アルマ=ローランには記憶の一部がない。
ただしそれは健忘や消失ではなく、人為的に封印された結果。
アルマの記憶は彼女の内部に貯蔵されたままだが、その中のとある区域だけは立ち入る事が出来ない状態になっている。
とはいえ、当の本人はそれを不自由に感じた事はなかった。
意味記憶――――知識に関しては全てそのままだし、日常生活を送る上で支障もない。
呼吸の仕方も、瞬きの仕方も、食事の摂り方も、歩き方も、服の着方も、就寝の際の手順も、全て覚えている。
だからアルマは、自分の事について深く考えるのをやめた。
彼女には使命がある。
メトロ・ノームという地下空間を管理する使命が。
以前なら然程仕事もないし人と接する機会もないから、自分について考慮する余暇があったが、何時の頃からか、そうもいかなくなっていた。
地上――――ヴァレロン新市街地をかつて実質的に統治していた貴族、スコールズ家の令嬢がメトロ・ノームに入り込んだ。
その情報は、諜報ギルド【ウエスト】のギルド員によって寄せられた。
彼等は大昔からヴァレロン新市街地とメトロ・ノームの情報経路を管理する役割を帯びていた為、ある意味ではアルマと同業者。
その為、アルマも彼等の情報に関しては基本疑わず受け入れていた。
また、スティレットが牛耳る組織という話もあった為、無碍にも出来なかった。
地上では令嬢失踪は大事件に発展し、各ギルド員が躍起になって探し回っていた。
だが、それは『事情を知る者』と『知らない者』とでは、まるで意味合いが異なっている。
スコールズ家の現状、そして令嬢リッツの真相を知っている者であれば、それは単なる失踪ではなく、彼女の意図的な暴走であると判断するからだ。
かつては栄華を極めたスコールズ家だったが、リッツ=スコールズの病気によって状況は一変。
その弱味につけ込まれ、リッツは生物兵器の実験体にされてしまい、自我を失った彼女は父であり当時の当主・マドニアを殺害してしまった。
当主を失い没落したスコールズ家は、生物兵器によって僅か一歳でありながら十歳程度の少女となり、そして殺人者に成り果てたリッツ=スコールズの存在を隠すべく、その後更に成長した彼女を諜報ギルド【ウエスト】に匿わせ、彼女の娘をリッツ=スコールズとして育てた。
娘のリッツは聡明で、何より母想いだった。
生物兵器に汚染され、自身もその血を引く者として、何をすべきか――――何が最善かを冷静に考える知恵を持っていた。
生物兵器を体内から排除出来る方法の模索。
その答えがメトロ・ノームにあるところまで、リッツは嗅ぎ付けた。
鍵を握る人物は、アルマ。
地下の管理者である彼女なら、何らかの情報を持っている。
そう判断するのが妥当であり、だからこそウエストはアルマにリッツに関する情報を流した。
結局、リッツはアルマの元に訪れる事はなかった。
その理由をアルマは知らない。
バルムンクが脅しをかけていたのかもしれないし、別の勢力――――クラウ=ソラスが守っていたのかもしれない。
いずれにせよ、リッツは目標を達成する事なく、強制的に地上へと戻された。
この事件の最中、アルマは新たに自分の心を揺り動かす存在と出会う事になる。
彼はフェイル=ノートという名の青年だった。
何度も顔を合わせある程度親しくしている香水店の店主、マロウに紹介されたその男性は、喋らないアルマに対し一度も苛立ちや懸念を表に出さなかった。
優しい人物という第一印象になるのは必然。
そして同時に、そういう男性はこれまで何度も出会っており、アルマにとって初対面の優しさは決して特別ではなかった。
フェイルが特別だったのは、意思の疎通。
彼は驚くほど正確にアルマの思惑を汲み取った。
知恵なのか、感性なのか、経験なのか――――アルマにはわからない。
『どうしてそんなに此方の事がわかるのかな?』と聞けば、彼なら答えたかもしれない。
けれどアルマは、それを中々率直には聞けずにいた。
二つの相反する見解があった。
単純に気が合うだけ。
何らかの思惑で自分と親しくする為にあらゆる調査を惜しまず、寄せてきた。
後者ならば、それは刺客に等しい。
状況的にリッツの差し金と判断出来る。
リッツが自分を籠絡する為に、男を宛がった……そんなところだ。
本来なら、真っ先にそう警戒すべきだった。
アルマ自身も、そう自分に言い聞かせていた。
マロウの紹介だからといって気を許す訳にはいかないと。
けれど、次第にどうもその線はないとわかってきた。
フェイルは勇者一行の仲間で、彼等が令嬢を保護し報奨金を得る為の手助けをしていると判明したからだ。
そして何より、バルムンクが不機嫌ではあったものの、フェイルに対して排除する動きを見せなかった事が決定的だった。
なら、答えは前者。
気が合う。
恐らくは性格や生い立ち、生きてきた環境に起因する。
アルマは過去を語れない。
昔の記憶は封印されている。
具体的にいつからの記憶がないという事さえ言及出来ないくらい、過去については曖昧だ。
だからアルマは自分語りは最小限に留め、フェイルとの会話を楽しんだ。
その瞬間、その刹那の他愛もない話。
それ自体は、バルムンクや酒場のマスター、或いは他のメトロ・ノーム利用者とも交わすものだが、フェイルの話は妙に心へ染み入った。
アルマは理由を探していた。
何故、彼なのか。
その訳は結局、現在もわからないままだが――――
『あ、いや、えっと……アルマさん。星空って見たくない?』
例えばそれが予感だとしたら、アルマの運命を嗅ぎ分ける感度は良好だった。
星の見えない世界、メトロ・ノーム。
そこに住む自分に、フェイルは擬似的な星空を見せた。
そして、約束した。
本物の星空を見せると。
確実に偶然だった。
だが、フェイルの言葉はアルマの記憶の扉を一つ、静かに開けた。
そういうきっかけになった。
――――星を読む少女
それが何を意味するのかは、当時のアルマにはわからなかった。
ただ、自分が特殊な、そして特異な立場でこの"何かが匿われている"地下空間にいるのだと、そう漠然と思い出した。
アルマは密かに、二つの目標を抱いた。
一つは、自分の封印された過去を取り戻す事。
もう一つは、フェイルから約束を守って貰う事。
それは、記憶を失ったアルマに初めて芽ばえた、小さな願いだった。