『フェイル、最後に一矢撃ってみたらどうだ? 虚空に向けて撃つのは、気持ちが良いぞ』
そんな先輩弓兵の言葉に、彼は心からの笑顔で頷いていた。
その人物は決して鷹揚としていた訳ではないし、技術面で尊敬した事はなかったが、器の大きさは常に感じていた。
正確には――――回想する度に実感していた。
エチェベリア宮廷弓兵団隊長、アバリス=ルンメニゲ。
その名をフェイルは片時も忘れた事はなかった。
「複数の国家と契約している暗殺部隊。しかしそれでも完璧とは言い難い。逆に言えば、契約していない国が関わる案件には関与し辛い。例えば、あの女と無関係の国家の要人を暗殺する必要が生じた場合などだ。だからもう一つ、この部隊には万一に備える下準備が必要だとあの狡猾な女は訴えた」
デュランダルほどの騎士が、武人が、舌戦や精神攻撃に戦術を委ねる機会はまずない。
本来ならば、最も不得手な分野と言える。
だが――――その卓越した戦闘的才能は、専門からかけ離れているこの戦い方すらも見事にこなしていた。
「スケープゴートだ。王宮に恨みのある人間……正確には『恨みがあるだろうと推測しやすい人間』が標的だな。その人物が『自分を王宮関係者だと偽って暗殺を行い、罪を国家に着せようとした』と見なされるように予め偽装工作しておけば、万が一暗殺がバレた時に身代わりとして使える。これなら、例え暗殺部隊が失敗したとしても国家――――陛下に傷は付かない。この口説き文句が決め手になったそうだ」
「そのスケープゴートの一人が……僕」
フェイルは王宮在籍時、自らの意思で合同練習に参加していなかった。
だがそれを明言した事はない。
その為、もし暗殺部隊が他国の要人を暗殺し、その容疑者としてフェイルが目を付けられたら、『王宮在籍時に不遇を受けていた恨みから、王宮に罪を着せようとした』という客観的見地が成り立つ。
ただしその為には、フェイルが容疑者として疑われる理由が必要。
その理由が――――
「そのユヌシュエットアルクは、アバリスが使用している。その得物で足が付けば、暗殺者の疑いはお前に向けられる」
「そんなの……特定不可能な目立たない弓を使えば良いだけだ」
「わかっているだろう。想定する暗殺の犯人像は『王宮に罪を着せようとした』人物だ。目立たなければ成り立たない」
そのデュランダルの説明には、前提が存在する。
目的は暗殺ではなく、フェイルに罪を着せる事。
つまり、暗殺の際に必要なスケープゴートの一人ではなく――――
「"こういう前例があるのだから、今回もそうに違いない"。このスケープゴート計画は、そこが出発点だ」
幾らエチェベリア側が『恨みを持つ者が犯行をなすりつけてきた』と訴え、一応筋が通っていたとしても、それを他国が鵜呑みにするとは限らない。
寧ろ、普通なら確実に信じないし、程度の低い言い訳とさえ判断されるだろう。
だが前例があれば話は別だ。
裁判の大半が過去の判例を重視するように、前例とは問答無用の説得力を有した免罪符だ。
例え納得出来ない話であっても、前例があると言われればそれを上回る説得力を持った別の証拠を用意する必要がある。
この件で言えば、真犯人を特定する有力な証拠が。
だがそのような証拠を見つけるには、それなりの人員と費用が要る。
国内ならまだしも、他国の犯罪の証拠を捜索するのは非常に難しい。
結果――――妥協する。
「僕がその前例……って訳か」
「お前だけではない。例えば俺にエル・バタラで敗れた者や、勇者候補として勅命を受けた人物も、その前例の候補たり得る」
「……また勇者計画が絡んでくるのか」
「無論だ。勇者計画とは一言で言えば『国家復権』。あらゆる犠牲を無視した国家の為の計画として立案されている。故に『勇者計画』。勇者とは国民の代表的存在なのだからな」
そのデュランダルの言葉が皮肉である事は、彼の言葉選びからも容易に想像出来た。
国家とは、国民の為にあるもの。
ならば国民の代表者である勇者こそが、その計画の冠に相応しい――――
これ以上ない皮肉だ。
「さて。今言ったように、お前だけでなく勇者候補一行の生き残りもスケープゴート役の候補に含まれる。方法はお前とは違うが、帰結は同じだ。つまり、お前がその役にならなければ、彼女達が選ばれる可能性が高まる」
「……」
それは紛れもなく脅迫だった。
だが、そのような安い脅しをするデュランダルではない。
フェイルは確信をもって、次の言葉を待った。
「だがお前が俺に付けば、その可能性は消える」
――――その確信は、即座に否定された。
「どうして?」
「俺の部隊が、あの女の部隊と取って代わるからだ。『スケープゴートの必要性』という前提そのものがなくなる」
それはつまり――――国産の暗殺部隊を意味する。
デュランダルは既にガラディーンの後を継ぐ事が決まっている。
次期【銀朱】師団長であり、名実共にこの国の兵力の中枢を担う存在となる。
そのデュランダルが暗殺部隊を作るという事は、国家が暗殺部隊を作る事に等しい。
「それで国王が納得するの?」
「当然、そうなる」
デュランダルにとって――――この国の長は、その程度の存在。
それでもフェイルは、彼の言葉が正しいと判断した。
「だが、それはあくまで俺が納得出来る人材が揃ってこそだ。俺が率いる訳ではないからな。お前がその部隊を率いる事が条件だ」
「わからないよ。どうしてそこまで僕を買うの?」
「……」
言葉を選ぶ為の沈黙なのか、言い淀む理由があるのか。
答えは――――言葉の表にも裏にも存在しなかった。
「お前が唯一、俺を否定出来る人間だからだ」
その意味するところを、フェイルは理解出来なかった。
否定した事などない。
今こうして対峙している事が否定に該当するならば、同じように該当する人間は幾らでもいる。
敵対する事、反抗する事が『否定』に当たらないのは明らかだ。
「これが最後だ。俺に付け、フェイル。勇者一行は俺が責任をもって保護する。俺の件を持ち去ったお前の妹も――――」
デュランダルの言葉は、最後まで紡げなかった。
物理的な妨害ではない。
言葉が止まったのは、詰まっただけに過ぎない。
フェイルの構えを見て――――自分に弓引くフェイルを見て、デュランダルは一瞬声を失った。
「……それが答えか」
流石のデュランダルも、このタイミングでの攻撃態勢は予想していなかった。
そして何より、フェイルの一連の動作は余りにも洗練されていた。
まるで読み慣れた書物を捲る所作のように。
「師匠がこんな安っぽい脅しをしてまで、僕を欲しいと思うなんて想像もしなかったからさ」
その弓には、一本の矢が番えている。
その先端は真っ直ぐ、一切の傾きなくデュランダルの目を捉えている。
矢の胴体は一切、彼には見えない角度で。
「だから僕も、安っぽい脅しで返したくなったんだ」
「……その矢が俺に当たると思っているのか? この距離なら、回避は造作もない」
「だろうね。でもこの矢はそう簡単には避けられない。"僕にもどう飛ぶかわからないから"」
フェイルは戦っていた。
悲しみと戦っていた。
それが何の悲しみなのか――――わからないまま。