息を切らさない程度に早足で進む速度と、ヴァールの生み出した青の炎が移動する速度は意図せずとも一致していた。
だからファルシオンは、移動以外の事で頭の中を使う余地を得た。
これからどうするか。
ある程度の時間が出来た事で、未来を考える時間が生まれた。
ファルシオンにとって、勇者一行としての旅は二つの目的を含有していた。
一つは自分自身の信用を上げる為。
リオグランテが勇者と認められれば、そのパーティの魔術士として方々から称賛を浴び、敬意を示される。
それは、母親を幸せに出来る唯一の方法だった。
魔術国家デ・ラ・ペーニャにおいて、敵国のエチェベリアで成り上がる魔術士は当然、裏切り者と見なされる。
その家族がどんな目に遭うのかは想像に難くない。
ファルシオンが表舞台に立てば、それだけ危険は増していく。
だからこそ、ファルシオンは己を保ったまま裏側の世界に足を踏み入れる事が出来た。
葛藤はあったし、正規の方法で勇者一行の一員となり、認められ、母をエチェベリアに移住させ、家族で穏やかに暮らす未来を夢見たりもした。
けれど、他国の人間である自分を受け入れてくれたこの国の最高権力たる王宮の通達である以上、拒否権はない。
後はそこに覚悟を持てるかどうかで、ただの傀儡になるか、意思を持った傀儡になるかが決まる。
前者なら、糸が切れた後も惰性で踊り続けるだろう。
人間の自由意思など、決して強い力ではない。
一度奪われれば、解放された後も決して正しくは機能しないものだ。
そして、後者ならばその限りではない。
一貫して意思を持ち続けた人間にとっては、糸の消失は単に足枷がなくなるのと同じ。
その分、罪悪感や自身への嫌悪と向き合わなければならない辛さがあるが、ファルシオンは自分にとってのメリットが多分にあると判断したため、考えるのを止めずに『意思を持った傀儡』を選んだ。
監視役として、また勇者計画の誘導役として、二人を欺く形で一員となってからは、辛い日々だった。
もとより心から笑う事などほぼない人生だったし、それによって今の人格が形成されている以上、大した苦痛ではないと予想していたが――――思った以上に罪悪感は手強かった。
リオグランテもフランベルジュも、自分が嫌になるほど真っ直ぐな心を持っていたから。
罪悪感に劣等感が加わり、ファルシオンの勇者一行としての旅はひっそりと過酷を極めていた。
けれど後悔は一切ない。
どうせ誰かに与えられる役割なら、自分がその一片となって上手に欺き、誰も傷付けず、誰にも損をさせずに事を成そうとしたその決断に嘘はないからだ。
けれど結果的に、勇者計画にはリオグランテ殺害という最悪の仕掛けがあり、最後までファルシオンはそれに気付けずにいた。
自分の力量のなさ、洞察力の欠如に辟易し、間接的に彼の殺害に荷担した自分に絶望し、自身の頭を魔術で吹き飛ばしたい衝動に駆られた。
そしてそれが、実行出来ないとわかっている自分の偽善にも似た慰めだと自覚し、心は急速に腐敗していった。
自分と似て非なる過去をフェイルが持っていると知ったのは、その少し後だった。
ジェラール村という貧村で生まれたフェイルは、親から実験体にされ、伝染病によって故郷を失った。
彼が気付かない筈がない。
自分の存在があったからこそ、村に伝染病――――間違いなくその真相であろう生物兵器の実験が行われた、という事実に。
無論、フェイルに責任は微塵もない。
でも、そう簡単に割り切れるものでもない。
ファルシオンは、フェイルがどんな気持ちで生きてきたのかを知りたかったが、それを聞くのが余りに無神経なのもわかっていたから、彼の生い立ちの中から推測する手段を選んだ。
弓職人である育ての父に報いる為、弓を生き残らせようと必死になって方法を模索し、けれど叶わず、生物兵器に冒されている妹を救おうと薬草士になり、けれど八方塞がりで、それでも彼は心を痛めながら穏やかに生きている。
いつか自分の目が見えなくなる恐怖と戦いながら、目の前の敵と戦い続けている。
薬草店を半壊させた自分達に呆れながらも、決して弾劾せず、それどころか至る場面で配慮し、沢山の時間を割いていた。
お人好しな善人。
包み隠さない第一印象は、そんな陳腐なものだった。
けれどそれは誤りだと早々に判明した。
フェイルは――――とうの昔に自分を失っている。
彼は善人などではない。
自分の為に怒ったり、利己の為に動いたりする理由がもうなくなっている。
だからこそ、何があっても許せるし、他者の為に怒れる。
そう気付いた時、ファルシオンはそれが自分の未来の姿なのではと感じ、酷く納得した。
今の自分の延長線上にその未来があるのなら、こんなに収まりのいい事はないと。
けれどその解釈は少し誤っていた。
フェイルが自分を失っているのは間違いない。
ただ、彼は自分を諦めてはいなかった。
絶望と挫折を繰り返し、それでもやるべき事を探し、可能性に賭けていたのは、失った自分を取り戻せないまでも、過去の記憶にある、そして他人の中にいる自分を裏切らずにいたいと願う心があるからに他ならない。
『僕はリオの視点だと、一体どんな立ち位置だったんだろうね』
時折フェイルは、自分が他者からどう見えているのかを気にするような発言をしていた。
その一つ一つは特に気にするような内容ではないが、彼の事を理解していくと、そこに価値を見出している実像が浮かんできた。
他人に阿るような真似は一切しない。
委ねる事さえ滅多にない。
そんなフェイルの人物像とは明らかに矛盾していたが、だからこそ如何に悪あがきしているのかが容易に想像出来た。
そう結論付けた時、ファルシオンは自分の顔が綻んでいるのを自覚した。
同時に、フェイルらしいとも思った。
話す度に思考が似通っているのを自覚する。
自分にとって都合が良い言葉であろうと、悪い言葉であろうと、心地良く響いてくる。
会話が弾むとは、こういう事なんだと実感し、もっと話したいと、もっと色んな言葉を引き出したいと思えてくる。
最近ようやく、それが愛しいという感情だと気が付いた。
尤も、名前を付ける前からずっと内在していた感情だったのだろうが――――
「……!」
通路の曲がり角の手前で、青白い炎が止まる。
ファルシオンの方向からは何も見えない。
角を曲がった直ぐ傍に部屋があるのか、それとも通路にいるのか――――それは確認しないとわからないが、前者の可能性は低いだろう。
仮に通路にいるとなると、全く隠れていない状態という事になる。
目が見えていない上に、部屋の外にいるとなれば、言うまでもなく危険極まりない。
或いは、既に――――
「フェイルさん!」
叫ぶのは得策ではなかった。
近くに敵がいたら、居場所を知らせるだけの愚行。
まして今は自分も魔力が尽きかけているのだから尚更。
それでもファルシオンは衝動と動悸を抑えきれず、名前を呼びながら急いで炎の傍まで駆け寄った。
独特の、嫌な空気を感じていた。
それほど頻度は多くないが、何度か経験してきた――――
人が人でなくなった肉塊の気配。
「……!」
角を曲がった直後、ファルシオンの目に飛び込んできたそれは、弓を持ったまま床に伏している男の亡骸だった。