文化祭って言うのは、まあ簡単に言ってしまえば、単なる学習発表会の名残だ。
 小学生低学年の段階で、そう遠くない未来に体験する様々な『本番』に対して
 どう取り組み、またいざその『本番』の際にどう言った心境で臨むか、と言う事を
 学ぶ為に、学習発表会は誰もが体験する。
 このイベントはとても大事で、ここで本番に強い人間、弱い人間が分かれると言っても
 過言じゃない。
 まあ、中にはもっと年を取ってから本番に強くなる人もいるけど、多くの場合は
 この時点で既にある程度振り分けがなされてしまう。
 どう取り組むか。
 どう臨むか。
 この過程と言うものに対して、特に学生の時期は重要視される。
 本番で出した結果より、過程が大事だと習う。
 でも、最近の風潮は違う。
 結果こそ総て――――したり顔の評論家が口を揃えて使うこの言葉が、何故か
 プロや専門家とは関係のない一般人の一般的な行動までも支配するようになって来ている。
 結果が総てってのは、結局のところ人間は他者の表面的な面しか見ない、と言う
 本来は観測者への皮肉であるべき言葉なんだと思う。
 でも、今の時代には、『努力をしない事』への言い訳として使用されている。
 まあ、それは良いとして。
「ふぅ……」 
 新聞部への協力から始まった文化祭の準備ヘルプと言う罰ゲームは、その後美術部、
 卓球部、3-2、2-1、更には生徒会にまで及び、21時を回ったところでようやく
 今日の分を消化し終えた。
 絵の展示の手伝いや、ただの掃除、そして買出し等のパシリ行為。
 やった事と言えば、そんなもんだ。
 そこに充実感なんてものは、微塵もない。
 ただ、そんな地味で誰にでも出来るそんな行動は、今日手助けを必要としていた
 人達にとっては本当に重要な事だったみたいで、行く先々で僕と雨夜は大げさなくらい
 お礼を言われてしまった。
 皆、必死なんだ。
 全力で、明後日から始まる文化祭を成功させたいらしい。
「……何で、あんなに頑張ってるんだろうな」
 まだ開放されている玄関を前に、下駄箱の靴を取り出している雨夜の隣で
 僕は何ともなしにそんな事を呟いた。
 文化祭なんて、学習発表会の延長戦のようなもの。
 なら、僕達高校生にはもう必要のないものだ。
 必死になって頑張っても、それで残せる結果なんてのは、結局のところ
 満足感や充実感しかない。
 それが尊いものだってのは、わかる。
 これでも、スポーツマンの端くれ。
 皆で一つの事に向かって進み、結果を残す事はとても気持ちのいい事だ。
 でも、それは例えば勝負事だったり、多少なりとも緊張感の伴う環境で
 活躍したり出来た事に対しての意義、だと思う。
 文化祭には、それはない。
 それでも、皆一生懸命だ。
 疲労感を隠さずに、靴を取り出す動作にも緩慢さが見られる雨夜もまた、
 ずっと一生懸命手伝いをしていた。
 僕は、それを不思議に思っていた。
「それがわからないのは、アンタが外面しか見てないからよ」
 結局――――行き着いたのはそこだった。
「……文化祭の外面って何だ?」
「それくらい、自分で考えれば? 私はアンタの先生じゃないんだから」
「それくらいってんなら、教えてくれても良いだろ」
 靴を履き、爪先で軽く床を叩く。
 疲労で浮腫んだのか、少し窮屈だった。
「そのままの意味よ。文化祭なんて下らない、将来何の役にも立たない、
 って思ってるんでしょ?」
「そこまでは思ってねえよ。でも、文化祭を頑張って成功させて、その後に
 皆で『良い思い出になったね、良かったね』って讃え合うのってさ……何か
 わからないんだよな」
 だって――――そうなるのが決まってるから。
 野球なら、勝つかもしれないし、負けるかもしれない。
 だから、勝てば嬉しい。
 難しいインハイの球を、壁を作って腰のスムーズな回転で力負けせずに
 ライト前に運べた時の充実感は、それが上手く出来る保証がないから生まれるもの
 なんじゃないのかと思う。
 でも、文化祭は――――時間と労力さえ使えば、後はもう成功が約束されてる。
 別に、頑張ったからと言って入場者数が変わる訳でもないだろうし、仮に変わったと
 しても、その数が成功と失敗を分ける大きな要素にはならない。
 頑張って準備して当日を迎えて、そして最終日を迎える事が、高校生の文化祭における
 成功の条件なんだから。
 仮にトラブルがあっても、それすら失敗とはしないだろう。
 僕には、そこで得られる充足感に、どうにも共感出来そうにない。
「白々しい、って事?」
「……否定はしない」
 どうしても気になる足元の違和感が、中々僕の足を踏み出させてくれない。
 月の隠れた玄関で、僕は雨夜の言葉を待つ。
「アンタ、何かに一生懸命になった事はないの?」
「あるよ。5年ちょっと、野球をやってた」
 中学生の頃、僕は普通の野球部にいた。
 3年になってレギュラーを取って、地区予選の3回戦敗退――――それが
 中学時代の僕の野球の結果だった。
 練習は、結構辛かった。
 一日5kmは走ってたし、1年の時は殆ど野球じゃなくて球拾いだけを
 していた気がする。
 高校に入って、第二野球部に入部したのは、その時の反動もあったのかもしれない。
 もう無意味な球拾いなんてしたくない、って思った。
 だから、甲子園なんて目指さない、同好会みたいな第二野球部を選んだ。
 そこには、明確な目標がなかった。
 結果を求める野球はなかった。
 でも、その中でも、例えば草野球での勝ち負けとか、バッティング練習での
 長打とか、その都度結果を求めてはいた。
 それくらいが丁度良かった。
「だったら、真剣にやってなかったのね」
 嘲るような物言いに、僕は怒りを覚えなかった。
 もし本当にそうなら、ムキになって否定しようとしたかもしれない。
「野球だってさ」
 だから、僕は怒らなかった。
「将来、何の役にも立たねえよ」
 代わりに、そんな事を口にしていた。
 その僕の言葉に、雨夜は今までとは少し毛色の違う表情を見せた。
「それもそっか。だったら、もうわかってるんじゃない? 結果とか形とか、
 そう言うものを残す為に皆一生懸命じゃないって事くらいは」
「……」
 それは、わかってる。
 でも、必死になるどの価値がそこにあるのかと言う事が、僕にはわからなかった。

