――――リオグランテの生まれ育った港町コスタは、漁業と交易によって栄えた街で、気風が良い漁師たちが多い所為か脳天気な子供が多く育った。
街は子供を育て、大人は街を育てる。
そういう場所に構えられた彼の家は、ごく平凡な、何処にでもあるような家庭だった。
父親は役場で働く中間職。
母親は専業主婦。
他に兄弟はなく、一人っ子だった。
特に経済的に困窮する訳でもなく、かといって贅沢三昧な暮らしでもなく、年に一回の国内旅行を家族三人で楽しむのが決まり事。
読み書きは近隣の修道院で習い、いずれは都市学校に通う事も視野に入れていた。
――――その全てが嘘だった。
勇者計画はエチェベリア全域でその種を植えていた。
コスタもその中の一つ。
勇者候補となり得る子供がいれば、その子の成長を見守り、見極め、そして打診が行われた。
冒険譚に出てくるような勇者と同じような子が良い。
正義感に溢れ、戦いの途中でも尚成長するような潜在能力を持ち、何度もトラブルに巻き込まれるも全て解決に導き、少し幼げで頼りないところもあるけれど最終的には大成者となり救国の英雄になる――――そんな子供が好ましい。
表向きにはそう喧伝し、勇者候補を募っていた。
無論、それは勇者計画の一部。
勇者誕生への気運を高め、勇者という存在を強く国民に意識させ、勇者待望論が各地であがったところで――――勇者候補に言い逃れ出来ない悪事を働かせる。
それも最悪の形で露見させる。
庶民の夢であり国民の英雄たる勇者という称号を破壊する為には、それくらいの事が必要だった。
そこまでしてようやく、勇者から国民の心は離れる――――
エチェベリアの歴代国王は呪いのようにそう信じ込んでいる。
そう。
この計画は、ある意味では呪いだった。
勇者候補の募集は、最初から宣伝に特化していた。
優秀で才能豊かな子供を欲しているという国の姿勢と、勇者の意識付けを兼ねた偽装工作。
本命は他にいた。
物語の勇者と同じような子供に育て、そして国に預ける。
そういう陰の試みが、水面下で行われていた。
リオグランテ・ラ・デル・レイ・フライブール・クストディオ・パパドプーロス・ディ・コンスタンティン=レイネルの名前が長いのには理由がある。
彼に付けられた名前は集合体だった。
リオグランテ・ラ・デル・レイは、彼の故郷であるエチェベリアにおいて『大河』を意味する。
フライブールはその隣国である自然国家ライコフで『大空』、クストディオは傭兵国家メンディエタで『支配』、パパドプーロスは宗教国家ベルカンプで『聖職者』、ディ・コンスタンティンは伝説国家ブランで『無頼』を意味する言葉だ。
そして、姓のレイネルは――――特に意味がない。
彼の名に、彼の為に用意された単語は一つもない。
一つでも多く、他国の人間に覚えられるよう、或いは心に引っかかるようにと、様々な国の言葉が用いられた。
名前の長さ自体も目を惹く一つの要素となった。
名付け親は無論、両親。
彼等は勇者計画の草案に従い、一人でも多くの人間に注目される名前を付けた。
読み書きも必須だ。
それが出来なければ勇者になどなれない。
特徴的な筆跡であればあるほど、勇者候補として歩む冒険の証拠が残る。
トラブルに巻き込まれやすい性格に育てるのは最も苦労した。
多少の易怒性を有しつつ、他人を少し苛つかせる喋り方で、かつ行き過ぎない。
大半の"志願者"がその育成に苦労していたが、リオグランテは奇跡的に――――或いは符合通りに理想的な少年へと成長した。
勇者候補として相応しいと認められたリオグランテには、生物兵器の投与が行われた。
尤も、これについては両親には伝えられていない。
体内に眠る力を引き出す為の儀式と称し、花葬計画の準備も兼ねて実験が行なわれた。
不幸にも、リオグランテはそれにも適合してしまった。
彼は両親に売られた訳では決してない。
父も母も勇者計画の全容など知らされず、ただより良い勇者候補になる為の育成を生まれた瞬間から図っていたに過ぎない。
けれど――――名付けにしろ教育にしろ常軌を逸したものだったのは確かで、彼の両親は明らかに狂っていた。
子供を立派な勇者にしたい。
例えその一心だったとしても、間違いなく狂気の螺旋に取り込まれていた。
何も知らないリオグランテは、勇者候補に選ばれたと知り、純粋に喜んだ。
コスタの町民も彼を称え、漁師達からは手荒い祝福を受けた。
王都トリスタンへと向かう馬車の中で、もうすぐ子供と離ればなれになる両親は涙を流し――――終始喜びだけを見せていた。
リオグランテは何も知らない。
知らないのを知らないのだから、知りたいと願う事さえ出来なかった。
自分が何の為に生まれ、何の為に育てられ、何の為に――――
「……ぁ」
何の為に――――ここにいるのかも。
そもそも、この場所を認識するだけの能力が今の彼にはない。
生物兵器によって支配されているリオグランテの頭の中は、以前の彼の面影を残していなかった。
しかしその支配が消えた瞬間、彼は本来あるべき姿に戻る。
すなわち――――遺体。
彼に根付いた生物兵器によって生命活動が行なわれている為、身体が腐る事はないが、その根が断たれれば早々に肉体は腐敗するだろう。
生物兵器にも命はあり、それが砕ければ死に絶える。
だがそれは人間の絶命とは基準が異なるし、生物兵器を宿した人間同士でも異なる。
生物兵器に"完全適応"した人間は、心臓を貫かれても、どれだけ出血しても、死ぬ事は許されない。
リオグランテは二度殺された。
だが彼は今も動いている。
安置されてどれだけの時間が経ったのか――――本人には知る由もない。
復讐心はなかった。
怨み辛みも、怒りさえも。
ただ、記憶は十分過ぎるほど残っている。
恐ろしくも鮮明に頭の中――――かどうかは不明だが――――に映る過去の映像は、リオグランテを院内に彷徨わせる原動力になっていた。
怒りでないのなら、果たしてなんなのか。
彼には勇者になる夢があった。
勇者になって、両親を喜ばせたいと願っていた。
自分自身、望まれる姿になりたいとも思っていた。
だから――――なのか。
或いは、無関係なのか。
「はぁ……はぁ…………っ!?」
荒い息遣いが一瞬にして詰まる。
ただしそれはリオグランテではなく、彼と偶然遭遇した女性の息だった。
詰まった理由は戦慄でも狼狽でもない。
彼女の腕には不気味な形状をした漆黒の剣が握られているが、その加護でもない。
「私は……私はまた……殺さなくちゃいけないの……」
決して途絶える事のないアニス=シュロスベリーの欲求が、彼女を戦闘態勢へと導いていた。