「……行きましょう」
暫く瞑目したまま、その場から動かずにいたフランベルジュだったが、感傷に区切りを付けヴァールにそう告げる。
普段は他人の心を慮る真似はしないヴァールも、この時ばかりは一度もフランベルジュに話しかける事はなく、彼女をずっと待っていた。
「アニスだったか。貴様は自力で地上に戻るんだな。恐らくデュランダル=カレイラは私達が進む方にいる。逆に行けば多少は安全だろう」
「嫌。貴女達が行く所にフェイルもいるんでしょ? フェイルに会わせて。私だって戦力に……」
「貴様はフェイル=ノートの足枷になる恐れがある。ついてくるつもりなら、この場で始末する」
まるで殺し屋のようなヴァールの口調に、アニスは一瞬怯んだ。
アニスが戦力になるのは、ヴァールにも異論はない。
だが、彼女のその一瞬の反応が全てを物語っている。
「貴女が死んだら、フェイルが立ち直れないんじゃない? あいつ、ずっと妹の貴女を助けたい一心でここまで来たんだから」
「……わかりました。お願い、フェイルを生きてここから連れ出して」
「生憎、あいつは私よりずっと強いから大丈夫よ。癪に障るけど」
嘆息しながらそう答えるフランベルジュに、アニスは微かに微笑み、力なく――――それでも確かな足取りで、逆方向へ向かって歩を進めた。
それを見届けたのち、フランベルジュは床に下ろしていたファルシオンを担ぎ、ヴァールも探索魔術を再度編綴する。
「さっきの話、どう思った?」
そのヴァールが、フランベルジュに対し具体性に乏しい質問を投げかける。
それがアニスの発言の信憑性を問うものではない事は、フランベルジュも察していた。
もしアニスに疑いの目を向けていたのなら、話の途中で腰を折っていただろう。
ヴァールはそういう性格だ。
「血痕を見ても何も感じなかった、と言っていたが……もし本当なら、奴は生物兵器に浸食された意識を自力で正常化した事になる」
「自力じゃないでしょ。リオの最期を見たのがきっかけだったみたいじゃない」
「……」
ルーリングを行いながら、ヴァールは思案顔で睡眠中のファルシオンを睨む。
「肝心な時に役に立たない女だ」
「いや、あんたが寝とけって言ったんでしょ」
「チッ……編綴し終わった。今度こそ最短距離で行くぞ」
舌打ちし、自分の出力した青い炎を追跡するヴァールの足取りは――――軽やか。
彼女の中で、何らかの可能性を見つけたのは明らかだ。
「私じゃ力不足なのはわかるけど、そんな態度されたら気になるじゃない。話しなさいよ」
「……貴様は生物兵器に浸食された人間について、何処まで知ってる?」
「一応、そこそこは。トリシュが死んだ時、リッツってお嬢様から教えて貰ったから」
かつての好敵手の戦う姿を思い返し、フランベルジュは微かに目を細めた。
彼女が自分より遥かに年上で、娘までいるという現実が未だにしっくり来ない。
だから、普段は余り思い出さないようにしていた。
「生物兵器を投与された人は、凄い力を出せる代わりに、自分が自分でなくなる感覚に襲われるって話だったけど……ここまでは合ってる?」
「既に間違っている」
「え?」
躓くとは思っていなかった場所で躓き、フランベルジュは思わず本当に躓きそうになった。
「生物兵器は元々、魔術に対抗する為に、生命あるものを兵器化する技術だ。貴様の言う『凄い力』を得る為の投与は、その膨大な研究の中の一つに過ぎない」
「えっと……よくわかんないけど、生物兵器を使って、人間を兵器化する研究って事?」
「意外と飲み込みは良いな。その解釈で大体は合ってる」
「あと、遺伝するのも知ってる。それと、あんたの主様が治す方法を知ってる、ってリッツに話したのも」
「……」
そのフランベルジュの発言は、ヴァールに驚きこそもたらさなかったが、複雑な感情を呼び込んだ。
「リッツという女は、トリシュ=ラブラドールの娘で間違いないな?」
「ええ。っていうか、あんたあの時途中で乱入して来てアルマを攫っていったじゃない。どうせトリシュ達の事も知ってたんでしょ?」
当時の事を思い出し、背後から白い目でヴァールを睨むフランベルジュ。
その視線を浴びながら、ヴァールは気にも留めず話を続ける。
「知っていた。元々私はあの二人を追っていたから。優先順位が変わったから、ああいう行動になったが」
そして、意外な質問を口にした。
「トリシュ=ラブラドールが命を落とした後、リッツ=スコールズに何か変化はあったか?」
「……変化?」
「普通の人間になっていなかったか?」
ヴァールのその問いに、フランベルジュは一瞬困惑を禁じ得ない。
確かに、生物兵器キャリアであるトリシュの血を引いたリッツは、その性質を一部受け継いでおり、普通の人間と言える存在ではなかった。
だが、それはあくまで身体能力の話。
トリシュが命の灯を消した後に、リッツの身のこなしを見る機会はなかったので、判別しようがない。
ただし――――
「……リッツが特殊じゃなくなっていたかどうかはわからない。でも、憑き物が落ちたように普通の娘になっていたとは思う」
勿論、それは母の死によって精神状態が素に戻ったとも解釈出来るし、自分を偽る必要がなくなったとも取れる。
これを『変化』と捉えるのは微妙なところだ。
「で、何が言いたいのよ」
「……魔術士じゃない貴様に話しても仕方がないのかもしれないが、人体の生物兵器化には魔力の自律化が深く関与している線が濃厚だ」
「?」
取り敢えず説明してみたものの、案の定フランベルジュには理解が困難な内容。
ヴァールは露骨に溜息を落としつつ、険しい顔のまま説明の続行を選択した。
「生物兵器の投与で魔力が活性化……覚醒と言う方が正しいか。魔力が覚醒し、独立した意識を宿す。これが指定有害人種のプロセスだと私は睨んでいる」
「魔力って……魔術士じゃなくても多少はあるのよね。それが狂人みたいになったり、不死に近い身体を作ったり、異常な腕の動きや伸びを可能にしてるって訳?」
「そうだ。魔術は元々、人間が脅威に感じた自然災害を無意識に模す形で具現化した。なら、人間の不安や願望……本能的な部分が魔力によって具現化するのは自然な流れだ。仮に、新たに生まれた別人格の意識を魔力意識と呼ぶとする」
新魔術を研究・開発している一族のヴァールだからこその発想。
通常の魔術士は殆ど考えない、魔術や魔力の根源となる部分に思考を巡らせた末の結論だった。
「まだ魔術のように系統立てが出来ていない段階では、一度具現化した魔力意識が再度変化する事も十分にあり得る。これはあくまで仮説に過ぎないが――――」
それは果たして光なのか、それとも新たな混沌の種なのか。
「同じ指定有害人種の人間が死亡するのを目の当たりにした時、その死の恐怖を魔力意識が模して、仮死……或いは消滅する事もあり得る」
いずれにせよ、ヴァールにとっては最後の希望とも言うべき可能性だった。