 過程を楽しむ――――その事が。

「明日は何時から?」
 雨夜の声で、ふと我に返る。
 日程表によると、明日は9時に学校に来るようになっていたので、僕はそれを
 少しドモりながら伝えた。
「そう」
 特に労いや挨拶もなく、雨夜は僕より先に学校から出て行く。
 お嬢様だから、これくらい帰り時間が遅くなると、迎えの車が来ているんだろう。
「ちょっと」
 僕はそんなかつての想い人に、一つ聞きたい事が出来ていた。
「……どうして、皆の前では猫被ってんだ?」
 外面に囚われない事を周囲に臨むなら、被りものは反則だ。
 ありのままの自分を見て貰って、そこで判断して貰うのが筋だろう。
 でも、雨夜は僕に対して接している際の言葉遣いを、普段は決して使わない。
 その理由を聞きたかった。
「猫なんて被ってないから」
 でも、その理由は僕に対しての全面否定に留まった。
 足音が聞こえなくなる。
 遠かった。
 何もかも。
 夜空の星のように。



 翌日。
 幸いな事に、空は何処までも青く澄んでいて、外出するのには
 最適なコンディションとなっていた。
 無論、僕の心は晴れない。
 本当ならこの土曜日は川釣りに出かける予定だったんだ。
 普段、受験生の僕達は土日も登校して補習を受けるところなんだけど、
 この文化祭の準備期間だけはそれがない。 
 久々に羽を伸ばす機会となる予定だった。
 畜生め。
「どうせ食べもしない魚なんて釣ったって、誰も何も得しないんだから。
 中途半端に川魚の心情を弄ぶくらいなら、学校の役に立って来なさい」
 と、朝っぱらから母の身も蓋もない物言いに辟易しつつ、ウンザリと登校。
 到着したのは、9時ピッタリだった。
「遅い! 5分前行動って習わなかったの?」
 そして、遅れてもいないのに既に到着していた雨夜にいきなりダメ出しを
 食らってしまった。
「いや、遅れた訳じゃないんだからキレられる言われはねえだろよ」
「遅れなきゃ良いって訳じゃないのよ。もし途中でお年寄りの人に道を
 聞かれたりしたら、って事を考えて行動するのが正しい心がけじゃないの?
 そう言う過程を無視するから……」
 また『過程』か。
 つーか、何で俺はこいつと顔を合わせる度に説教を受けなきゃならないんだ?
 名前を間違えた件を未だに根に持ってんのか。
 それとも、物静かな外面とは裏腹に、実際には説教魔なのか。
 ……何にしても、徹底的に僕とは合わないこの女子と、今日も一日中
 行動を共にするのは苦痛でしかない。
 ただ、別行動って訳にも行かない。
 スタンプカードは一枚。
 分かれる事も出来ない。
「で、今日は何処から手伝うのよ」
「茶道部だと。一体何をやるんだか」
 全く縁のない部活動を手伝う事にも、何となく面倒臭さを感じ始めていた。
「そう。じゃ、行きましょう」
 ぶっきらぼうに言い放ち、雨夜は歩いていく。
 そして、今日もお手伝い回りが始まった。
 

