自己への生物兵器の浸食が、身体面だけでなく精神面に及び始めていると理解したマドニアは、自分が自分でなくなる感覚と日々戦っていた。
そこで怯えずに抗おうとしたのは、彼の生来の強さであり、父としての責任感。
立派な領主としての背中を、娘のトリシュに見せる一心だった。
だがその抵抗も虚しく、マドニアは人格を変化させていく。
より好戦的に。
より享楽的に。
それが自分に内在していた我欲の肥大化、先鋭化に他ならないと解釈するしかなかったマドニアの心の内は、絶望一色に染められてしまった。
彼がクラウ=ソラスという別人となりスコールズ家を去った決定的な理由は、外見の変貌だった。
人間は他者の内面の変化に関しては疎いもので、家族ですら気付く事はなかった。
尤も――――トリシュがどう感じていたのか、今や知る術はない。
彼女はもう、物言わぬ故人となってしまった。
クラウの中に復讐心はない。
彼はあくまでクラウであり、最早マドニアではないからだ。
生物兵器の浸食は、それほど人格に多大な影響を及ぼす。
特に彼の場合――――
「クキカ」
突如、切断が起こる。
「クククククキキカカカカカカカ」
切断された自意識はクラウの内部から一時消失し、制御不能となる。
ただ、感覚が失われる訳ではない。
『自分は自分である』というごく当たり前の自己同一性が揺らぎ、別のものが現れる。
「……?」
キースリングにそのような知識はない。
不意に意味不明な発声を繰り返したクラウに対し、露骨に顔を歪める。
不気味さに対する生理的嫌悪ではなく、意図を探れない事への不安感。
それはクラウに対する高い評価の現れでもある。
彼が理由なくこのような行動をとる筈がないと、そう断定しているのだから。
「キキキキキキキキカカカカカカククク」
「何を……している? 何を言っている!」
キースリングの視点で現在のクラウを見るならば、この上なく不可解だ。
話の流れとは何ら関係なく、突如発狂したようにしか見えない。
だが、そのような持病があるという話を聞いた事はなく、まして恣意的に、或いは意図的に奇行に走る事など、クラウの人間性から最もかけ離れている。
「それは何の暗号だ! 誰に向けてのメッセージだ!?」
その結論にキースリングが達したのは、彼がそれなりに優秀だからと言うしかない。
意味不明瞭な発声である以上、それは暗号の可能性が高く、そしてそれを突如発した時点で、彼の味方が何処かに潜んでいて、その味方へ向けた意思伝達行動だと解釈するのは極めて妥当だ。
不穏なこの状況下で即座にそこまで考えたのは、彼がここに来た時点であらゆる危機を想定していたからに他ならない。
結果、キースリングは余裕を完全に失った。
本質的には最初から存在しなかったのだが、宝石商として無数の修羅場と呼べる商談を乗り越えてきた彼にとって、そう見せる事は難しくない。
だがそれすら適わなくなる中、選択する行動は一つしかなかった。
「……やむを得ん! ハイト、私を守れ!」
「もう切り札投入ですか。しかし確かに致し方ない場面ではありますね」
特に奇を衒った隠れ方をしていた訳ではない。
中から死角になる、入り口前の通路で待機していただけの事。
ただ、ハイトからは人間の気配が感知出来ない為、視覚以外で彼の存在を把握するのはクラウであっても不可能だった。
「それにしても……これが未来の自分の姿かと思うと、どうにもやりきれませんね」
ハイト=トマーシュの額には汗が大量に滲んでいる。
クラウは自分よりも先に生物兵器のキャリアとなった人物であり、より適性を持った人物。
ただし、適性があればあるほど、人間からは遠ざかっていく。
「ある者は私達を指定有害人種と呼び処理の対象とする。或る者は死を超越した存在と崇め奉る。不条理極まりない。貴方もそうは思いませんか、クラウ=ソラス」
「クククククククククキキキカカ」
クラウの人格は戻らない。
ハイトはこのような状態になった事はないが、自己の経験上、現在彼が内部でどのようになっているのか、おおよその予想が付いていた。
「ハイト! 何をしている、無駄口を利かず今の内にそいつを――――」
「言葉は聞こえている筈です。そして恐らく今手を出せば……普段の彼よりも強い」
「な……んだと? この知性の欠片もない状態でか?」
「だからこそ、ですよ。今のクラウ=ソラスは原始的な存在。制御がないのだから制止もない」
人間なら、どれだけ全力を出そうとしても、本能がそれを拒否する。
自分の身体を痛ませない為に。
だが現在のクラウに、そのような人間的な反応は期待出来そうにない。
ハイトはそう断定し、敢えて手を出さず身構える。
そして向き合う。
自分と同じ指定有害人種と。
不死身の身体を得てしまった者と。
「不死身など……定義上のものでしかありません。尋常でない自然治癒力によってそう見ているに過ぎないのですから。死ぬ時は死にます。貴方もそうなのでしょう」
敢えて話しかける。
ハイトにとって、この対峙は決して軽視出来るものではなかった。
自分の少し先の未来がそこにある。
いずれ自分もこうなるかもしれない。
目の前に、そういう存在がある。
平常心でいろと言う方がどうかしている。
そんな精神的疲弊の中で、それでもハイトは魔術を綴った。
「カカカカククキキキキキキキキキ――――魔術殲滅すべし」
その声は普段のクラウからは程遠い、無機質なもの。
そして、その言葉をきっかけに、クラウは普段の彼に戻った。
「司祭が悪徳商人の用心棒とは。堕ちたものですな」
「戻った……ようですね。ならば言わせて貰いますが、私は堕ちてなどいません。他国での布教活動には膨大な資金が必要なのです」
「頼るべき相手を間違えていると指摘しているに過ぎませぬ。それに、貴公は少々……品性に欠けていますな」
先に仕掛けたのはクラウだった。
死神の鎌フィナアセシーノが室内の空気を薙ぐ。
ハイトよりも遥か手前で。
「!」
それ自体、何の殺傷力もない。
だが一瞬、どうしてもハイトの注意はその一振りに向けられる。
「生物兵器の性と申しましょうか。今の私はどうも、魔術に良いイメージがないようで」
その一瞬を突いて、クラウは宙を舞った。