逃走を開始したスティレットに対し、制止を命じる声に意味などない。
止まれと言われて止まるような人間ではないからだ。
彼女が指定有害人種ならば、当然相応の身体能力を有していると解釈出来る。
今までフェイルが見てきた彼等は、皆人外の異能を身に付けていた。
アニスさえもそうだったのだから、日頃の修練などとは全く関係ないだろう。
一般人さえも人間兵器に変えてしまう。
それは戦争において、この上なく役立つ技法だ。
錬金術と同質と言っても過言でない。
スティレットが、"それ"を売り物にしているのは想像に難くない。
そして彼女自身がサンプルの一人である事も。
ならば当然、身のこなしに関しても相応のものを身に付けているだろう。
案の定、スティレットはフェイルの警告を無視し、一度も振り返らず廊下を走り続けた。
そしてフェイルもまた、彼女の姿を一度も視界に入れないままでいた。
『止まれ』という警告を発したにも拘わらず。
理由は――――実のところ、齟齬が生じていた。
つまり、フェイルがスティレットを見なかった理由と、スティレットが止まらなかった理由は同一ではなかった。
決定的なズレがそこにはあった。
スティレットは現在も走り続けている。
彼女が何処へ向かっているのか、フェイルにはわからない。
フェイルを連れて行こうとしていた場所への移動か、デュランダルから身を隠す為に彼が入り込めない隠し部屋にでも行こうとしているのか――――
本来ならば、それはとても重要な事だった。
フェイルにとって、スティレットは追い込むべき相手。
逃がしてはならない。
決して。
だが、フェイルは彼女を追わなかった。
視界に納めていないのだから、当然そういう事になる。
フェイルはスティレットに向かって警告した訳ではなかった。
『止まれ』という言葉は――――
デュランダルの後ろに現れたアニスに向かって発したものだった。
「止まれ! 来るな!」
敢えて名前を呼ばなかったのは、賭けだった。
デュランダルは今、フェイルと向き合っている。
アニスの接近には当然気付いているが、それが誰なのかを把握しているかどうかは微妙だった。
もしアニスが普通の人間なら、デュランダルは気配のみで人物の特定も出来ただろう。
だが彼女は指定有害人種であり、真っ当な人間ではない。
その気配をデュランダルが正確に当てられるかどうかは、フェイルには確信出来なかった。
だから名前を呼ばなかった。
それは、『アニスを囮にしてデュランダルの隙を突く』という戦闘前の思惑とは矛盾していなかった。
もし、デュランダルが今も背後の気配をアニスだと特定出来ていないのであれば、現状はフェイルにとって紛れもなく好機だからだ。
デュランダルは現在、背後に何者かが迫ってきている事に気付いている。
そして、それが指定有害人種の誰かという事までは確実にわかっている事も想像に難くない。
もし指定有害人種の気配を特定出来ないのなら、『気配の特定が出来るか否か』で通常の人間か指定有害人種かの区別は付くからだ。
仮に『指定有害人種の誰かが近付いて来ている』という認識なら、デュランダルは眼前のフェイルの反応でその特定を試みるだろう。
幾ら彼が国内随一の手練れでも、攻撃態勢をとった敵を相手に視線を切るような真似はしない。
すなわち振り向けない状態――――だからこそフェイルから情報を得ようとする。
名前を呼ばなければ特定はされない。
だが、『止まれ』という言葉から身内である事は想像が付くだろう。
例えばバルムンクやハイト=トマーシュだったら、フェイルがそのような警告を発する理由がない。
ならば、アニスかリオグランテのどちらかという事になる。
この『どちらか』は、デュランダルにとって極めて重要だった。
アニスだったら問題はない。
その行動は、フェイルを助けようとするか、逃げるかのどちらかに絞られる。
そして、どちらだとしても対処は容易い。
だが――――もしリオグランテだったら?
他ならぬデュランダルが絶命させた相手だ。
生物兵器によって死したまま肉体が動いている彼が、生前の恨みから襲いかかってくる可能性が高い。
首と胴を切り離されたとしても、その怨念が突き動かしデュランダルへと突進してくるかもしれない。
もしそうなれば、フェイルに対し致命的な隙を作ってしまう。
幾らデュランダルでも、殺しても死なない相手を一瞬で無力化するのは不可能だからだ。
魔術で肉体を粉微塵するような真似は剣では出来ない。
「――――筈」
心中でそう呟き、フェイルは隙を待った。
デュランダルの身体が死角になり殆ど全体像は見えないが、僅かに露見する頭部と身体の細さを鷹の目はしっかりと捉えている。
間違いなくアニスだった。
そして、デュランダルに矢を向けているという事は、同時にアニスにも向けている事になる。
もしデュランダルに回避されれば、その背後のアニスに直撃するのだから。
ならばアニスではあり得ない。
デュランダルがそう判断してくれるのを、フェイルは願っていた。
自分が殺した相手が背後から襲いかかってくるとしたら、それはデュランダルであれ平常心ではいられない。
もしリオグランテだと見なせば、相応の対処を試みる必要がある。
それが"隙"だ。
「……仕組んだのだとしたら見事だ」
デュランダルは、フェイルに対しては饒舌だった。
それは王宮にいた時代から変わらない。
その理由を、フェイルは半分だけ理解していた。
「もし仕組んでいなかったのだとしたら……俺はその線だと思っているが……やはりお前は得がたい人材だ。その思考、その柔軟性。お前は俺が知る誰よりも向いている」
デュランダルは、フェイルを本当に気に入っていた。
フェイルの才能を。
暗殺者としての、唯一無二の素質を。
「勿体なかった」
判断は迅速ではなかった。
だが、その動きは神速だった。
デュランダルの身体は前を向いたまま、矢を構えるフェイルへと斬りかかった。
隙を見せるのは前方のフェイルではなく背後の人物に対して。
フェイルが矢を放つ前に斬る。
若しくは、接近しつつ放たれた矢を避ける。
どちらも異次元の動きが必要だが、それが可能だと彼は結論付けた。
事実、まるで稲光のような迅さ。
そのデュランダルの判断と動きは、フェイルにとって――――
「視慣れてるよ」