 ――――5時間後。


「ありがとうございましたー♪」
「はい。皆さんも頑張って下さい」
 後輩ばかりの教室に丁寧な口調で応え、雨夜は一足先に教室を出る。
「先輩! 先輩!」
 そして、僕もそれに続いて2-3の教室を後にした。
「テメェェェ無視すんじゃねェェェェ!」
「ぐあっ!?」
 しかし、それは羊の鳴き声のような奇声と共に飛んで来たコンパスによって
 阻止されてしまった。
「つーかコンパスなんて投げるヤツがあるか! 普通に傷害事件じゃねえか!」
「ちゃんと針カバーしてるッスよ。ナメんなコラ」
「やかましいわっ! 尖ってなくても普通に凶器じゃねえか!」
 このガイキチじみた後輩の男子は、第二野球部現キャプテン、吉田遊鳥。
 名前はゆとり、と読む。
 通称特になし。
 だってゆとりだもの。
 他に呼びようないもの。
「大体、シカトする先輩が最悪なんスよ。可愛い後輩の呼び声を」
 そう訴えてくるゆとりの顔は、確かに可愛い。
 まるで女のようだ。
 その名前も何となく女っぽいんで、いつも間違えられているらしい。
 だからこんなに捻くれたんだろう。
「で、何だよ」
「今の美人過ぎる先輩は、先輩の彼女ッスか?」
 少し心臓にグサっと来た。
「ちげーよ」
「ま、そうッスよね。あんなイケジョと先輩が付き合うとか、普通に
 考えて羽のない扇風機くらいあり得ないッスよね」
 グサっと来たーーーーっ!
「だったら聞くなバカああああっ!」
 僕は内角の球を腕を畳んで腰の回転でさばく要領で、ゆとりの
 顔面に全力でビンタをかまし、2-3の教室を今度こそ後にした。
「ゆ、ゆとり君!?」
「大変! ゆとりちゃんが蹲って泣いてる! 誰か慰めてあげて!」
 あいつ、弱いんだよなあ……過激な割に。
 しかし、それが周囲の女子にはウケてるらしい。
 困った後輩だ。
 ちなみに、野球の方は大して練習もしてないのに5番ファースト。
 ムカつくヤツだが、何かと僕に懐いて声を掛けてくる可愛い後輩でもある。
 ま、今はアイツの事はどうでも良い。
 この2-3の手伝いで、消化すべき残りの手伝いポイントは1箇所になった。
 ちなみに、日程表は相変わらず僕が所持してるから、先に出てった雨夜は
 依然としてそれを知らない。
「……最後は何処に行けばいいのよ」
 赤面しながら戻ってきた。
 いい加減学習してもよさそうなもんだが……本当に天然じゃあるまいな。
「次は……第二野球部?」
「何で疑問系なの」
「いや、聞いてねえよ!」
 ウチが出し物をするなんていう話はなかったんだけどなあ。
 そもそも、文化祭ってのは文科系の部活が本領発揮する場で、運動部の方は
 参加する方が少ない。
 ましてもう引退してた事もあって、確認すらしてなかったけど……
「訳のわからない事言ってないで、早く行きましょう。これでやっと、
 お互い解放されるんだから」
「あ、ああ……」
 腑に落ちない心境で、僕は勝手知ったる部室へと足を運んだ。
 第二野球部の部室は、グラウンド傍のプレハブ。
 第一野球部の隣だ。
 普通、こう言う格差のある同系統の部活の場合、第一野球部が
 第二野球部を見下していて、嫌味を言ったりちょっかいをかけてきたり
 するものなんだけど、僕達は特にそんな扱いを受ける事はない。
 まあ、第一野球部もそんなに強くないからな……結局今年も二回戦敗退だったし。
「お、ミヤー! チーッス」
 そんな事を考えていた所為か、途中で第一野球部の元キャプテンと遭遇する。
 隣のクラスの谷川。
 中学時代は、一緒の部活で汗を流した事もあった。
「第二野球部、ゲイ喫茶やるっつってたけど、マジ?」
「何だそりゃあああっ!」
 恥だ!
 もうっ、あいつらったら僕にとんだ恥かかせて!
「……ゲイ喫茶?」 
 案の定、雨夜はこの世で一番醜いゴキブリを見るような目を僕に向けてきた。
 くうっ、こればっかりは致し方ない。
 僕だって、立場が逆なら似たような目をしてるトコだ。
「って言うか、本当なのかよ。初耳だぞ?」
「さあ。でもさっきちっちゃい方がカマ言葉で教えてくれたからさ」
 ちっちゃい方ってのは、高田のでっかい方の弟だ。
「ま、あんまハメ外して風営法違反の営業停止処分を受けないようにな」
 苦みを多少帯びつつも、何処か爽やかな笑顔を残して谷川は去って行った。
 窓から吹き込む風が冷たい。
「……」
「無言で引き返さないでくれ」
 そして、いやいや僕の後ろについてくる雨宮を監視しつつ、部室へ到着。
「あらァ、いらっしゃァいミヤァァアアアアッ!?」
 そして、世にもおぞましい姿で迎えて来たKYを、これまでの人生の全てを
 かけた全力のビンタで吹っ飛ばす。
「ヤダァァァ、何なのォ?」
「暴力ッス! 暴力団が来たッス!」
「やかましゃあ! つーかテメーいつここに来たんだよ!」
 ちっちゃい方とゆとりもついでにビンタしておく。
 幸いな事に、他の連中は普通にしていた。
 流石に山田や木田までオカマの化粧してたら、僕は自分の歩んで来た
 高校生活、引いては青春全てを否定しなきゃならないところだ。
「で、この有様は一体何事なんだ?」
「私の趣味だよ! 悪いか!」
 首謀者はマネージャーのにゃあだった!
「悪いに決まってるだろ! 何処の世界に、文化祭にゲイバー開く
 野球部があるってんだよ!」
「ゲイバーじゃないもん! ゲイ喫茶だもん!」
「知るかボケ! お陰で今頃第一野球部の連中から笑いものにされてっぞ!」
「だって、子供の頃から夢だったんだもん! 小さい喫茶店のウェイトレス
 になって、素敵なマスターの隣でお客さんを待ちながら、『お客さん、来ない
 ですね……』『僕は構わないよ。君と二人きりって言うのも悪くないしね』
『え。マスター、それって……ヤダっ』って言うポワポワな雰囲気になるのが
 夢だったんだもん!」
「だったら頭にゲイをつける必要一切ねえだろうがあああっ!」
 流石に女子は叩けないので、大声で応戦。
 結果、泣いた。
「わああああん、ミヤちゃんが、ミヤちゃんが怒ったー!」
「高校三年生が怒られて泣くなあああっ!」
 どっと疲れる。
 どうやら、最後の手伝いはナシって事になりそうだ。
「……大丈夫? これで拭いて」
 頭を抱えている最中、僕の耳にそんな慈悲深い声が聞こえてくる。
 雨夜だ。
 にゃあにハンカチを差し出し、労わるように背中を撫でている。
「ありがとう……」
「その、ゲ……イロモ……風紀に反する脚色はしない方が良いけど、
 喫茶店なら問題ないと思うから、そっちの方向で頑張りましょう」
「……うん」
 あっさりと説得。
 にゃあは受け取ったハンカチをはむはむと噛みながら、コクコクと頷いていた。
「男子が浮かないように、色々考えたんでしょう? 偉いと思う」
「……」
 雨夜の言葉に、にゃあは何も言わず、頷きもしなかったが――――成程、
 そう言う事だったのかと僕は納得した。
 そして、それを汲んだ雨夜をちょっと大したヤツだと思った。
「結果しか見ない人にはわからない事よね」
 一言多いのを除けば。
「……ま、無理してイロモノにしなくても、男は執事の格好でもしてりゃいいだろ。
 プレハブの喫茶店、ってのも味があっていいかもな」
 僕は嘆息しつつ、ロッカーに手を置く。
「取り敢えず、こう言うのを全部出すか。それからテーブルと椅子を調達して、
 メニューでも決めよう。衣装は……演劇部にでも頼めば貸してくれるだろ。
 後は100円ショップで蝶ネクタイでも買って来れば体裁は整う」
「お、ミヤ先輩が仕切り始めたッスね」
「よっしゃ、んじゃ動くか」
「って事は、俺このメイク落としても良いんだな? よっしゃー!」
 第二野球部の面々は、バカばっかりだ。
 僕もその中の一人。
 でも、バカはバカなりに、団結力はある。
 動き出すと、早い。
 最後の罰ゲームは、突貫工事ではあったものの、迅速に、そして全力で行われた。
「ありがとね〜。当日は絶対見に来てくんろ〜」
「わ、わかったから泣かないで」
 泣きながら抱きつくにゃあに狼狽を隠せない雨夜にこっそり苦笑しつつ、
 僕は看板をトントン叩き続けた。



