視力を失ったフェイルは現在、この書庫の状況を完璧には把握しきれていない。
だが逆に――――視えていないからこそ、フェイルにしか把握出来ない事もある。
「ファル。この部屋にクラウ=ソラスはいる?」
「います。首を切られて出血多量。普通なら即死ですが……」
「彼の場合はそうとは限らない。でも、その状態なら今日中に意識が戻る事はなさそうだね」
デュランダルの状態と合わせて考えれば、二人が一対一で戦い、ほぼ相打ちに近い形で決着がついた事は容易に想像出来る。
そしてそれこそがクラウの狙いだったと、フェイルは確信した。
「アルマさんは今、肉眼では視認出来ない状態になっている。彼女をここに連れてきたクラウ=ソラスは、恐らく意識がない。そのまま死亡するかもしれない。つまり、今アルマさんが何処にいるのか正確にわかる五体満足の人間は、ここにはいない」
クラウは、アルマに強い敬意を払っていた。
それは口先だけでなく、態度にも表れていた。
アルマは彼にとって、そして指定有害人種にとって、普通の人間に戻れる唯一の希望。
それはスコールズ家にとっての希望でもあり、クラウにとってアルマが尊重すべき存在なのは間違いない。
地上では全く接点を持っていなかったが――――クラウは孫であるリッツ=スコールズを普通の人間に戻したいと考えていたのかもしれない。
だとしたら、自分の命に代えてもアルマを生かそうとしたと考えられる。
恐らくは、フランベルジュに希望を託して。
この中でリッツを気にかける者がいるとすれば、彼女の母親であるトリシュと懇意にしていたフランベルジュだけだ。
クラウはその事を知っていたと思われる。
なら、クラウがしようとしていた事は、自ずと見えてくる。
「僕達は、クラウの掌の上で踊らされていたんだろうね」
彼は敢えてフェイル達に敗北した。
そしてその後、一時的にフェイル達の仲間となり、その中の一員であるフランベルジュがこの部屋に来るよう誘導した。
「私が勇者一行の中でしていたのと同じ事を……?」
「そう。そして、この場でアルマさんが『誰の目にも見えなくなる状況』までを整え、自分自身も口を利けない状況に追い込んだ」
そうする事で、アルマは完全不可侵の状態になる。
誰も触れない、誰も視認出来ない。
でも確実に、この近辺に何処かにいる。
「……なんか小難しい話で全然訳わかんねーんだけどよ。その状況とやらに追い込んだところで、クラウの旦那は動けねーし意味ねーじゃんか。何がしたかったってんだよ」
頭から湯気が出そうなほど顔をしかめているハルに、フェイルは微かな笑みで応えた。
「今、黙って僕の話を聞いている二人に、奥の手を出させる為だよ。二人ともアルマさんの正体を知っていて、万が一彼女が"魔力化"して会話や拷問が不可能になっても、彼女の意思に無理矢理干渉出来る方法を事前に用意していた。薬草学の権威は魔力にさえ効く毒、流通の皇女は魔力と意思の疎通が出来る自律魔術の使い手。もしアルマさんが人間の姿でこの場にいたら、出す必要はなかった」
「いやだから、その奥の手を出させる意味が俺にはサッパリわかんねーんだが」
「僕に知らせる為だよ」
自惚れでもなく、過信でもなく、フェイルはそう判断した。
クラウが自分に目をかけていたのは、ここに至るまでの何度もの接点において嫌でもわかる。
彼はフェイルに託した。
他の誰でもなく、フェイル=ノートが『世界の恥部』を覗き見るよう、入念に準備していた。
「多分だけど、アルマさんの魔力化は封印を解く上で必須、若しくは封印を解いた時点で自然にそうなるものなんだと思う。つまり――――」
「薬草士ちゃんがここに来た後でアルマ=ローランの封印が解かれたら、薬草士ちゃんには為す術がなかったのよね。だって何も知らないから何も用意してないんだもの」
敢えて沈黙していたスティレットが、ヴァールを睨むように眺めながら介入してくる。
ヴァールは依然として押し黙ったまま。
だが俯かず、スティレットの視線を堂々と受け止めている。
「そうだな。だが現状はフェイルに打つ手が残っている。そして、偶然か必然か……その用意は出来ている」
ヴァールは今、スティレットの傍にはいない。
フェイルの仲間であるファルシオンとフランベルジュに付いている。
この状態を、ビューグラスは冷静に見極めようとしていた。
だからこそフェイルの話が傾聴に値すると判断し、黙って聞いていた。
「その魔術士がスティレットの元に戻るか、フェイルに付くか。それによって儂の対抗馬が決まる」
「あら。まるで自分が大本命とでも言わんばかりのお言葉」
「世界の恥部を覗けるのは一人のみ。その事実を今日まで隠蔽していた胆力は素直に称賛しよう。だがそれを明かすなら、アルベロア殿下との駆け引きに使うのではなく、自分が覗き見た後にすべきだったな」
「仕方ないじゃない。オジサマがそんな過激な手段を目論んでるなんて思わなかったんだもの」
「儂とて一人勝ちするつもりはない。其方とはそれなりに付き合いも長いし、どれだけ優秀な人物かも知っている。儂と共存出来るとも思っている。だからこその脅迫なのだがな」
落としどころはある。
だから毒による脅迫に対し、妥協する余地がある。
その意味で、ビューグラスにとってスティレットは純粋な競争相手ではなかった。
「このあたしが、撤退を享受するとでも?」
「打つ手がなくなれば、其方は誰より早くそれを判断出来る。損切りが出来ないような人間が、商業の世界で頂点に立てる筈もなかろう」
「ま、そうなんだけどね」
軽い口調とは裏腹に――――スティレットの目は鋭さを増す。
その視線は依然として、一人の女性を射貫いたまま。
「ヴァール。長期間の情報収集、ご苦労様。多少、連絡に不備があったかもしれないけど、不問とするわ。ここに間に合ったのだから」
そしてついに、声を掛けた。
「わかっているとは思うけど、あたしに恥を掻かせたら、その瞬間に貴女と貴女の一族は生命線を失うのよ。知ってるでしょう? ヴァール。あたしは慈悲深いの。だから脅迫してあげる」
まるで情けをかけると言わんばかりに、スティレットは紅く微笑んだ。
彼女は知っている。
ヴァールの心が、以前とは違う事を。
自分の元から離れていたのは、自分の為であるのと同時に、彼女自身の為でもあったと。
「あたしの言う通りにしなさい。そうすれば、これまで通りの支援を約束してあげる。あたしの右腕として、あたしと同じ景色を見せ続けてあげる。知ってるでしょう? あたしがここまで目をかけるのは――――貴女だけ」
感情を全く表に出さないその顔の下で、今も揺れ動いている事を。
「変化を望まず保身に奮進し、自分の器量を越える力を排除する。そんな腐り切った魔術士達に迫害された一族の無念を晴らしたいでしょ? 人生を捧げてきた研究の成果を全世界に誇示したいでしょ? それとも……」
スティレットは笑う。
尚も笑う。
可笑しくて仕方がないから。
「そんなに、あたしを救いたいの? 救える気でいるの?」
ヴァールの顔に感情が宿る。
それがまた可笑しくて、スティレットは高らかに嗤った。