ヴァレロン・サントラル医院旧館は、本館と比較し扉の数がかなり多い。
仮にその大半が入院患者用の病室だとしても、それだけの数の病人を世話出来るスタッフを集めるのは容易ではないだろう。
まして、この病院は富裕層に特化した施設。
これは昔から変わらない。
よって、そもそも大人数を収容する事を前提とはしていない筈だ。
この病院はおかしい。
少なくとも治療のみを目的とした場所ではない。
それは、フランベルジュもヴァールも、そしてここへ足を踏み入れた誰もが抱く違和感だった。
「ふぅ……」
ヴァールの直ぐ後ろを歩くフランベルジュに疲労の色が見える。
ファルシオンを背負いながら早足で歩いているから――――だけではない。
自分のいる場所が得体の知れない空間だという認識によって、無意識下で精神が疲弊してしまっている。
「さっきの話……もしアンタの仮説が正しいとしたら、アンタは主様の前で指定有害人種を殺すつもり?」
そう率直に尋ねたのも、精神状態の悪化が間接的な要因だった。
気を遣う余裕がない。
尤も、余りそういったところに神経を使わないのはフランベルジュ自身の特徴でもあったが。
「アンタは生物兵器に浸食されてる流通の皇女の暴走を止めたいんでしょ? だったら、自然とそういう結論になると思うんだけど」
「そうなるな」
そして、ヴァールもまた駆け引きは好みとしない人種。
隠すか、率直に語るか。
彼女が後者を選択したのは、精神的な疲弊とは何の関係もなかった。
「トリシュが……亡くなった時、リッツはトリシュを治療する方法と引き替えに協力を要請されたって言ってた。その治療方法が正しいかどうかは兎も角、交渉材料に出来るくらいの段階にはあるって事よね。これはファルの受け売りだけど」
「だろうな。貴様がその着眼に至るとは思えない」
「余計なお世話よ。それで……思ったんだけど、今のアンタの仮説って、もしかして――――」
「遥か以前から同じ発想に至った連中がいて、その実験を繰り返してきた、と言いたいのか?」
無数にある扉の中から、一つを選び青い炎が止まる。
ヴァールは躊躇せずにその扉を開けた。
中から殺気も人の気配もない、という理由も当然あるが、警戒し過ぎたところで無意味なのを自覚していたからだ。
室内は案の定、誰もいない。
そして何もない部屋だった。
窓は勿論、病室に本来あるべきベッドでさえも。
「ええ。だって、それだったら説明が付くんだもの。この街にやたら指定有害人種とかそれに近い人間が多い事も。この地で花葬計画が進められていた事も」
「確かに、貴様でも容易に思い付くくらい簡単に結びつく。そして……『指定有害人種の死を目の当たりにした生物兵器は活動を停止する』と単純な結論には至らない事もな」
もしそうなら、エル・バタラ決勝戦でリオグランテがデュランダルに倒されたあの試合を観戦していた全ての生物兵器キャリアの人間が、生物兵器の活動を停止させていた事になる。
その中には、スティレットも含まれていた。
だが彼女の中にそのような変化はなかったと、ヴァールは記憶している。
「死を見るだけでは、生物兵器は萎縮しない。他にも何かの条件がある。だから研究は今も続いている……って事よね」
「あくまで仮説の話だが、そうなるだろうな。例えば――――」
そこまで告げたところで、ヴァールは言葉を止め、青の炎を凝視した。
室内に入った炎は、入り口から見て左側の壁の中央付近で止まり、そのまま動かなくなった。
「……隠し扉でもあるのかしら?」
「なら、破壊するまで」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 魔力の無駄遣いしてもいいの?」
魔術の編綴を始めようとしていたヴァールは、フランベルジュの慌てた様子に思わず口元を弛ませる。
「貴様、私をそこまでアテにしているのか?」
「なっ、違……! 何よ、人が折角気を遣ってあげたのに!」
「それもそうだな。貴様とは、そこの魔術士よりは話が合いそうだ」
「私はそんな気全然しないけどね……」
