フェイルが最初に見たヴァールは、スティレットに絶対の忠誠を誓い、オートルーリングに過剰な嫌悪感を抱く冷徹な女性だった。
基本的な印象は、その時と余り変わっていない。
だが今のヴァールは、恐らくは当時から持っていたであろう使命感を前面に出している。
「ねえ、ヴァール。貴女如きが、このあたしを救済しようとするなんて滑稽だと思わない? あたしは貴女の一族の命運すら握っているのに、その中の末席に過ぎない貴女があたしの何を救えるというの?」
フェイルは覚えている。
ヴァールから、スティレットを止めるよう頼まれている事を。
『死なせてあげてくれ』と懇願された事を。
ヴァールは、スティレットが破滅の道を歩んでいると確信している。
不死に限りなく近い存在と思われる彼女の何処に滅びの因子があるのか――――それは想像に難くない。
彼女の人格が既に以前のものではないと、ヴァールは確信している。
すなわち、生物兵器による意識への浸食だ。
つまり、ヴァールはもうスティレットが完全に別人となってしまったと考えている。
人間が、自分を自分であると定義する事はまずない。
それを前提に生きているからだ。
ならば、敢えて疑うなら何を疑うべきか――――
「貴女はもう……スティレット様ではありません」
「だからあたしから離れたの? それは貴女の理屈でしかないのに、そんな曖昧な理由で一族の悲願をゴミにしたというのなら、呆れるほど独りよがりね」
不思議な事に、スティレットの顔には言葉ほどの棘はない。
呆れた様子もないし、失望も嫌悪感も見当たらない。
或いは、それこそが――――ヴァールの確信の理由かもしれないと、フェイルは推察した。
「私は、スティレット様の為に生きてきました。一族の為、という思いはもう薄れています。私の願いを聞き入れてくれた、私に『一族』という呪縛のない居場所をくれたあの方に背を向けるなど、考えた事もありません」
断片的、抽象的な言葉ではあるが、これまでヴァールが語っていた事を補完すれば、その発言がどれだけ切実で、どれだけ真剣かは手に取るようにわかる。
それはフェイルだけでなく、ファルシオンも同じだった。
「だから、貴女から……スティレット様の姿をした貴女から離れるつもりはありません。スティレット様が望むなら、一族が丹念に作りあげてきたこの魔術、全てを捧げます。でもそれは、スティレット様の願いならば……です」
「あたしがスティレットであると証明すれば良いのね?」
「スティレット様の残滓を、私に感じさせて下さい。それだけで、私は貴女の全てを受け入れます」
吸い寄せられるように、ヴァールが一歩、二歩と前に出る。
その足取りに力はない。
まるで、負け戦に臨む敗戦国の兵士のように。
「ちょ、ちょっと! 黙って見てて良いの!? このままじゃ……」
「ヴァールが無駄死にするだけだね」
狼狽しているフランベルジュの言葉を遮るように、フェイルは現在におけるこの場の主役の両者に介入した。
尤も、視覚なきフェイルには二人の居場所がわからない。
だから二人の方向を見ずに、小さな溜息を添えて言葉で立ちはだかる。
「スティレットさん。貴女は本当にスティレットさんなの?」
そして問う。
既に確信しているヴァールでは問えない、根本的な事を。
「誰も彼も、あたしを違う人間にしたいみたいね。あたしがスティレット=キュピリエじゃなかったら誰だって言うのよ。ねえ? オジサマ。オジサマとは結構付き合いが長いし、この際だから証人になって下さらない?」
「……」
「あたしはあたし。あたしの他に誰が流通の皇女を名乗れるの? あたしが今この場にいる事、ここに辿り着いた事が、何よりの証でしょ?」
返事をしないビューグラスを一瞥し、スティレットは優雅な仕草で自身の胸を両手で覆う。
