ファルシオンは魔術士であり、戦争体験はない。
弓兵との共闘など一度も経験していない為、弓に関する知識は皆無に等しい。
それでも――――ユヌシュエットアルクと呼ばれるフェイルの弓は一目で他の弓と見分けが付くほどにはなっている。
通常のライトボウよりも一回り大きいし、見た目も全く違う。
ユヌシュエットアルクは握りの部分に蔓植物の模様が施されるなど、高級品特有の装飾がなされているし、艶もある。
それだけに、目の前で横たわっている人物がその弓を手にしている事実に、ファルシオンは心臓を鷲掴みにされるような衝撃を覚えた。
出血は多くない。
だが、本来なら大量出血してもおかしくない部位――――左胸に深い傷がある。
俯せの状態なので、背中から刺されたかもしれないが、正面から刺され貫通した可能性も十分にある。
いずれにせよ、その傷は致命傷だ。
心臓に届いているのは間違いない。
だからこそ、ファルシオンは激しい動揺を覚えた。
ヴァールの青い炎――――フェイルの匂いに反応する魔術がこの場で止まった事。
フェイルと同じ弓を持っている事。
その人物が死亡している事。
この三つを繋げれば、そこにあるのはフェイルの死以外ないのだから。
だが、その事実は一瞬で否定される。
髪型が違う。
体型も違う。
服装も違う。
顔が見えなくても、一瞬で他人とわかる材料はこんなにある。
本来なら、動揺はしてもせいぜい軽度のものでなければならないが、それだけファルシオンは冷静さを欠いていた。
「はっ……はっ……」
既に他人だと確信していても、動悸と呼吸の乱れが収まらない。
ほんのちょっとだけ、フェイルの死をイメージしただけで、この乱れよう。
自覚はあったが、余りにも自分の中に抑えていたものが肥大化し過ぎていると自覚し、思わず両手で顔を覆う。
そして、その両の手で自分の顔を思い切り圧迫した。
切り替えなければならない。
そう自分に何度も言い聞かせ、最後に小さく頬を叩く。
「ふう……」
両手を顔から遠ざけ、あらためて遺体が視界に収まる。
幸いにも"間に合った"。
「ファル! フェイルはいたの!?」
フランベルジュ、そしてヴァールが追いついてくる。
無様な姿を仲間や宿敵に晒す事はどうにか回避出来た。
「いえ……フェイルさんではない別の人間の亡骸がここに」
「ああ、そういう事。立ち止まってるものだから、てっきり……」
「でも、炎はここで止まっていました。恐らくこの亡骸に反応していると思われます」
「何?」
到着したばかりのヴァールが、眉を顰めながらフランベルジュより前に出る。
それでも彼女の顔に、自分の魔術に不具合があるといった心配は全く見られない。
瞼を落とし、睨むようにして横たわる男の遺体を眺め、その目付きのままファルシオンに視線を流した。
「この場所からフェイル=ノートの体臭がした。それは確実だ。この男が奴と戦って負けたんじゃないのか? 若しくは、奴の血が流れたか」
「いえ。両方違うと思います」
「私の魔術が失敗した、と言いたいのか。なら――――」
「それも違います。いえ、私にそれは断言出来ませんが、疑っていないという事です」
信頼などしていない。
だがファルシオンはこのヴァールという魔術士の誇りと信念だけは認めていた。
既に一度大失態を犯している彼女が、間を置かず新たな失態を重ねる事はない。
もしそうなら、ヴァールはいよいよ魔術士として終わりだ。
そこまで転落するほど弱くはない――――それがファルシオンの偽らざる評価だ。
「だったら……」
「恐らく、この弓がフェイルさんの物なのでしょう」
青い炎は、男の身体の傍で止まったまま動かずにいる。
男が弓を持つ右手の傍で。
「あ……確かに同じ弓。じゃあ、あいつは弓を奪われたって訳? それって……」
もし本当に奪われたのなら、フェイルの現状は絶望的と言わざるを得ない。
ここが往来なら、盗賊にひったくられた可能性もあるが、ここは病院であり、この国を揺るがす計画に参加している連中が集っている場所。
得物を奪う理由など、その人物の無力化を図る以外に何の目的があるだろうか。
「フェイルさんが、自分の弓を誰かに取り上げられるなんてあり得ません」
だからこそ、ファルシオンはそう断言した。
刹那、歯軋りの音が微かに聞こえる。
実際、ヴァールにとっては皮肉以外の何物でもない発言だった。
けれどファルシオンにヴァールを挑発したり傷付けたりする意思はない。
そして、断言の理由も極めて単純。
「例え目が見えなくなっていても、あの人が弓を奪われるなんて想像出来ません」
「……まあ、ね」
弓矢への執着、そして執念。
夢破れ、諦め、違う職に就き、それでも尚フェイルは弓矢と共にあった。
自分と仲間の命を弓矢で守り、そして攻めた。
フェイルは弓矢を愛している。
彼にとっては命に等しい代物だ。
例えデュランダル=カレイラに取り上げられても、獣のような貌で取り返そうとする――――否、取り返すだろう。
「……このご時世に弓を使う人間だ。それくらいの情念はあるだろうな」
ヴァールもまた、戦いを通じてフェイルの弓への想いは感じていた。
だからこそ、彼に託した。
前時代的な武器を使っていても、彼が最もスティレットに届き得る、という判断に至った。
「なら、理由は何だ? うっかり落として拾われた、なんて間抜けでもないだろ」
「はい。これは私の予想で、確信も何もありませんが……この亡骸は、フェイルさんの元上司ではないでしょうか?」
「え? それって……この弓をフェイルにあげた人じゃない。一度やった弓をなんで……」
「だからこそ、フェイルさんの意思で返したと考えられませんか?」
「返却……もう使えないから……」
「はい。そういうやり取りが、私達の知らないところであったのかもしれません」
半ば飛躍した予想。
実際、的を射ている自信はファルシオンにもなかった。
ただ、この場を納めるには及第点くらいの説得力はあると自負していた。
「フェイル=ノートが無事だという希望的観測を前提とした推理か。滑稽だな」
「……っ」
だがそれでも、ヴァールは見逃してはくれなかった。
尤も――――
「まあ、だからといって否定出来るほどの材料もない。この弓はどうする。再度フェイル=ノートの体臭で奴の居場所を追うのなら、少々邪魔になる」
その希望を全否定する気も、ヴァールにはなかった。
「匂いなら緑魔術で飛ばせます。私はもう魔力が残っていませんが……」
「全く……」
呆れつつ、ヴァールは魔術の編綴を始めた。
刹那――――
「誰か来る」
フランベルジュのその声と同時に、通路を駆ける足音が全員の耳に届いた。