淡泊さには理由がある」
回りくどい聞き方は得意ではない為、ウォルトは一切の装飾を排除し問いかけた。
「貴女は、助教授を辞めたいんですね」
返答は――――これもまた、最大級の簡略化が行われた言葉。
「そ」
相変わらず資料に目を向けたまま。
ただ以前と違い、その目付きはやたら鋭い。
敵意や殺気とは全く違う、それでいて限りなく近いその雰囲気を言葉で表すなら『邪気』が最も相応しい。
尤も、それはウォルトの質問に対する嫌悪感ではなく、研究が進まない事への苛立ちなのは火を見るより明らかだったが。
「貴女には拒否権も降格を求める事も許されていない。だから、辞めさせられるような行動をとっている。それはわかります。でも、その為に部下を放置するのは間違っていると思います」
「そっかな」
「いや……そんな軽く返されても困るんですが」
柔軟性に乏しいウォルトにとって、ヘレンチア助教授のような性格の人間と議論するのは最も苦手な事の一つだった。
沼に杭を打ち込んでいるような手応えのなさ。
それでもめげず、再度訴えを試みる。
「貴女が自身の研究を最優先する事自体は、僕に否定する権利なんてありません。この大学が教育よりも研究を重視しているのであれば尚更です。でも、不安を抱えている未熟な部下を思いやる事くらい、してあげてもいいじゃないですか。武装しているミスト教授の旧友が訪れる事を、事前に知らせる……そこまでコミュニケーションを密にして欲しいとは、この際言いません。でも、死に論文を押しつけられたオルフェとリラに意思確認するくらいの事はしてあげて下さい」
捲し立てるのではなく、穏やかにそう訴えるウォルトに対し――――
「出来ない」
意外にも、ヘレンチアは拒否を示した。
研究至上主義の彼女なら、適当に肯定の返事をしてあしらい、その実何もしない――――というのが、ウォルトの予想していた反応だったからだ。
だが彼女の反応は違った。
放置するという行動を能動的に行っているとすれば、そこには何らかの信念がある。
予想外であるのと同時に、光明でもあった。
「見たところ煮詰まっているみたいですし、気分転換に教えて貰えませんか? 敢えて部下を放置している、その理由を」
「……大した事じゃないのに」
嘆息混じりに、しかしそれでもウォルトの提案は彼女にとって有益と判断したのか、資料をパタンと閉じ、初めてウォルトと視線を合わせる。
「わかってると思うけど、あたし、人に物を教えるの向いてないから。求められても困る」
「はあ……」
確かにわかってはいた為、ウォルトは返答に困る。
その反面、納得出来ない事もあった。
「それでも、せめて今の時期……駆け出しの研究員にとって一番大事な時期くらいは、最低限の指導をしてもいいんじゃないですか? 他の三人はともかく、オルフェとリラは貴女の手引を必要としている筈です。彼らを守ってあげてください」
「大事な時期だから、あたしが関わる訳にはいかないんじゃない」
「……え」
「大学の犬のあたしが『あれは大学の事情で無理に続けてるだけのゴミ論文だから、参考にしても意味ないよ』とは言えないんだから、あたしに出来る事なんてない」
ヘレンチア助教授は一度喋り出すと多弁になるタイプらしい。
それも含め、研究者らしい性格の女性だとウォルトは納得した。
「助教授になるとね、自分の研究以外にも、大学の都合で幾つか押しつけられんの。大抵は死に論文。ハッキリ言って、そんなのに一分でも一秒でも時間とりたくないのが本音。でも、大学に雇われてる身でそれ言っちゃおしまいでしょ? だったら、あの子達が"自分で気付くまで"放っておくしかないじゃんね」
つまり、こういう事だ。
自分が関わる気が一切ない死に論文の使い道として、新米研究員であるオルフェとリラが『これは死に論文であり、この研究を続けるのは時間の無駄だから別の研究をしよう』と自己判断出来る知識と経験を身につけさせる為の教材にしよう――――ヘレンチアはそんな考えの元、彼らを放置していたと。
