両者の間に、ある種の膜が生じた。
それは当然物理的なものではないし、魔術的なものでもない。
フェイルが弓を引いた事によって生まれた、分岐の膜。
「僕の矢筒の中に二本、傷付いた矢がある。さっきトライデントと戦った時に付いた傷だ。でも、この矢がどっちなのかはわからない。見ずに取ったから」
その膜が見えるのは、この世で二人だけ。
越えるか否か。
それによって、この後の両者の歩む道が決まる。
「傷付きの矢だったら……軌道が安定しない、か」
「そう。そんな矢を正面から放たれた経験は?」
「ないな。確認した事もない」
「なら完璧に避けるのは難しいかもね。そしてこの矢には毒が塗られてる。掠りでもすれば、幾ら師匠でもまともには動けなくなる」
繋がるか、分かれるか。
その分水嶺が――――今だ。
「何故それを事前に告げる必要がある?」
「勿論、迷って欲しいからだよ。傷付きの矢じゃない場合、今の宣言がなかったら普通に避けられる。でもこれで、そうもいかなくなったでしょ」
既に数本の矢を消費したため、矢筒には隙間がある。
矢筒内で矢は固定されていない。
よってフェイル自身、今番えている矢が傷付きか否かは取り出すまでわからなかった。
そして――――今も。
「アバリス隊長の件は知ってたよ。僕に何かをなすり付けようとしてるのも、知ってた。でもだから何さ。僕はあの人から良い思い出を貰った。それで良いんだよ」
乾いた声が空気を軋ませる。
歪曲した膜の表面が、音を立てず剥がれていった。
「……なんて言えたら楽なんだろうけどね。思い出が潰されてそう言えるほど人間出来てないよ、僕は。裏切られた気分だ」
「フェイル……」
「辛いよね。本当。どうして僕は、こんな思いをしなくちゃいけないんだろう」
弱音を吐いた事がない訳ではない。
だが、戦いの最中にそれをする筈もなく、フェイルにとって最初で最後の経験だった。
「だからこれは、憂さ晴らし……さ」
本当に、悲しんでいた。
憂いに沈んでいた。
心の底から、受け入れ難い現実を憎んでいた。
故に――――然しものデュランダルも、万全の反応ではなかった。
「!」
矢は静かに放たれた。
既に弓を引いていた状態だったから、当然――――では決してない。
射法とは、そう容易いものではない。
矢を放つ際、弓使いは様々な箇所を意識する。
最も強く意識するのは胸郭。
ここを広く開かなければ、矢に力はこもらない。
放つ際の上半身と下半身の安定も必須。
大地に根ざす大樹のように、風が吹こうが蛇に睨まれようが微動だにしない身体が、弓を支える。
足は通常、外に開く。
それが最も安定を生むからだ。
弦と矢筈を離す際の手も、余分な力を入れてはならない。
上下左右、どの方向に作用しても致命的なブレに繋がる。
これらは全て基礎中の基礎。
しかし一対一の戦闘を想定した場合、直立不動で矢を放つ事は滅多にない為、こういった基礎を意識する機会は少なかった。
だが――――フェイルは忘れなかった。
移動しながらの射撃も、弓での殴打も、全てこの基礎が土台となる。
弓使いにとって、身体とは弓を支え固定する為の道具。
自身の意識を極限まで消し、弓と一体化して矢を前方へ送り出す――――それが究極の弓術と言える。
ただし、現実的でも実用的でもない。
実戦では周囲に敵がいるし、意識を一射撃にのみ集中させる訳にはいかない。
だから、フェイルは基礎を基礎のまま矢を放った事は、もう何年もしていなかった。
それでも、忘れていなかった。
思い出すまでもなく、最も簡潔に、最も自然に、最も――――忠実に撃った一矢だった。
"父"に教わった弓矢の扱い方に。
「……」
矢は、沈痛にも似た静寂を切り裂き、通路の奥まで飛翔した。
デュランダルの身体に遮られず、通過していった――――
デュランダル=カレイラにとって、フェイルのその一矢は余りにも皮肉に満ちていた。
驚異的な初速。
殺気なき始動。
そして――――読めない軌道。
自身が生物兵器で得た右腕による攻撃と酷似していた。
生物兵器の人体投与は、大規模な人体実験としてエチェベリア国内で秘密裏に行われた。
その種類は数百にも上ると言われているが、デュランダルでさえも正確な数字は把握していない。
実験の大義名分は、契約であり、国家の新たな武器の生成であり、力への信仰だった。
どのような正義を持っていようとも、力がなければそれを行使出来ない。
エチェベリアに足りないのはその力。
ならば生物兵器で補うべき――――その単純極まりない思想は、驚くほど容易に実験対象外の権力者の理解を得た。
デュランダルが自身に生物兵器を投与したのは、部外者ではなく当事者となる為――――その覚悟も理由の一つに含まれていた。
だが同時に、言い訳の類いでもあった。
渇望がある。
自身の力を限界まで引き上げたいという欲望がある。
この国を死守する為にはそれが必要だという志がある。
あるのなら、それはどう繕う事も装う事も出来ない"我欲"だ。
事実、生物兵器の投与によってデュランダルは力を得た。
それは――――活用されていない体内の魔力の自律化という力だった。
魔術を使用しない者でも、体内には少ないながら魔力を有している。
その魔力は活かせるのか。
どう活かすか。
自身の中にある全ての可能性を試したいデュランダルと、"その"生物兵器との相性は必然的に最高だった。
望んで得た力。
"あの男"からこの国を守る為に、どうしても必要な力だった。
その力の恩恵――――副次的なものとして身に付いた右腕が、眼前に迫った矢と重なった。
同時にデュランダルは理解した。
これは、避けられないのだと。
飛来する矢が傷付きか、そうでないかは直ぐに把握出来た。
放たれた瞬間から、もう直進ではなかった。
フェイルの完璧な弓術。
そして己の業。
その二つが作用して、デュランダルは通常よりも拍二つ分、反応が遅れた。
故に、矢は止まらなかった。
「やはり慣れない事はするものじゃないな。随分と手厳しいしっぺ返しだった」
どうしても、フェイルを止めたかった。
その為には、壊さないよう心を折り、自分の手元に置くしかなかった。
だが――――フェイルの心を折る手段を、デュランダルは持っていなかった。
それどころか、意趣返しを疑うほど辛辣な一撃を見舞われた。
自分がしてきた事が間違っていたのではと疑うほどの。
「……フェイル」
そして同時に、もう一つの目的が達成出来なくなった事を、デュランダルは痛感していた。
追撃が来ない。
絶対に第二の矢を放たなければならない局面だ。
今、デュランダルの体内には、矢が右腕を掠め毒が混入しているのだから。
だが追撃が来ない。
その気配すらない。
それが何よりの証だった。
「お前の目は、まだ視えているのか?」
膜は――――とうに破れていた。
"αμαρτια"
#11
the
end.