 そして――――文化祭一日目。
 この学校は決して特別ユニークな学校じゃないし、枠からはみ出してる訳でも
 ないんで、ごく普通の、ありきたりな文化祭が行われていた。
 体育館では今流行のガールズバンドが、現実ってのはこんなモンだって言う
 惨状に近い音の凶器を奏でている。
 校庭にはただソースを絡めて焼いただけの焼きそばや、塩の加減がイマイチな
 焼きとうもろこし、マスタードをケチったフランクフルトの屋台が並んでいる。
 校内では、各クラスの催しが、これこそまさに学芸会の延長と言うノリで
 立ち並んでいて、占い師の格好をした女子やドラキュラの格好でお化け屋敷の
 ビラを配る男子等、やっぱりありふれた光景が広がっている。
 僕はと言うと、そんな文化祭の喧騒が下から聞こえてくる場所にいた。
 理由は、文化祭を見下ろす為――――じゃない。
 何だかんだいっても、体育館の周囲はこれ以上ないくらい盛り上がっているし、
 焼きそばのソースが焦げた匂いはそれだけで天国。
 占いだって、当たっても当たらなくても別に良い。
 彼女達が提供してるのは、高品質の占いじゃなくて非日常だ。
 その格好をして、そこにいるだけで良いんだ。
 それを見下げるつもりはない。
 ただ、疎外感を覚えていた。
 上手く溶け込めない。
 昨日と一昨日、僕は沢山のクラスや部室を回って、文化祭の手伝いをした。
 勿論、自発的じゃなくて罰として無理にやらされたんだけど、それでも
 手伝った事には変わりなく、この屋上に来るまでに、沢山の生徒から声をかけられた。
 皆、凄く楽しそうだった。
 僕は、決して悪い気はしなかった。
 でも、彼等の楽しさを共有するのは、何か違うと思った。
 第二野球部の喫茶店も同じ。
 本来は、僕はあそこにいないといけない。
 でも、行く気にはなれなかった。
 事前に喫茶店をする事を聞かされてなかったのは、単純な理由。
『ミヤ、こう言うのあんま好きじゃないじゃん』
 ソーローのそんな言葉に、僕は納得して笑顔を返した。
 その通り。
 僕の好みは、アイツ等には筒抜けだ。
 だから、ここにいる。
 何も間違ってない。
 ない筈だった。
 でも、どこか虚しかった。
 それは、僕が認めなきゃいけない事だった。

『結果しか見ない人にはわからない事よね』

 雨夜の言葉が、僕の耳にプレイバックする。
 うるせーな。
 きっとあいつは、こう言いたいんだろう。

『告白してOKを貰って付き合うって結果ばかりに気をとられて、その過程、
 つまり相手を知ろうとする努力を怠った最低ヤロー』

 名前を間違えた事で、アイツの中ではそう言う認識で固まったに違いない。
 外見だけで決め付ける。
 言葉だけで判断する。
 そう言う事を、雨夜は極端に嫌っている。
 でも、その割には中身が伴ってない気もする。
 変な奴。
 確かに、好きになったのは早計だった。
 浅はかだって言うのなら、名前を間違って覚えてた事じゃなく、
 好きになった事そのものだ。
 でも――――ここに、僕は矛盾を感じている。
 あんまり好きじゃない、文化祭のイベントに、仲間外れにされた事で
 ちょっと凹んでる自分。
 そして――――もう好きでもなんでもない筈の雨夜を、自分の好みの
 女性像とはかけ離れてる事が判明した雨夜の事を、告白する前よりも
 ずっと長く考えている自分。
 矛盾だ。
 でも、正しい。
 実際そうなんだから。
 奇妙だと思った。
 でも、そう言うものなのかもしれない。
 何事も理路整然と――――なんて、この世の殆どが機械でもない限りは
 あり得ないんだろう。
「……こんな所で何してるの?」
 僕は、屋上の柵から少し身を乗り出して、下の景色を眺めていた。
 だから、背を向けていた筈だった。
 屋上を訪れた、そいつには。
 でも、そいつは――――僕だと判断したらしい。
 身長172cm、体重64km。
 髪――――ノーマルな黒、やや長めの単髪。
 何一つ、後姿やシルエットで確定出来る要素なんてないのに。
「野田さんが呼んでたけど? 早く行ってあげなさいよ」
「……」
 僕はゆっくりと振り向き、雨夜に視線を向ける。
 こっちは、後姿でも直ぐにわかるくらい、長い髪の毛を風にたなびかせていた。
「後で顔を出すよ。今はちょっと疲れてて、あんまり動きたくない」
 小さな嘘を吐いて、視線を上にあげる。
 雲ひとつない青空――――って訳じゃなかった。
 所々に、白い綿の切れ端のような千切れ雲がある。
 そして、山の向こうにはその大群が見える。
 明日は、天気予報だと雨になっていた。
 文化祭最終日は、雨。
 これは動かし難い現実。
 でも、一生懸命準備をしていた彼等は、そんな事はものともしないだろう。
 僕は――――それが羨ましかったのかもしれない。
 告白して上手くいかなかった事を、ずっと引きずってたのかもしれない。
 いや。
 それよりずっと前から――――第二野球部を選択した時から、ずっと。
「可愛そうにね。あの子、あんなにアンタに懐いてるのに」
「猫みたいなヤツなんだよ。気まぐれな事ばっか言って」
「そう? 私には、アンタが好きで好きで仕方ないって風にしか見えないけど」
 風は、物を言う程に吹き荒ぶ。
 実際、雨夜の言葉の後に、その髪の毛は一層たなびいていた。
「……あいつが? 僕を? バカバカしい」
「どうしてそう思うのか、当ててあげよっか」
 雨夜の声は、何処か重たかった。
 言葉に重さなんてある訳ないんだけど、何かそう感じた。
「告白されていない。伝えられていないから。違う?」
「……結果だけを見てる、って言いたいのか」
「わかってるなら、敢えて私から言う事じゃないけど」
 首の辺りに、少し不快な感触が生まれる。
 別に誰かが何かをした訳じゃない。
 実際疲れてたんだろう。
 肩や首が張っている。
 その影響だ。
 それだけだ。
「良い子じゃない。元気で、可愛くて。応えてあげれば?」
「アンタにそんな事、言われたくないね」
「あ、っそ」
 わざわざそんな事を言いに来たのは、僕が今後も付きまとうと
 踏んだから、なんだろうな、やっぱり。
 他に恋人が出来れば、その心配もなくなる。
 わかりやすい。
 わかりやすくて、腹が立つ。
 だから僕は、この目の前の仮面を被ったお嬢様を、どうにかして
 怒らせてやりたくなった。
「そっちこそ、僕の前だけで本性出さないで、もっとクラスで毒吐けば?
 性格を隠して、それで中身を見ろなんて、何様だよ全く」
「本性……ね」
 でも、僕の意図とは裏腹に、雨夜は怒らなかった。
 こいつは我慢強くない、
 直ぐ怒る。
 ムキになって否定しないって事は――――僕の認識が間違ってるのか?
「私は別にアンタに自分を曝け出したつもりはないけど?」
「……その小憎たらしい態度も、演技って言うのか?」
「演技のつもりも特にないけどね」
 どう言う事か――――僕にはわからなかった。
 雨夜陽菜。
 容姿端麗。
 才色兼備。
 父親はとある有名電化製品メーカーの重役。
 高嶺の花とも言える存在の、正真正銘のお嬢様。
 でも――――いつも一人でいる。
 何故?
 そう言えば、深く考えた事はなかった。
 もしかしたら、彼女は、雨夜はどんな相手にでも、こんな風に接してたんじゃないか?
 沢山の中の一人として接する場合は、穏やかに。
 でも、個別に好意を向けてくる相手には、獰猛に。
 だから、孤立している。
 それも、意図的に。
 巧妙に。
「何で、そんな生き方してんだよ」
 僕は少し、卑怯な手を使った。
 僕の今の推論が例え的外れでも、このあやふやな質問なら、もしかしたら
 僕が真実を見抜いたと思ってくれるかもしれない。
 でも、雨夜は特に驚く様子もなければ、蔑んだ視線も作らず、ただ静かに
 虚空を眺めていた。
「これが一番良いからに決まってるじゃない」
 それはまるで、一度人生を最後まで送った事のある者のような、どこか
 諦観した物言いだった。
「僕にはそうは思えないけどな」
「それはそうでしょう。アンタは私じゃないんだから」
「いや、そうじゃなくて……」
 柵に手を乗せる。
 酷く冷たいのは、金属だから。
 それもある。
 ただ、僕の手はよりそれを強調させる環境にあった。
 或いは――――告白の時よりも緊張していたのかもしれない。
「昨日のウチの部室にいた時の方が、ずっと楽しそうに見えたから」
 別に、僕の何かが懸かっている発言でもない。
 それでも緊張を伴ったのは、もしかしたらこの言葉が雨夜の決定的な
 何かを壊してしまうんじゃないか、と言う懸念があったからだ。
 確証はなかったけど、そう言うリスクを何となく感じていた。
 でも。
 雨夜の顔に、確たる変化はなかった。
「賑やかなのは、好きじゃない」
 どうやら、僕は見当外れの事をずっと考えていたらしい。
 ずーっと。
 僕は常に見当外れなのかもしれないけど。
「でも、真っ直ぐな人達は、羨ましいって思った」
「……何だって?」
「誤解しないでよ。馬鹿にしてる訳じゃないんだから」
 僕はそんなつもりで聞き返したつもりじゃなかった。
 ただ、驚いただけだ。
 僕と全く同じ事を考えていた、その事に。