「この国の王に勇者計画を授けたのもあたし。花葬計画が凍結しても、この地下に留まった"アマルティア"を支援して、アルマ=ローランをメトロ・ノームの管理人として縛り付け、世界の恥部の漏洩を阻止したのもあたし。オジサマを全面的に支援して、ヴァレロン全土を掌握して、花葬計画の進行を助力したのもあたし。全てはあたしのお膳立てで条件は整ったのよ? これだけの努力をしたあたしが、どうして別人に入れ替わったかのような言われ方をしなければならないの? あたしは苦労したの。苦労したから、その分の成果を得るの。世界の恥部の扱いは本当に難しいんだから。わかる? たった一人の外国人に漏洩したら、この国は破滅しかねない劇薬なのよ? 世界中の禁忌を集めた情報源を取り扱うのは、仮に世界を一瞬で粉々にする邪術があったとして、それと同等の厄介さなの。あたしがいなかったら、この国はとうに終わっていたかもしれない。でもあたしは、そんな事を恩着せがましく誰かに自慢するほど暇人じゃないから。自分が管理して来たものを貰うだけ。たったそれだけの事よ」
饒舌に捲し立てるスティレットに、以前の面影があるかどうか、フェイルにはわからない。
ヴァールが『変わった』と確信しているものの、その変化がいつ頃から起こったのかは知りようもない。
フェイルが最初に彼女と出会った時には、既に変化し終えたスティレットだったかもしれないからだ。
ただ、決定的な事実が一つある。
「……世界の恥部を覗くより、自分の恥部を覗いたらどう?」
それを、フェイルは問う。
どうしても問わなければならなかった。
「何故、バルムンクさんを殺した?」
ヴァールでは決して聞けない事でも、フェイルなら聞く事が出来る。
ヴァールでは突きつける事の出来ない刃を、フェイルなら喉元に突きつける事が出来る。
そしてフェイルは、相手が流通の皇女であろうと、必要ならそれをする。
それが、ヴァールがフェイルにスティレットを止めるよう依頼した理由だった。
「あら、心外ね。あたしが殺したんじゃ……」
「言葉遊びに付き合うつもりはないよ。バルムンクに生物兵器を投与したのは貴女だ。その理由を問いたい。少なくとも、彼がそれを望むとは到底思えないからね」
クラウから直接託された訳ではない。
だが、フェイルはその覚悟で問う。
この街を背負ってきた二人と、時に敵対し、時に共闘し、時に認め合った時間があるから。
「実の弟を実験台にしたのは何故だ」
そして、それはビューグラスに向けた刃でもあった。
本人が気付いているか否かはどうでも良かった。
ただ、そうしなければ先には進めないと感じていた。
「あたしが生物兵器に浸食されたから、弟を弟とも思わない蛮行に手を染めた。そんな理屈かしらン?」
不意に――――口調が戻る。
演じているかのような、わざとらしさはない。
それが違和感なのか、それとも自然なのか、フェイルは自身の中に芽生えたものが何なのか、理解するのに苦戦した。
「……まさか人格が変わって口調も変わる、なんて単純な話じゃないよね?」
「当然だ。それなら私がここまで悩む必要はなかった。だが――――ある日を境に、スティレット様は時折おどけるような口調を使うようになった。そしていつしか、それを常用するようになった」
殺気が漲る。
今まで押さえ込んでいたのか、それとも核心を突かれ皮を食い破ってきたのか。
「あの子が強さをどれほど求めていたのか、姉のあたしが知らない筈ないでしょ? だから、更なる強さを与えようとしただけなのよン♪ 弟思いの姉だったからねン♪」
「まるで他人事だね。自覚はないの?」
「……」
スティレットの口が歪む。
ゆっくりと、大きく、そして禍々しく。
「『スティレットは弟想いの姉で、彼女の人格が健在なら弟に生物兵器を投与する筈がない』なんて僕が言える訳ないんだ。僕はそこまで貴女の事を知らない。それを指摘しない時点で、貴女はもうスティレット=キュピリエじゃないんだ」
指摘出来ないのは――――記憶がないから。
或いは自信がないから。
フェイルと初めて会った時が"本当に初めてだったのか"、確証がないからだ。
「……礼を言う、フェイル=ノート。やはりこの人は、私が尽くすべき方ではない」
「ヴァール……ゥゥウ……!!」
この土壇場で切り札を封じられたスティレット"だったもの"に、余裕を演じる余裕はなかった。