「そうしとけば、大学への報告も『新人に研究させてる。結果はまだ出てないけど、いつか出るかも』で済む。彼らは学べて、あたしは死に論文の現状報告を楽に出来る。良い事尽くめ。どう?」
「そ、そこまで考えがあったなんて……すいません、僕のした事は全部余計なお節介なんですね」
「わかってくれたなら……」
「――――なんて言うと思いましたか」
頭部数ヶ所に青筋を立て、ウォルトは机をバシンと叩き怒りを露わにした。
理屈はわかる。
死に論文を教材とし、『ダメな研究例』を覚えされ、更に自主性を養わせる。
それ自体は教育の方針として筋は通っている。
だが、決定的なものが抜け落ちている。
「貴女がこうやって教授室に引きこもってたら、彼らだって『違う研究がしたいです』とは言い出しにくいですよ。それに、欠席を続けている三人の問題もあります。酒場に入り浸って賭博行為をしている彼らは、今のままじゃ間違いなく道を踏み外します!」
それは、配慮。
助教授という立場で給料を貰っている以上、そこの部分の手抜きは許されない。
「せめて偶に研究室に顔を出すくらいはして下さい。それで大分変わります」
「えー、メンドい」
「ずっとここにいても、さっきみたいに煮詰まるだけじゃないですか?」
それは図星だったらしく、ヘレンチア助教授は露骨に顔をしかめ、熟考し始めた。
そして、暫くした後――――
「妙案を思い付いた」
「……何ですか」
「ウォルト=ベンゲル君。きみに本件の全権を委ねよう」
席を立ち、机の周りをトコトコと歩いてウォルトに近付き、その肩をポンと叩きながら、悪びれもせずそう言ってのけた。
「な、な……」
「言ったよね? お手伝いしてくれるって」
「それは……!」
「あたしみたいな人格破綻者がね、多感な時期のあの子達に助言やお説教しても逆効果。向こうがキレたら絶対キレ返す自信あるしねー。そんな修羅場経験さすよりは、きみみたいな愚直、もとい実直な青年に諭される方が幸せってモンでしょ」
人格が破綻している自覚がありながら、この態度。
まさに人格破綻者の典型例を、ウォルトは目の当たりにしていた。
とはいえ、彼女の無責任さを棚上げすれば、その提案は確かに悪くなかった。
ウォルトは既に、オルフェ達に手を貸すと決めている。
なら、権限はあるに越した事はない。
「……わかりました。微力ですけど、やるだけやってみます」
「うん、お願い。や、これで肩の荷が下りたよ、うん」
実際には荷物どころか肩凝りの原因にすらなっていなかったのは明白だが、ウォルトはそれ以上追求する気にもなれず、足早に教授室を後に――――
「一つだけ、研究者の先輩として助言」
しようと踵を返す直前、ヘレンチアは相変わらず険しい顔のまま、人差し指を立てやや声のトーンを落とし、伝える。
「あたしは、この世で一番残酷なのは『素質がないのに研究を続ける事』だと思ってる。必ず地獄を見るから」
これまでにない、実感とも異なる何かが籠もった言葉を。
「……貴女の研究室には、素質のある研究員がいないって言いたいんですか?」
「見定め中。今は七割程度。あとの三割を、きみに託す」
本気で言っているのかどうか、かなり怪しくはあったものの――――
「それが僕の仕事だと思うようにします」
ウォルトは決して軽くないその責任を、静かな決意で背負った。
ヘレンチア研究室はその日、発足当初以来となる人口密度を記録していた。
毎日出勤しているオルフェ、リラは勿論、それ以外の三人の研究員も全員が顔を揃えている。
ウォルトが招集を掛けたからだ。
幾ら彼らでも、ヘレンチアから全権を委ねられたウォルトを無視するほど無謀ではなかったらしい。
それでも不快感を隠そうともせず、それぞれの席に着きながら研究室最奥で仁王立ちするウォルトを睨んでいた。
「まずそこの欠席常連組の三人にハッキリと言っておきたい。僕はオートルーリングの開発に関わった人間の一人だ。でも僕は君達に悪い事をしたとは思わない。君達がやさぐれているのは、君達自身の責任だ」
