床に付着していた血痕は、大きく飛び散る事なく、その場に濃く残っている。
つまり、斬り付けられて飛散した訳ではなく、その場でしたたり落ちたと思われる。
重要なのは、血痕がその一点に留まっている事。
この場にいない以上、血を流した張本人は移動している事になるが、他の場所に血痕は見当たらず、移動先で血が流れた痕跡が一切ない。
つまり――――
「その場で止血したか、布のような物で覆い血が落ちるのを防いだみたいですね」
「もしこの場で誰かに攻撃されたのなら、ちょっと考え難い事よね」
「ええ。もしその敵が生きていれば止血する余裕なんてありませんし、倒したのならその人物がここに伏している筈です」
「逆に、他の場所で負傷してここに行き着いた可能性も殆どなさそうね。それなら多少は他の場所にも血痕が残ってる」
フランベルジュとファルシオンの見解は一致した。
ここで何者かが血を流し、そのまま暫く留まり、その後血を止め移動している。
この状況が指し示すのは――――
「少なくとも二人だけって事はないな。最低でも三人、またはそれ以上がいた」
ヴァールもまた、同じ見識を示した。
この血痕の意味するところは、膠着状態。
流血したまま、その傷を負わせた相手を前に身動きせずにいるのは、他にも人がいたから。
つまり、攻撃した側も身動き出来ない状態だったと見なせる。
「この血液は、本当にフェイルさんのものなのでしょうか? 血液の匂いまで感知出来るんですか?」
「恐らくな。だが逆かもしれない」
「逆?」
ピンと来ていないフランベルジュに対し、ヴァールは愛想のない顔で頷いた。
「フェイル=ノートが何者かに傷を負わせた側かもしれない、と言っている」
「え? それで何でアイツの匂いが残ってるのよ。ここに暫くいた事で残り香が……って訳じゃないんでしょう?」
「当然だ。残り香まで感知してたら使いようがない」
「だったら……」
「この部屋に、彼の矢が残っているかもしれないんですね」
要領を得ずにいるフランベルジュの言葉を、ファルシオンが正解で制した。
「そうだ。あの男が敵に傷を負わせるのは、弓矢を使った時だ。なら矢があるのが必然だろう。馬鹿でもわかる」
「そりゃわかるけど……それってあくまで、この血がフェイルのじゃない場合よね?」
「そうだな。それよりは――――」
「単純にここで殺されて運ばれたという方が、余程理に適っています」
ヴァールが敢えて避けていた見解を、ファルシオンは躊躇なく口にした。
「ファル……」
「でも、その可能性も高いとは言えません。ここでフェイルさんが死体になったとして、それを運び出す必要があるとも思えませんから。あるとすれば、解剖好きの医者くらいでしょうか」
「アンタねえ、よくそんな事を冷静に……」
半ば呆れ気味に仲間の推論に異を唱えようとしたフランベルジュだったが、途中で言葉を止めた。
ファルシオンの手が震えているのを見てしまったから。
「……撤回。冷静でなきゃいけないのよね。私達は」
「はい」
ここは明確に敵地。
ならば、私情で思考を偏らせる訳にはいかない。
状況判断を誤れば、即座に落とし穴に落ちてしまう。
「ここは一応病院だ。解剖好きの医者だったか、そんな奴がいたとしても驚きはないが……どうやらその可能性は消えたらしい」
「え?」
明らかに前半と後半でトーンが違うヴァールの言葉に、ファルシオンが即座に反応する。
彼女の視線は上に向いてた。
先程までは、魔術の光が及んでいなかった天井。
そこに刺さった矢が、薄っすらと浮かび上がった。
「天井に……矢って刺さるものなの?」
「普通は刺さらないと思います。木製か、それに近い素材を使っているのかもしれません」
「だろうな。永陽苔を生やせる素材を天井に使っているんだろう」
「それです」
ヴァールの見立てに、ファルシオンは何処か高揚した様子で同調する。
その様子が余りに普段の彼女とかけ離れていた為、ヴァールは思わず身を竦めた。
「……調子が狂うな」
「仕方ないじゃない。片想いの相手が生きてるってわかれば興奮くらいするでしょうよ」
「フラン……」