ヴァールは編綴を取りやめ、炎の灯りを頼りに壁を凝視する――――も、特に仕掛けらしき物は見当たらない。
「……で、さっきは何を言いかけたの? あと、最初の質問にも答えて貰ってないけど」
「難しい話じゃない。生物兵器に浸食されている時点で、その人間は半分は生物兵器に支配されている。だが、もう半分はその人間のままという事だ」
「?」
壁を叩きながら答えるヴァールに対し、フランベルジュは露骨に顔をしかめた。
「生物兵器がその人間に多大な影響を与えているのなら、逆も十分にあり得るだろう? 生物兵器が活動停止する条件に、その宿主の感情等が関わっていても不思議じゃない」
「……あ」
フランベルジュは目を見開き、先程のアニスの状態を思い返す。
彼女はリオグランテの最期に感銘を受けていた。
感情が大きく揺さぶられていた。
それが体内の生物兵器に影響を与えたのだとしたら――――
「単なる死ではなく、その人間にとって衝撃的な死。精神の動揺が生物兵器に脆弱性をもたらし、そして死の恐怖を植え付ける。これなら、或いは……」
人工的に兵器化されたとはいえ、元々は生物であり生命。
もしそこに、生命としての性質が残っているのなら、生き残る為の防衛本能たる死への恐怖が存在するのは当然。
ヴァールの仮説に矛盾はない。
「……ここに怪しい箇所はない。外側の方だな」
「外側って……部屋の外って事?」
「普通に考えればそうなる」
ヴァールは部屋を出た所で魔術を解除し、室内に残した青い炎を一旦消した。
そして、部屋から出て右側に進み、先程の部屋の左隣に位置する空間を隔てる壁の前に立って、再び探索魔術を編綴。
青い炎は出現と同時に動き出し、壁の前で直ぐに止まった。
扉はない。
だが、この壁の先にスティレットはいる。
室内か、或いは更なる隠し部屋があるのか――――
「確かに、魔術を使うまでもなかったな」
炎に照らされたその壁には、露骨なくらい線がハッキリと見えていた。
回転式の隠し扉だ。
「貴女の主に、死んで衝撃を受ける相手なんているの?」
「……」
沈黙のまま扉を回転させ、ヴァールは躊躇なく中へ踏み込む。
フランベルジュもそれに続いた。
「恐らくいない。今にして思えば、身内でも試していたんだろう」
「それって……」
フランベルジュの脳裏に、生物兵器に浸食されたバルムンクの姿が映る。
もしそれが、スティレットを元に戻す為の"実験"なのだとしたら――――
「まさか、自分が元に戻る為に弟を……?」
「スティレット様自身に、元に戻る意志はないように思う」
「だったら……貴女以外に彼女を元に戻したい人間がいて、そいつがやったって事?」
ヴァールは頷かない。
ただ、青い炎に照らされた室内を黙って眺めていた。
隠し部屋の中は、何も隠してはいなかった。
奥に地下へと続く階段が見え、そこへ炎も進んでいく。
この先に、全ての答えがある。
「この先に……フェイルはいるのかしら」
「います。きっと」
予期しない、唐突な返答に思わずフランベルジュは身体を震わせる。
声は顔の直ぐ傍から聞こえて来た。
「ファル……! 起きたの?」
「魔力の回復は?」
ヴァールの問い掛けを受け、ファルシオンは自力でフランベルジュの背中から降りつつ、自分の中の魔力を確認した。
「最低限の睡眠なので、結界数回分といったところです」
「置いていく必要はない訳か。それで、何故フェイル=ノートがこの先にいるとわかる?」
「先程からずっと、ハルさんが見当たりません。彼は人の気配を読めます。それなのに合流しないという事は……」
「目の見えないフェイルを途中で見付けて、さっきまでの私みたいにアイツを背負ってるって事?」
若干ハルに対しての微妙な心情が顔に表れているフランベルジュに対し、ファルシオンは浅く頷いた。
「だが、それなら病院の外に連れ出している可能性もあるだろ」
「いえ。フェイルさんの性格上、途中離脱を望むとは思えません。この先にいます」
二人よりも前へ、二人よりも先に、ファルシオンは下に向かう階段へ足を一歩踏み入れた。
「だから、私が連れ戻しにいきます」