それに対し、ウォルトも正面から睨み返す。
柄じゃないのはわかっていた。
心への負荷は相当なもの。
けれどもウォルトは思い返していた。
アウロスとの初対面時に、彼の論文を完全否定した自分を。
あの時も同じ心境だった。
心を鬼にして、持論を貫こうとした。
結果的にそれは的外れなものとなってしまったが、アウロスは出会って一年ほど経過した後、ウォルトと組もうと決めたのは『あの時』がきっかけだったと述懐していた。
言葉が強ければ強いほど、跳ね返ってくる感情は強いものになる。
時にはそれが悪意や憎悪になるかもしれない。
けれどそれは、強い言葉を封印する理由にはならない。
必要なら、必要だと判断したのなら、使うべきだ。
「そんな事を言う為に、オレらをわざわざ呼んだのかよ。下らねェ」
欠席常連の三人の内、リーダー格と思しき一人が吐き捨てるように煽る。
人相は決して良くはない。
柄も悪い。
オルフェとリラが逆らえず、死に論文を押しつけられたのも無理のない事だった。
「下らなくはないよ。だって僕はまだ、君達に自己紹介をしていなかったからね」
「あン?」
「自分を紹介もせずに、君達の領域に足を踏み入れた非礼を詫びたい。ここは君達の場所だから、ここで謝罪しなければと思ったんだ」
そう告げ、ウォルトは頭を下げる。
そして再び上げたその顔には、研究者特有の頑固さが滲み出ていた。
「魔具科、クールボームステプギャー研究室所属の魔具技師ウォルト=ベンゲルです。君達の研究を手伝う為に、このヘレンチア研究室に派遣されました。もし魔具について何か知りたい事があったら、気軽に声を掛けて欲しい。勿論、研究で僕が必要なら呼んでくれれば可能な限り応えようと思う」
まだ自己紹介をしていなかった三人に対し、ウォルトはしっかりとその一人一人の目を見据え、訴えた。
「……自分の立場がわかってて言ってんのかい? 魔具技師さんよ」
それに対し、リーダー格の研究員が強い言葉を返してくる。
ウォルトはそれでも怯む事なく、続きを待った。
「オレ等はこの研究室に配属される前は、それなりに有望視されてたんだよ。オレ等の研究は、ライコネン教授から評価されてたんだ。だけど教授は地方に飛ばされ、研究はお前等に潰された。オレ等は何も悪くねェんだよ。なのに勝手に割り込まれて、努力も展望も無駄になっちまった! お前にわかるのかよ、オレ等の怒りがよ!」
ライコネン教授――――かつてミストと鎬を削り、水面下で激しい争いを繰り広げ、そして敗れた元ウェンブリー魔術学院大学前衛術科教授。
彼の下で研究に励んでいたこの三人は、確かにリーダー格の男が言うように、何も悪くなかったのだろう。
絶望し、ふて腐れ、やさぐれるのも無理はない。
ましてウォルトを敵視するのを、誰が責められるだろうか。
彼らの怒りは――――ウォルトがミストに感じていた怒りそのものなのだから。
「いや、案外わかるのかもな。お前だって腐ったクチだろ? 本来ならお前はこれからこの大学の中心になるヤツだ。オートルーリングの開発者の一人だからな。そんなお前がウチなんかに派遣されてるって事は、左遷されたんだろ? ザマぁネぇな」
「ち、違う! 左遷なんかじゃない!」
そう絶叫し否定したのは――――ウォルト本人ではなく、オルフェだった。
「あんた等にウォルト先輩の何がわかるってんだ! あんた等なんかに――――」
「左遷だよ。クールボームステプギャー教授からもそう言われてる」
興奮し、捲し立てるオルフェを、ウォルトが右手を掲げ制する。
その声は余りに穏やかで、オルフェの激高を、場の空気さえも一変させた。
「でも、だからどうしたと言うんだい?」
「……開き直りかよ。見苦しいぜ、元成功者さん」
「見苦くても、開き直るしかないんだ。研究に失敗は付きものなんだから。確かに僕は、周囲から見れば落ちぶれているんだろう。でも僕は何一つ後悔していないし、自分を恥じるつもりもない。オートルーリングの開発で得た経験は、これからの人生に必ず生かす。勿論この研究室でもね」