 ――――♪

 不意に、音が鳴る。
 携帯電話の電子音だった。
 僕のポケットじゃない。
 気付くと、既に雨夜は携帯を取り出し、僕から離れていった。
 下界の喧騒は、まだまだ収まりそうにない。 
 本当に楽しそうだ。
 もし、この中で僕も何かに夢中になれてたら、きっと今よりずっと
 何も考えずに楽しめたんだろう。
 そう考えると、自分がとっても情けなくなって来た。
「嘘っ!」
 突然の、大声。
 何事なのかと僕は一瞬混乱に陥った。
「だって、昨日はあんなに……冗談でしょ? 違うの!?」
 声の主は、屋上の中央まで離れた雨夜のものだった。
 距離も喧騒も関係なく、僕まで大きい音のまま届くくらい、
 彼女の声は切迫していた。
「……わかった。今から行く。うん、お願い」 
 そして携帯を切り、僕の方に視線を向けた。
 僕は、それに対して――――何も言わなかった。
 相手が誰なのか、何があったのか。
 僕は聞くべき立場にない。
 残念な事に――――それを聞く動機も、好奇心以外には生まれて来なかった。
 そこで、ようやく確信する。
 僕は間違っていた。
 告白はすべきじゃなかった。
 僕は、こいつを好きって訳じゃ――――なかった。
 雨夜は、何も言わずに屋内へと戻っていく。
 僕はその後姿を、呆然と眺めていた。
 失恋。
 それには、色々あると思うんだ。
 そして僕のケースは、きっと特殊でもなんでもないんだろう。
 恋に恋する、って言う言葉があるように。
 僕は、恋に失恋したんだ。
 そこには、最初から何もなかったんだ。
 結局――――間違ってたのは、僕だった。



 文化祭二日目。
 最終日となるこの日、天気予報通りに大雨が街中を包んでいた。
 傘を差しても、全ての雨粒から体を守る事が出来ない。
 そんな最悪のコンディションでは、屋台は当然全て撤収。
 体育館に密集する事になった。
 それでも――――皆の熱気は凄かった。
 文化祭を楽しもうって言う空気は、何処か『試合に勝とう』って言う
 強い団結力にすら似ていた。
「客、来ないな……ま、当然か」
 僕は、そんな体育館から離れた場所にあるプレハブ小屋の中にいた。
 第二野球部、部室。
 そこは今日も喫茶店だった。
 外に出したロッカー類には、ブルーシートがかけられている。
 まるで、工事現場の片隅にある休憩所のような、寂しい光景だ。
「来ないねえ」
 そこには、僕とにゃあの二人しかいない。
 僕は昨日顔を出さなかった罰とか何とかで無理やり店番を任された。
 元々、僕はこの喫茶店の事は伝えられてなかったんだから、
 言い掛かりも甚だしい気がするんだけど、他に何処か行く予定も
 なかったんで、言われるがままここにいる。
 にゃあは、元々自分がやりたくて始めた喫茶店なんだから、当然いる。
 ただ――――

