かつてヴァレロンという街の絶対的な存在であり、支配者と同等の地位を得ていたスコールズ家は、最早没落貴族に限りなく近いところまで落ちぶれている。
それでも貴族は貴族だから、露骨に軽んじられる事はない。
ただ、五年十年先を見据えている商人や同等の地位の貴族・富豪からは露骨に距離を置かれているのが現状だ。
一度没落した貴族が復興を果たすケースは極めて少ない。
そして、勇者や英雄とは違って、貴族は御伽噺の主役にもなれない。
落ちてしまえば、後はただ屈辱だけを積み重ねる日々が続く事になる。
領主マドニア=スコールズは、その懸念を常に抱いていた。
ヴァレロン・サントラル医院の経営危機を救い、ヴァレロンにおいて確固たる地位を築いていたスコールズ家だったが、同時にヴァレロン・サントラル医院と強く関わり過ぎてもいた。
この病院を事実上の支配下に置く事は、同時にこの病院の中にある病巣――――或いは全体を覆う蜘蛛の糸のような膿をも取り入れてしまっている事にも繋がる。
それこそ薬と毒を同時に摂取したようなものだ。
ヴァレロン・サントラル医院という施設は、ただの病院ではない。
ヴァレロンの重要機関、ですら生温い。
エチェベリアの心臓――――それすらも正鵠を射ているとは言い難い。
ルンメニゲ大陸の恥部を管理する病棟。
これが最も相応しい。
メトロ・ノームという地下空間が世界各国から人を集め、情報を集め、そこで蓄積されたあらゆるデータはヴァレロン・サントラル医院が管理している。
だからこそ、地下支部なるものが存在している。
あれは治療目的ではなく、メトロ・ノームにおいて行われた秘匿の実験や研究のデータを吸い上げる為の拠点だ。
マドニアにとって、ヴァレロン・サントラル医院は非常に厄介な存在だった。
経済援助する前には知り得なかった、あらゆる情報がこの機関からもたらされ、共犯にされた。
スコールズ家はヴァレロン・サントラル医院を支配したようで、その実無理矢理そうさせられていたようなものだ。
その後、娘の奇病を病院で診察して貰った結果、生物兵器の投与を打診された。
他に助かる術がないと言われれば、従うしかない。
結局のところ――――心臓を握られていたのはスコールズ家の方だった。
この病院は、明らかに生物兵器を試したがっている。
エチェベリアではない、別の国から仕入れた技術と知識を、人体実験によって武器の一つ――――それも主力にしようと目論んでいる。
そしてそれは、もしかしたら国策ですらある。
それでもマドニアは、娘のリッツ=スコールズに生物兵器を投与する事を決意した。
命を救う為に。
だがその前に一つ条件を付けた。
「先に貴方が投与を受け、それで無事だったなら娘にも投与する……泣ける話だヨ、全く」
その言葉とは裏腹に、デルはクラウとの距離を縮め、より戦闘態勢に己を傾けた。
「結果として、随分と外見が様変わりしたみたいだネ。生物兵器はあらゆる場所に予想外の反応が出る。特にマドニア、アナタには強く出たみたいだネ」
「……さて、何の話ですかな」
「惚けたって無駄だよ。これはボクのプライドをかけて、私財を投げ打って得た情報なんダ。全く、一体どんなプロテクトをかければここまで遮断出来るんだイ? 本当にアナタはこの街の亡霊に相応しいヨ」
生物兵器の投与を願い出たマドニアは、身体に重大な変容を来した。
死なない身体になった。
しかも、驚異的な身体能力と鋭敏な感覚を得た。
元々、貴族として様々な分野の教育を深く受けてきた事で知性も磨かれていたマドニアは、図らずも無敵の存在となった。
だが同時に彼は、かつての容姿も失った。
顔も変わり、体型も変わり、声も変わり、身体能力も変わり、気配さえ変わった。
マドニアは多くの物を得た代わりに、自分を形成する要素の大半を失った。
誰も、彼の姿を見てマドニア=スコールズとは認識しない。
妻さえも不気味がって近付こうとはしなかった。
他人が成り済ましているとさえ疑っているような素振りだった。
彼は苦悩した。
自分は何ひとつ変わっていない。
頭の中にある記憶も、知識の量も、家族に対する情愛も。
それなのに、誰も、もう自分を正しくみてはくれない。
娘のリッツは一命を取り留めたが、マドニアの中には大きな不安を残した。
投与した直後は特に問題はなかったが、いずれ自分のように別人に変化してしまうのでは、と。
尤も、既に多くの人間に認知されているマドニアとは違い、リッツはまだ赤子。
仮に容姿が変わっても、それほど大きな問題にはならないと自分を言い聞かせていた。
だが――――懸念は別の形で具現化してしまう。
リッツ=スコールズは、壊れてしまった。
壊れながら、異様な早さで成長していた。
彼女は、父親であるマドニアの殺害を企てた。
短刀を腹部に突き刺してきた。
その頃から、得物を扱うセンスは抜群だった。
死ねない身体になっていたマドニアは、命を落とす事こそなかったが、その時に全てを失った。
何故なら、殺害計画を立てたのは明らかにリッツではなかったからだ。
自分を不気味に思っていた妻。
自分を脅威に感じるようになっていたヴァレロン・サントラル医院。
どちらもあり得る。
だが確たる証拠はない。
マドニアは、家庭を解体せざるを得なかった。
もしそのまま、家族のままでいれば、今度はリッツが犯人から口封じされるかもしれない。
断絶という手段を用い、マドニアは一家離散を選択した。
「それがスコールズ家没落の原因。アナタも家には残らず、外へ出た。その腕を買われて、王宮の特殊部隊に属する事が内定していたと聞いていますヨ」
「暗殺部隊ですな」
既にそれは後輩のフェイルにも話した事実。
クラウに隠す気は全くなかった。
そして同時に――――事実上、デルの情報の全てを肯定した。
「本当に泣ける話です。それだけの目に遭って尚、この街に戻り、そして我々を介してスコールズ家を支援していたなんてネ。そして娘のリッツ……トリシュと名乗っていましたが、彼女の面倒まで見ていたとは。アナタって人は、本当に優しい」
「死神には最悪の貶し言葉ですな。余りに度し難く」
デルの身体が、フィナアセシーノの射程内に入る。
「アナタのその優しさは、ボクにとって邪魔なんだヨ。封術士を寄越せ。それはボクのだ」
狭い空間で、一筋の閃きが虚空を裂いた。