苦悶の表情を浮かべ立ち止まったアニスの顔を、リオグランテは漫然と眺めていた。
覚えがある――――ような気がする。
その程度の認識だった。
一度死亡した事で、リオグランテは従来の様々な人間的感覚を失った。
記憶はかなり破損し、言葉も沢山失った。
何より――――生への執着を完全に見失ってしまった。
「なんで……貴方がこんな所にいるの? 私は知ってる人を殺したくない! フェイルの知り合いを殺したくないのに!」
眼前の女性が『殺す』と連呼しても、特別な意味を見出す事が出来ない。
それ一つをとっても、リオグランテは既に人ではなく、人の形をした違う生き物だと自覚していた。
生物兵器の完全適応は、戦闘において重要なものは奪わない。
それが彼等を"指定有害人種"と言わしめる所以でもある。
他者にとって有害な面はしっかり保有しているからだ。
そして、記憶についても完全に不可逆とは限らない。
その記憶自体が戻らなくとも、別の記憶が事実関係を繋ぎ合わせ、補正と補足によって擬似的に蘇る事がある。
厳密には蘇る訳ではないが、それと同質の現象が起こる。
生物兵器は思考能力は奪わない。
故に、断片的な情報から別の情報を推測し、その推測の連続によって発想が生まれ、そして全く別の所から必要な情報がストンと落ちてくる――――そんな感覚だった。
リオグランテは今、アニスの名を覚えていない。
けれど彼女が発した"フェイル"という名前には聞き覚えがあった。
そのフェイルの発していた言葉も、幾つかは覚えている。
その中にあった一つの名前――――アニスという響きが、眼前の女性と一致した。
「ぁ……ァ……アニス……さん……」
自分がどう呼んでいたかも、覚えてはいないが自然に出てくる。
これも補足の一つ。
生物兵器特有の現象なのか、人体の性質なのか、それは誰にもわからない。
このような事を繰り返し、例えばアニスの監視役であるハイト=トマーシュは自我をほぼ取り戻していた。
だが――――リオグランテに同じだけの時間は残されていない。
「名前を呼ばないでよ……殺し難くなるじゃない」
アニスに余裕はない。
彼女の中の生物兵器が欲している血液を、もう何日も得られていない。
ヴァレロン・サントラル医院には沢山の血液がある。
医学が最も発達している帝国ヴィエルコウッドでは、失った血液を他者の血で補う研究が行われているというが、このエチェベリア、そしてこの病院ではそのような研究は実施されていない。
それでも、手術をすれば大量の血液が流れるし、中には院内で吐血する者もいる。
アニスが皮を裂かなくても、血は吹き出ている。
彼女にとって、その環境は――――地獄だった。
欲しい物が目の前にぶら下がっている。
でもそれに手を伸ばせば、確実に自分の現状が、異常性が、他者に露呈する。
一度や二度、誰にも気付かれずに院内のどこかで流れる血液を目にする事は出来ても、それが長続きする筈がない。
まして『手術を見せて欲しい』などと言えば、確実に不気味がられる。
アニスは必死だった。
自分の身体から湧き出てくる衝動を抑えるのに全身全霊を傾けた。
自分の血では意味がない。
何度も試した。
自傷行為によって流した血は、心を落ち着かせる事などなく、無慈悲に流れていった。
そして今、アニスは限界を迎えていた。
フェイルが院内にいる。
この不気味な形状の剣を持って逃げろと言われ、逃げている最中にもずっと、アニスはその事ばかり考えていた。
もし、ここで、誰か別の人間の血を見なければ――――フェイルに襲いかかってしまう。
その獰猛な衝迫は、最早制御不能だった。
「アニス……さん……」
そしてリオグランテもまた、衝動に襲われていた。
かつての仲間を襲った時と同じ感覚。
敵意などないのに、攻撃性だけが暴走している。
魔術士を壊滅させる為に作られた生物兵器という技術は、人間の破壊的な一面を刺激する性質を有していた。
理性で封じ込める事は出来るし、個人差もある。
同じ人物の中でも波がある。
血を見ていれば落ち着くアニスのように、生物兵器に使用された生物の性質にも拠る。
リオグランテは、理性を半ば放棄していた。
エル・バタラの決勝戦の最中に死亡した彼は、当時の戦闘意欲と緊張感をずっと維持したままになっていた。
それが感覚として染みついている以上、理性では抗いようもない。
「あ……ア――――――――――――――――」
叫声は途切れ、リオグランテは突進を開始した。
武器は何もない。
格闘術を極めていた訳でもない、ただ身体を突っ込ませるだけの野蛮なその行動は、体当たりと言う事も出来る。
「!」
そのリオグランテが、アニスの身体に接近した刹那、弾けるように左へ跳んだ。
同時に、アニスが闇を裂く。
鉤状の小さく細い針は先端で弧を描き、そのままアニスの手の中に収納された。
「殿方に『襲ってくれてありがとう』なんて言うのは初めてね。でも本心よ。本当にありがとう」
軽い言葉とは裏腹に、表情はみるみる失われていく。
「お陰で罪悪感が随分なくなりそう。消える訳じゃないけれど」
アニスの戦闘経験は特殊だ。
ハイトが用意した、殺しても支障のない――――そのような命があるかは別にして――――そう判断された裏社会の人間を、自分の住む屋敷の敷地内で何度も仕留めていた。
だがそれは温室の中での戦い。
場数は増えても、真の意味での戦闘経験とは言い難い。
アニスは生物兵器のキャリアではあるが、完全適応ではない。
命を落とせばそこで終わり。
当然、生物としての本能は残っている。
「に……ア……」
リオグランテとは違う。
だからアニスは、この状況を――――
自分が殺されるかもしれない――――自分が殺すかもしれない――――
そんな現実を、心から畏れていた。
「逃げ……て……アニスさ……ん……」
その心境が、そして理性が、リオグランテの言葉を自らの喉元に引き寄せる。
自殺行為だった。
その絞り出すような声に耳を傾けるのは。
「なんで……」
理性の残るアニスは、考えてしまう。
何故リオグランテがこんな状態なのか。
自分と類似しているような、でもまるで違うような彼の現状は、
自分のほんの少し先の未来なのか――――
「なんでそんな事を言うの!?」
迷いは、アニスの腕の振りを遅らせた。
何万回、何十万回と修練を積んだ『他人を殺す最適な動き』は、この瞬間、実現出来なかった。
アニスの身体が、宙を舞った。