『私には、アンタが好きで好きで仕方ないって風にしか見えないけど』

 昨日の雨夜のこんな言葉の所為で、色々と妙な方向に感情が動いていた。
 にゃあの好意って言うか、まあ他の部員より懐かれてるな、って言うのは
 ずっと感じてはいた。
 ただ、子供っぽいヤツだから、それが好きって言うアピールなのか、
 単純に話しやすい、弄りやすい、気が合うヤツだって認識でそうしてるのか、
 判断は難しかった。
 客観的に見ると、雨夜の意見になるって事だけど、それでもまだ半信半疑だ。
「ねえ」
「何だよ、にゃあ」
「にゃあは止めてってば、もー」
 雨の音の所為なのか、にゃあの声は少しいつもより小さく思えた
「昨日さ、雨夜さんと来てたよね」
「ああ。罰ゲームでな」
「大喧嘩した罰、だったよね。何で喧嘩なんてしたのかい?」
 茶化すような物言いも、どこか萎びている。
 或いは、僕の精神状態がそう聞こえさせてるのかもしれないけど……
「僕が悪かったんだよ。名前を間違えちゃってさ」
 半分だけ真実を話す。
 気の利いた嘘を考える余裕もなかった。
「ふうん。名前、ね。確かにわかり難いけど、そんな事で怒る人には
 思えなかったよ?」
「機嫌が悪かったか、間違われて嫌な思いした過去があったとか、
 そんなトコだろ」
「そんなトコ、かな。でも確かにわかり難いよね。『あまよ』って読むのか
『あまや』って読むのか。『あめよ』でも読めるしね」
「いや、間違ったのは苗字じゃなくて名前の方」
 客のいない喫茶店で、僕はポットに入れている従業員用のコーヒーを
 自分のカップに注いでいた。
 少しずつ増える漆黒の液体を見ながら、次のにゃあの言葉を待つ。
 でも、その声はコーヒーがカップの8分目まで注がれた後も、
 それを僕が飲み干した後も、ずっと聞こえて来なかった。
「……にゃあ?」
 少し心配になって、にゃあの方を見る。
 倒れたり気を失ったりしてるかも、って思ったからだ。
 でも、そんな事はなかった。
 ただ、虚空に視線を彷徨わせていたにゃあが、そこにはいた。
「ん? 何?」
「いや……何でもないけど」
「そ。ねえ、やっぱり、にゃあでいーよ。呼び方」
 にゃあは、ポツリとそう呟き、徐に立ち上がった。
 そして、自分用のカップを取って、コーヒーを継ぎ足していた。
 雨の音は、依然鳴り止まない。
 僕はいつしか、その音に聞き入っていた。
 雨。
 雨――――夜。
 あいつも、雨の日みたいな女子だと、ふとそんな事を思った。
 雨の日は静かだってイメージが強い。
 でも、時としてこんな大きな音を生む。
 少し鬱陶しい。
 雨夜そのものだ。
 でも、そのどっちもあいつの本性じゃないとしたら。
 僕は一体、どうすればあいつの中身ってのを見る事が出来るんだろう。
 一体どうすれば――――
「おーい! マネージャー!」
 突如、扉がドンドンと叩かれる。
 慌てて開けると、濡れ鼠になっていたツー(辻田次春)がいた。
 その後ろには高田兄弟やゆとりの姿もある。
「喫茶店、3-3の教室でやっていいってよ! あっちにテーブルとか全部あるから
 メニューと飲み物だけ持っていけば良いから、直ぐ行こーぜ!」
 流石に、この雨の中にプレハブまで足を運ぶヤツはいない。
 だから、こいつらはずっと変わりに喫茶店が開けそうな場所を探してたんだろう。
 きっと――――にゃあの為に。
「え、ホントー!? よかったー、そっちならゲイ喫茶店もOK!?」
「な訳あるか! ホラ、とっとと飲み物こん中入れろ!」
 テンション高く、移動が始まる。
 僕もそれを少し手伝って、そのままツー達を見送る。
 やっぱり、第二野球部の団結力は凄い。 
「ミヤちゃんは行かないの?」
 少し感傷に浸ってた僕に、にゃあが話し掛けて来る。
 その声はやっぱり、少し聞き取り難かった。
「ああ。暫くここにいるよ。移動してるの知らなくて来るヤツが
 いるかもしれないし」
「そっかー。流石ミヤちゃん! 気が利いてるねー。じゃ、頼んだね」
 にっこり笑って、八重歯を見せる。
 僕は、その顔をじっと見ていた。
「なあ、にゃあ」
「んー? 何じゃらホイ」
「お前さ、何でここのマネージャーになったんだ?」
 今まで一度も聞いた事のない質問。
 何で聞かなかったんだろう。
 ふと、そう思う。
 雨の音はやっぱり煩い。
 でも、その返事ははっきりと聞こえた。
「好きだからだよ? 野球と、ミヤちゃんが」
「……ゴメン」
 だから僕は、直ぐに謝った。
 そうしなくちゃならなかった。
「ヤダなー。何で謝るの? もー。それじゃ、ここ頼むねっ」
 にゃあは、雨の中に身を投じた。
 僕はと言うと、扉も閉めずにその様子をじっと眺めていた。
 僕は、外面を見て好意を寄せる事を悪い事だとは思わない。
 今も、そうは思わない。
 最初は誰だってそうだから。
 それに――――扉を開いたままでいるヤツなんて、いないから。
 雨の音はずっと煩い。
 僕は扉を閉めようと、腰を上げた。
 傘も差さずに。
 僕の目の前に、雨夜はいた。