「冗談よ。こんな時だから、緊張を解すのに使わせて貰った。正直ちょっとヤバいかな……って思ってたし」
そう述懐したように、フランベルジュは一瞬フェイルの死が脳裏を掠めていた。
実は彼女もまた、大きな安堵を覚えていた一人。
尤も、これによって二度目の空振りが確定した事になるが――――
「……あれ? ヴァール、あの場末剣士は何処行ったの? さっきまでアンタと一緒に探してたのよね?」
先程合流したハルを何故か『空振り』という言葉で思い出したフランベルジュは、ようやく彼の不在に気付く。
「そういえば見当たりませんね」
何しろ今までフェイルの事で頭がいっぱいだった為、ファルシオンもすっかり忘れてしまっていた。
「私に喧嘩を売ってきたから、背後から蹴りを入れた。その後は知らん」
「……まさか気絶させたの?」
「そこまで強く蹴った覚えはないが、少なくとも敵意を向けてきた相手と行動を共にする趣味はない」
露骨に嫌悪感を示すヴァールの意見は至極尤も。
要するに信用出来ない為、別行動をとったらしい。
ハルが冗談の通じないヴァール相手に粋がって余計な事を言う姿を、フランベルジュは容易に想像出来た。
「あのねぇ。一応あんな奴でも戦力にはなるんだから」
「お前達と合流する前に近くを探してはみたが見当たらなかった。何処か見当違いの場所でも探しているんだろう」
「あー……ま、それなら焦らなくても直ぐ合流出来るか」
嘆息混じりに、フランベルジュはあらためて天井を仰ぐ。
ファルシオンもそれに続いた。
「にしても、ちょっと異様な状況よね。どんな攻撃したら、あんな所に矢が刺さるのよ」
「下から撃ち上げたとしか考えられませんね。でも、その場合……」
「流血した標的は、撃った人間の真上にいた事になるな。位置関係からして間違いはないだろう」
ヴァールの言うように、矢のほぼ真下に血痕がある。
つまり、フェイルは床に身を寝かせた状態で真上に向かって弓を引いた事になる。
かなり異様な状況なのは間違いない。
フランベルジュは思わず、自身の金髪を掴んで呻りながら俯く。
「一体ここで何が起こったってのよ……」
「教えて差し上げましょうか?」
声は――――余りに唐突だった。
「!」
いち早くヴァールが身構える。
だがそれは致命的な遅れでもある。
気配を読む達人の筈の彼女が、まるで読めなかった。
「落胆する必要はないですよ。僕は人とは違う物を普段から研究している都合で、人間の匂いがいないんです。悪霊みたいなものと思って下さい」
「悪霊だと……?」
「まあ、こう見えて半分くらいは人間じゃないと自覚してますから。それと……」
ヴァールの視界には、少年のような風貌の、しかし子供とは到底言い難い年季の入った面構えの男がいた。
扉を空けたままの体勢で、場にそぐわない笑みを浮かべている。
人間の匂いがしない――――そう彼は言った。
だが、気配は匂いで察知するものではない。
足音や息遣い、衣服の擦れる音、空気の流れと揺れなど、主に聴覚や触覚の方を活用する。
つまり、彼はそういったものを一切発生させずに今の場所まで移動してきた事になる。
只者ではない。
「貴女は僕にとって、ちょっとした罪滅ぼしになる」
「……何を言っている」
「流通の皇女の右腕でしょう? ヴァール=トイズトイズさん。僕は貴女の"飼い主"と懇意にさせて貰っている人間です。そして、つい先程まで彼女と他数名と、ここにいました」
「な……!」
男の述懐は、ヴァールだけでなくその場にいる全員にとって寝耳に水だった。
「他数名とは……」
「そちらは勇者候補一行の魔術士さん、隣は剣士さんですね。お答えしますよ。貴女方にも、多少は罪の意識を感じていますし」
その男の言葉の意味を、ファルシオンは理解出来なかった。
だが今は考えている余裕などなく、ただ無抵抗に言葉を待つ。
「貴女方が探しているであろうフェイル=ノート君は――――」
「フェイルなら、ここにはいないぞ」
――――ほんの少し前の事。
「……」
会合ではないものの、それに等しい集いの中、ノックもせずに乱入してきた"彼"に対し、ガラディーンは至極冷静にそう告げた。