諜報ギルドの人間が、商売道具たる情報を我が物にするのは禁忌中の禁忌とされている。
彼等は国内、更には国外の様々な機密を握る性質上、常に口封じの危機に晒されるのだから、それを回避する為に組織として情報の密閉を遵守するのは必然であり、それが出来なければそもそも成立しない仕事でもある。
故に――――責任者の立場であるデルの行動は醜行以外の何物でもない。
アルマ=ローランを抱え込むという願望は、諜報ギルドの定義に反する悪逆無道な振る舞いとしか言いようがない。
だから彼はウエストを潰した。
ウエストに務めていた大半のギルド員を贄にして、『死の雨』の実験台にして、代わりに自由を得た。
アルマは持っている。
どれだけ諜報ギルドが栄えても、世界最高の情報機関になったとしても、決して辿り着けない領域にいざなう『情報の宝物庫』を開ける鍵を――――
「見事な剣筋ですな。短剣でそこまで鋭く切り込めるのは、余程腕に自信がおありなのでしょう」
クラウはその場から半歩退き、鼻先でデルの一撃を回避した。
暗器の黒塗りナイフの先端まで、しっかり目視した上で。
「そちらこそ、相当な余裕があるようだネ。足枷があるというのに」
「足枷とは、アルマ様の事ですかな?」
「勿論サ。アナタ達のように生物兵器に汚染されたキャリアにとって、彼女は女神のような存在でショウ。万が一にも死なせてはならないのだから、反射的に守らないといけない。どんな達人だろうと、そういう対象が傍にいれば精度は鈍るものですヨ。動きも、攻撃も……防御も」
言葉の応酬は、戦闘スペースの狭さに起因している。
ヴァレロン・サントラル医院の隠し部屋であり、メトロ・ノームの最下層でもあるこの部屋は、8メロ四方程度の広さしかない。
どちらも機動力に優れている為、相手の懐に入るスピードはかなりのもの。
逆に言えば、距離を大きく取れない為、懐に入られる危険性も相当高い。
そして、クラウの得物であるフィナアセシーノは槍に匹敵するリーチの為、射程が長い。
デルは必然的に隙を作る戦略を強いられる。
その為の舌戦だ。
「かつてメトロ・ノームに集められた生物兵器の研究者"アマルティア"にとって、アルマさん、アナタはまさに希望だったのデスよ。封術士としての飛び抜けた才能……それによって、空間管理の封術さえも習得したアナタは、研究を邪魔する者の介入を防ぐ切り札でしタ。そして同時に、彼等アマルティアの研究こそが生物兵器キャリアにとっては唯一の解放の芽でもあった。二重の意味でネ」
クラウの隙は作れない。
彼の強さは、ここまで協力体制を築いてきたデルだからこそ、既に深く理解している。
だからアルマに対象を移したのは必然であり、それはアルマ当人にさえ容易に伝わった。
「アナタはルンメニゲ大陸のあらゆる恥部を守る番人。『情報の宝物庫』の中には、一度生物兵器が癒着した人体が元に戻る方法があるかもしれない。例えば、そういう魔術が存在しているかもしれない。魔術には『邪術』と呼ばれる門外不出の強力且つ非人道的なものが存在していると聞きますからネ。そういう期待もアナタは背負っているのですヨ」
情報屋ならではの、諜報ギルドを背負ってきたからこその、ピンポイントでの揺さ振り。
なりふり構わず、己の欲望を最優先させたデルの牙がアルマを襲う。
「けれどアナタは記憶を失っていた。その間、何人の生物兵器キャリアを……その関係者を見殺しにしてきたのでしょうネ?」
「……」
アルマは反応を示さない。
デルの言葉が余りに要領を得なかったから――――ではない。
「アナタの存在は、とても思わせぶりなのですヨ。沢山の人間を期待させ、そして失望させる。その美しい姿も然り。世の男性の大半を虜にするくらい美しい。一体何人もの人間が、アナタに想いを寄せたのでショウ。そして、想いを遂げられず散っていったのでショウ。罪な女性ダ。自覚なく数多の人間を狂わせてしまう」
自覚は、あった。
言葉で求愛された事は一度や二度ではない。
しかしアルマはメトロ・ノームの管理人――――管理システムそのものなのだから、自分に向けられる好意に応える事は決して許されない。
何人もの男の告白を無視してきた。
そうせざるを得なかった。
中には女性もいた。
マロウ=フローライトもその一人だった。
彼女は表面上、特に何も変わらずそれまで通り接してはいた。
だが、アルマへの愛情は彼女の中で確実に歪み、そして今は最早怨念と化している。
把握したくはなかった。
理解から逃れたかった。
けれど、逃れる事は出来ない。
嫌でも伝わってきてしまう。
「アナタは花弁なのですよ。虫を引き寄せる為に色鮮やかになった花。アナタ自身に誑かす気持ちが微塵もなくても、存在しているだけで大勢の人間を惑わせ、そして狂わせる」
「此方は……」
「その花の香りに惑わされ、このヴァレロンで最高峰の猛者だった雄々しい男も虚しく散った。本当に罪作りな女ダ――――あのバルムンクすら骨抜きにするのだから」
「……え」
瞬間、揺らぎが生じる。
デルは見逃さなかった。
アルマの動揺を察知したクラウが、自身よりもアルマの守護を優先させようと意識を切り替えた事を。
一流同士の戦闘において、敵の方針が十割把握出来た時、それは確実な勝利をもたらす。
こう動けばこう動く、ならこうすれば詰み――――その算段が容易に立つからだ。
デルは既に動いていた。
クラウの隣で一歩下がった位置にいるアルマに対し、手にしていた黒塗りのナイフを放る。
スナップだけを使ったノーモーションでの投擲。
黒塗りの武器はまず間違いなく毒を塗ってあるという常識。
クラウは既に、そのナイフをフィナアセシーノで打ち落とす以外の選択肢を奪われていた。
死神の鎌が閃き、ナイフがアルマに突き刺さる前に弾け飛ぶ。
その刹那、デルの身体は既に二人の眼前にはない。
クラウはアルマを守る為、あらゆる死角からの攻撃に備えざるを得ない。
それはつまり、彼女を庇うという事。
少なくとも後方は完全に無防備となる。
「"前支隊長"、アナタは簡単には殺せない、だが――――首の骨を折ればどうかナ?」
クラウを『前支隊長』と呼んだデルの攻撃は、必中の一撃だった。
彼の最大の武器は、ナイフではなく肉体。
木製の家具程度なら一撃で粉々に出来るほどの力で、クラウの死角から拳を放つ。
アルマは反応出来ない。
クラウは――――アルマの盾となる位置から動かず、その重い一撃を首に受けた。
砕ける音が、狭い室内に響き渡った。