 外見より中身が大事。
 結果よりも過程が大事。
 それは、古い考えだ。
 実際――――雨夜陽菜がその考えを持つに至った過程には、古い人間の存在があった。
 祖父、雨夜源次郎。
 有名電化製品メーカーの創始者であり、社長だ。
 叩き上げでその地位まで上り詰めた彼は、自分に厳しく、他人にも厳しかった。
 攻撃的な言葉で、ミスした部下を攻める。
 典型的な、旧態依然とした経営者だったみたいだ。
 そして、常に結果より過程を大事にしていた。
 業績を追い求めるんじゃなく、品質を上げ、従業員の教育を徹底し、長期的に
 会社が存続して行く為のプランを実行していた。
 直ぐに結果を求めない社長の方針は、当初こそ疑問視されていたものの、
 次第にそれが浸透し、電化製品メーカーはいつしか日本屈指の知名度を誇るに至った。
 しかし、過程を大事にすると言う事はつまり、結果に妥協しない事でもある。
 どんな業績を上げても上を目指す上昇志向は、バブル全盛までの日本には
 向いていたのだけれど、それ以降は『高望み』の一言で片付けられるようになっていた。
 その考えは古い。
 もう時代遅れ。
 それでは不況の中を生き残れない。
 会社の不満は、息子である雨夜宗吾が音頭をとり、創始者であり代表である
 源次郎へと直接ぶつけられた。
 不信任案は可決され、社長の交代劇は当時、それなりにニュースになったらしい。
 その後――――おじいちゃんっ子だった雨夜は、息子に引導を渡され、一人所在無さげに
 家の庭で毎日植物の世話をしている祖父の姿に、少なからずショックを受けていた。
 しかし、本当に大変だったのは、これからだった。
 腰部脊柱管狭窄症。
 加齢や外的要因に起因するその病気は、脊柱管中の神経が圧迫され、激痛や
 歩行困難と言った症状を引き起こすもの。
 程なくして、雨夜源次郎は歩けなくなった。
 今まで積み上げてきたものが、一つ一つ、崩れ去っていく。
 それでも、その老人は、懸命にリハビリに励んだ。
 老いて行く体を知りながら、醜態を晒しながら、陰口を叩かれながら、
 歩けるようになる為に、毎日機能回復運動を反復して行った。
 腰部脊柱管狭窄症は、劇的に回復する事は殆どない病気。
 特に加齢が原因の場合は、現状維持もままならない。
 歩くようになれる可能性は、なかった。
 それでも――――結果ではなく、外面ではなく、過程と中身を大事にすると言う
 その信念をそのままに、源次郎はリハビリを続けた。
 祖父のそんな生き方に影響されて出来たのが――――

「……私」
 頭をタオルで拭きながら、雨夜は言葉を置いた。
 昨日。
 雨夜の尊敬し、ずっと大切な存在だったその祖父が亡くなった。
 ここ数ヶ月の間は、意識も殆どなく、ただ生きているだけだったらしい。
 稀に、目の前にいる孫に向ける声も、意味を成さず。
 そして、更に稀な形を成した言葉も――――彼女の名前を間違えて呟いた、
 うわ言のようなものだったと言う。
 無論、他意はない間違い。
 病によって既に認識力も記憶力も、或いは自我すらもほぼ消失した中で
 声を出す事に、意味を携える事など出来る筈もないのだから。
 恐らく――――必死で、可愛い可愛い、目に入れても痛くない程可愛い孫の
 名前を、本当に必死になって紡ごうとしていたのだろう。
 でも、それが結果的に――――悲しい傷を作った。
 そして昨日、その辛く悲しい闘いは終わった。
 納棺は既に終えており、今日通夜が行われ、明日葬儀が予定されているそうだ。
 有名電化製品メーカーの元社長の死。
 それを見届けたのは、雨夜とその母、二人だけだった。
 きっと、今日の通夜と明日の葬式には、沢山の会社の従業員や関係者が訪れるんだろう。
 死と言う結果を事務的に受けて。
 雨夜が、どうしてここに来たのか。
 どうして、僕にそんな事を話したのか。
 想像するのは難しくない。
 抱え切れなかったんだろう。
 祖父の死と言う現実を。
 まるで、人が死んだ事を今日の株価の下落と同じような感じで話す
 家の中の空気を。
 そして、それを誰かに話す事で、少しでも知って欲しかったんだろう。
 偉大な祖父の寂しい最期を。
 別に『僕だから』って事じゃない。
 でも――――それで良かった。
「考え方も話し方も全部おじいちゃんを倣ってたから、お父さんからは
 あんまり好かれてないみたい。別に好かれなくても良いんだけどね」
 まるで負け惜しみのように言い放つ雨夜は、自分の道標の死という現実の割には
 冷静だった。
 冷静に混迷していた。
「私は、おじいちゃんの遺志を受け継ぐの。変? おじいちゃんに
 こんなに入れ込むのなんて。でもそう決めてるの。だから、もっと勉強しないと。
 おじいちゃんみたいに会社を作らないと行けないから」
「……変だよ、雨夜」
 僕はそれを指摘してあげないといけない。
 価値観も性格も相容れない、この女子を少しでも楽にしてあげる為に。
「変? そうよね。でも私はそんなの……」
「変なのは、ここでそんな事を言ってるお前のその行動だよ」
 僕の言葉は、確かに雨夜の表情を一変させた。
 最初の告白以来かもしれない。
 本当の意味で、僕の言葉が届いたのは。
「ずっと変だって思ってたんだ。中身を見ろ、過程が大事だ、なんて言ってる割に
 全然中身を見せようともしない。今も、過程をすっ飛ばしてる。その理由が
 やっとわかった」
 本当、ようやくだ。
 やっと、その理由がわかった。
「お前は、本当は……そう言うヤツじゃないんだろ? 普段見せてる、物静かで
 穏やかな雨夜。それが自然なお前なんだ」
 そして――――僕に見せていた凶暴で粗雑な言葉を使う雨夜こそ、きっと
 彼女にとっての『理想』だったんだ。
 祖父のような考えと言葉遣いの、ぶっきらぼうで他人に厳しい人物像。
 それこそが、外面だったんだ。
「……頭のおかしい女、って思ってるでしょ?」
 自嘲気味に。
 濡れた身体を抱くようにしながら、雨夜は呟いた。
「おじいちゃんは、積み上げてきた物を全部取り上げられた。自分の子供に奪われたのよ。
 私はそれが悔しくて悔しくて堪らなかった。だから、私がおじいちゃんみたいに
 なりたいって、そう思っただけよ。でも、おじいちゃんみたいには……出来なかったのね。
 アンタみたいなヤツに見抜かれたって事は」
 子供に積み上げて来た物全てを取り上げられ、奪われた人間の気持ち。
 それは、計り知れないものがある。
 ただ、その父親にしてみれば、もしかしたら自分より自分の親に子供が懐いている
 っていう状態が、気に入らなくて仕方なかったのかもしれない。
 コンプレックスが突き動かしたのかもしれない。
 或いは、本当にそうする事が会社存続に必要だと思っていたのかもしれない。
 僕に、雨夜の父親の気持ちはわからない。
 僕にわかるのは――――目の前のイジけた女子の事くらいだ。
「前から思ってたけど……お前、一言多いな。それもお祖父さんの影響か?」
「なっ……!」
 怒った。
 昨日出来なかった事が、今日達成された。
 嬉しくはないけど、少し出し抜いた気分になって、僕は場違いにも
 笑いそうになってしまった。
「何なのよ、もう……」
 雨夜は雨夜で、祖父の事を話して少しスッキリしたんだろう。
 赤い目を何度もしぱたかせ、大きく息を吐いていた。
「あのさ」
 少し落ち着いた頃合を見計らって、僕は言葉を選ぶ。
 何しろ、賢い方じゃない。
 人生経験も少ない。
 こんな時にかける言葉なんて、見当たらない。
 だから、結局のところ、僕に言える事を言うしかないんだ。
 僕なりの言葉で。
「お前がさ、そのお祖父さんの影響を受けたのは紛れもない事実だと思うよ。
 だから、そんな無理してお祖父さんの物真似みたいな生き方しなくても、
 別にいいんじゃないか?」
「物真似って、アンタね……」
「でも、多少は自覚あるだろ? じゃなきゃ、そんな不自然な生き方はしないよな。
 別に良いじゃねえか。過程が大事だって主張しなくても。そう言う生き方をした
 お祖父さんが好きだったんなら、『お祖父さんが好きだ』だけで良いんじゃねえか?」
 僕は別に、難しい事は言ってないつもりだった。
 でも、身体を濡らしたままの雨夜は、何もないところで躓いた子供が
 転んだ後にするような表情を、僕に向けていた。
 それで、僕は少し満足した。
「一旦、家に帰れよ。風邪引くぞ。喫茶店だったら、今日は3-3の教室でやってっから」
「え?」
「心配しなくても、夜までやってるからさ」
 にゃあとの約束。
 大好きな祖父が亡くなって、その傍から離れたくないであろう彼女が
 ここに来た理由なんて、それしかない。
「行けって」
 雨夜に、ボロっちい傘を差し出す。
 無論、僕の傘だ。
 それを雨夜は最初キョトンとした顔で、次にどうして良いかわからないような
 変な顔で、トータル数秒ほど眺めていた。
 そして。
「……あ」
「あ?」
「あ……雨、弱くなったみたいだから要らない!」
 受け取る事なく、まだ雨脚の強い中を全力で駆け出して行った。
 変なヤツ。
 ただ、その変な部分の中身ってのが、ちょっとだけ見えた気がした。