二人の睨み合いは続く。
それは決して研究者としての議論ではなかったが、他の研究員全員が、白熱する二人に見入っていた。
「謝罪はしない。強要もしない。君達の人生だ、君達の責任下で好きにすればいい。でも後輩に自分達がやりたくない研究を押しつけるのは良くない。死に論文なら尚更だ」
「……」
「だから、邪魔をさせて貰う。その他、文句や苦情も受け付ける。僕は毎日ここにいるから」
「堅物だな、お前。一番受け付ねェタイプだ。賭け事も嫌いなんだろ?」
「研究なんて、賭け事と大して変わらないよ」
ウォルトのその返しは、リーダー格の舌打ちを生んだ。
上手く返されたという意思表示だ。
「行くぞ。これ以上こんな堅苦しい場所にいたくねェ」
席を立ちながらのその一声で、リーダー格以外の二人も慌てて立ち上がる。
その後、特に言葉を発する事なく、三人は研究室を後にした。
「ふぅ……」
自己紹介という目的を無事果たし、ウォルトは大きく息を吐く。
安堵の溜息ではないが、それなりにやるべき事はやれた。
ヘレンチア助教授の期待にどれほど応えられたのかも、自分の気持ちがどれだけあの三人に届いたのかも全て不明だが――――
いつか彼らが再起を決心した時の命綱になれれば良いと、そんな展望を描いていた。
何より、ウォルトにとって彼らの未来は、然程重要ではない。
重要なのは、彼らが押しつけた死に論文を今後オルフェ達が手放す事になった際、彼らに難癖を付けられたり、嫌がらせをされない事。
今回の衝突で、彼らの敵意はウォルトに向けられた。
何かあれば、ウォルトの方へ刃を突きつけるだろう。
それが刃ではなく、彼ら自身の手である事を願ってはいるが――――それは願いだけ。
ウォルトはどうしても守りたかった二人へと視線を向ける。
まずはオルフェへ。
「さっきはありがとう。庇おうとしてくれて」
「そ、そんな! 俺、何も出来なかったし……」
「力になったよ。僕はああいう言い合いは本当に苦手だから」
援軍がいてくれる頼もしさ。
職人気質の多い技師も研究者同様、孤独に慣れてしまう傾向が強く、ウォルトもまたその中の一人。
アウロスが大学を去って以降、クールボームステプギャー教授という理解者には恵まれていたものの、同じ目線、同じ立場で何かに挑める仲間がまた出来るかもしれないという希望が、オルフェの先程の震える声で湧いてきた。
「……僕は魔具を作る仕事だから、魔術士を、君達を支える立場だ。僕に出来るのはそこまで。魔術の発動速度を上げたり、精度を向上させたり。本質的な所は、君達自身が考えて、経験して、学んで、決断して欲しい。これからも一緒に頑張って行こう」
穏やかに自分の素直な気持ちを伝えるウォルトに対し、オルフェは涙ぐんでいた。
彼には、自分の好きなもの、尊敬するものへの強い想いがある。
そして今、その想いを正しいと認められた事実を得た。
なら、必ず自分の研究を見つけられるだろう――――
「リラも、怖かったと思うけど、よく耐えたね」
「………私は別に………これくらい、リッジウェア先輩なら一蹴出来る、です」
「なら、目指そうか」
「………はい」
――――あの二人のように。
「………あの。質問、です」
オルフェが涙を拭きに一旦研究室を出たところで、リラが耳打ちをしてくる。
人見知りだった彼女から顔を寄せられたウォルトは、妙に感慨深くなってしまった。
「………エルガーデン先輩と、リッジウェア様は、恋人同士だった、ですか?」
「え?」
「………」
赤面し、俯くリラ。
その質問が、単にアウロスとルインの関係性を聞きたいだけのものではないのは余りにも明白で、場合によっては彼女がルインに憧れる"もう一つの理由"なのかもしれない。
つまり、アウロスとルインの関係性をも継承したいという意思。
だとすれば、果たしてどう答えるべきか。
ウォルトは専門外の分野に関しても、暫く悩む事になった――――