 文化祭って言うのは、まあ簡単に言ってしまえば、単なる学習発表会の名残だ。
 小学生低学年の段階で、そう遠くない未来に体験する様々な『本番』に対して
 どう取り組み、またいざその『本番』の際にどう言った心境で臨むか、と言う事を
 学ぶ為に、学習発表会は誰もが体験する。
 このイベントはとても大事で、ここで本番に強い人間、弱い人間が分かれると言っても
 過言じゃない。
 まあ、中にはもっと年を取ってから本番に強くなる人もいるけど、多くの場合は
 この時点で既にある程度振り分けがなされてしまう。
 どう取り組むか。
 どう臨むか。
 この過程と言うものに対して、特に学生の時期は重要視される。
 本番で出した結果より、過程が大事だと習う。
 でも、最近の風潮は違う。
 結果こそ総て――――したり顔の評論家が口を揃えて使うこの言葉が、何故か
 プロや専門家とは関係のない一般人の一般的な行動までも支配するようになって来ている。
 結果が総てってのは、結局のところ人間は他者の表面的な面しか見ない、と言う
 本来は観測者への皮肉であるべき言葉なんだと思う。
 でも、今の時代には、『努力をしない事』への言い訳として使用されている。
 それは良くない事だ。
 結果が総てなんて言うのは、無責任な観測者の言葉。
 そして、その観測者に対して納得させる為の言葉。
 本質じゃあない。
 僕はそんな事を、高校生最後の文化祭で学んだ。
 そして――――その文化祭は滞りなく終わり、受験生にとってはいよいよ
 追い込みの時期がやって来る。
 僕には特に、これと言った目標はない。
 成績を少しでも上げて、出来るだけ良い国公立大学に入る。
 今のところ、それだけだ。
「……良し」
 模擬試験の結果が、今僕の手元にある。
 偏差値にして、平均+2。
 この時期は下がる事が多いとされる中、上出来だ。
「結果だけで喜んでても、仕方ないんじゃない?」
 僕の席の傍を通って行く生徒の一人が、そんな僕の悦に水を差す。
 雨夜は――――依然として、お祖父さんの信念をトレースしていた。
 でも、前みたいに、何処か自分に言い聞かせるような感じじゃなく、
 あくまでも自分の意思、との事。
 人間、例え10代であっても、そう簡単に生き方は変えられないって事だろう。
 そして、それだけでもない。
 積み重ねてきたもの。
 それを大事にしたいって言う雨夜の心に、嘘はないんだと思う。
 その証拠に、皮肉げな発言をする今の彼女の顔は、普段の彼女と
 なんら変わりなく、穏やかで涼しげだった。
 ただ、殆ど人と話さない雨夜が、僕にだけ割と話しかけてくると言う
 ここ最近の事態に対して、クラスの中では密かに話題となっている……らしい。
 ま、それは良いとして。
「木田、どうだった?」
「……」 
 模擬の結果を貰い、僕の隣に帰って来た木田は、苦笑しながら
 首を横に振っていた。
 痛々しい包帯は既にコンパクトになっていて、怪我の治り具合を示している。
 受験シーズンの腕の怪我は、きっとかなりの負担。
 それでも、一切言い訳なんてしないこいつには、頑張って結果を出して欲しい。
 過程と結果。
 どっちが大事、ってのは、多分ない。
 要は、過程を経て結果がある、その筋道だけだ。
 程なく、授業時間が終わる。
「ミヤちゃーん! どーだった!?」
 廊下の方から、けたたましい声が聞こえて来た。
 僕は嘆息しながら、その方向に向けて親指を立ててやる。
 あれから――――にゃあとの関係は、特に変わりはない。
 にゃあは可愛いヤツだ。
 でも、僕は彼女の好意には応えられなかった。
「私なんかに告白する暇があったら、あの子をデートに誘えば良かったのに」
 僕の席の傍に立ち、雨夜がこそっとそんな事を呟く。
「あんな良い子とくっつくチャンス、もう一生ないんじゃない? って言うか、ない」
 断言。
 相変わらず一言多い。
 まあ、何にしてもそれは難しい相談だ。
 あの時僕が好きだと思っていたのは、お前なんだから。
 でも、今は違う。
「ま、ないかもな。僕の好きな女は、なんか性格悪いし」


 今現在、僕が好きなのは――――
 





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