切り札を失ったスティレットの暴走を警戒するフェイルを、ビューグラスは鷹揚とした眼差しで視界に収めていた。
視線を感じさせるような気配はなく、ただ自然物を愛でる通行人のような自然さで、少しずつ、少しずつ、深度を深めていく。
「ヴァール=トイズトイズの偉大な決断に賛美を送ろう。"現在の彼女"ならば何ら問題はない。世界の恥部をその手に収めるに足る、流通の皇女に相応しい思考力を有している。だが"将来の彼女"はわからない。今、浸食している生物兵器が判断力や洞察力、果ては理解力にまで悪影響を及ぼすようなら、極めて危険な運用となろう。重ねて言うが、英断だった。見事な決断だ」
室内に拍手の音が響き渡る。スティレットはその音を聞きながら、不快感を顔に出す事に抗っていた。
明らかに可能性を失ったと思われるこの状況下でも、心はまるで折れていない。
虎視眈々と、次なる可能性を見定めている。
ビューグラスの言うように、現在の彼女は流通の皇女で間違いない。しかしその綻びは着実に露呈しつつある。
「貴様に褒められる筋合いはない。まるで勝者のような口振りだが、貴様に世界の恥部を覗く方法があるというのか? 魔力となったアルマ=ローランをどうやって見つける?」
「既に答えは提示している。儂がその気になれば、君も含めた全員がこの場で息を引き取るだろう。それが嫌ならば、君は儂の為に伝達係となるのだな。封印を解き、儂にその中身を見せるよう伝えれば、君の未来は保証される」
魔力にすら干渉する毒。
ビューグラスの切り札は、ヴァールを脅す事を前提に用意されたものだった。
「あのさ……それってただの人任せでしょ? 偉そうに言ってる割にセコくない?」
それに対し、冷めた目を向けるのはフランベルジュ。
彼女には、ビューグラスの戦略は他力本願に感じられ、到底評価する気にはなれなかった。
「蔑まれるのには慣れているよ。権威だの第一人者だの言われてはいるがね、儂ら薬草士は元より自然物に依存する、しがない職業でしかない。だが女性剣士よ、君とて剣に依存しているのではないかね? 君の持つその剣、君は製造に関与したかな?」
「し、してる訳ないじゃない。でも私のお金で買った剣なんらから、依存なんて……」
「売買交渉によって入手したと。結構。ならば、儂もヴァール君との交渉によって世界の恥部を手に入れるとしよう。君と儂に何か違いはあるかね?」
「そんなの屁理屈じゃない! 脅迫の何処が交渉なのよ!」
「交渉なのだよ。人間、誰しもが平等ではない。君もわかっていよう。立場がある人間とない人間が向き合った時、その会話にはどうしても段差が生まれる。交渉とは会話の延長に過ぎぬ。会話を契約で縛ったものが交渉故にな。ならば、平等な交渉など存在しない。そして脅迫とは、この世で最も不平等な交渉。程度の差でしかないのだよ」
「何言ってんの? その――――」
「もう止めとけ」
その程度が問題だと叫ぼうとしたフランベルジュを、ハルが半ば強引に制する。
「口でお前が勝てる相手じゃねぇよ。俺も当然勝負にならねぇ。魔術士の嬢ちゃんなら多少は戦えるだろうが、それでも厳しいだろうぜ。なら、残るは――――」
「最初から僕の役目だよ。誰に譲る気もない」
フェイルはもう、ハルの隣にはいなかった。
視えない目で、しかし確実にビューグラスの方に歩み寄り、そして対話に適切な距離で止まった。
「おいおい。本当は視えてんじゃねぇだろーな」
「気配だけならまだしも、声が聞こえるんだから距離感くらい簡単に掴めるでしょ。ハルだって余裕で出来るよ」
自分の目に限界が近付いていると察したのは、勇者一行と知り合って暫くしての事。
酷使した事で、目の寿命が縮まったとしても、一切後悔はしないと覚悟していた。
だから、用意はしていた。
光が消えるメトロ・ノームの夜、フェイルは敢えて梟の目を余り使わず、有事の際以外には極力暗闇の中で移動したりしていた。
勿論、その気になればすぐ目を開けられる暗闇と、二度と光が差し込まない暗闇とでは、全く違う。
けれど、少しでも近いシチュエーションを何度も経験した過去は、現在に通じている。
「こうして貴方と向き合うのは、随分久し振りな気がします」
「異な事を。我々は何度も会話を重ねている。今日も、既に会議の際に顔を合わせたではないか」
「わかってる癖に、惚けた事を言いますね。あの失態の一件以来、僕は本当の意味で貴方と目を合わせた事はないですよ。でも、目を合わせようもない今は、こうして貴方と向き合えている。皮肉ですね」
「……」
ビューグラスは気付いていた。この場にいる他の誰もが、半分しか気付いていない事を。
デュランダルに意識があれば、彼も回答を得られただろう。
そして、もう一人――――
「貴方に尋ねたい事があります。僕にアバリス隊長を差し向けたのは、貴方の差し金ですか?」
フェイルが名前を出したその人物もまた、正解に辿り付けただろう。
今のフェイルの口調が、目付きが、態度が、王宮時代の彼に限りなく近付いていると。
「……妙な事を聞く。その隊長とやらが何者か知らぬが、儂にそのような知り合いはおらんよ」
「そっちこそ、妙な事を言いますね。"知り合いである事"と"差し向ける事"に、因果関係は必要ないでしょう。暗殺者を雇う人間が、知り合いだけに頼みますか?」
口調や態度だけではない。
その漲るような攻撃性と、恐れを知らない向こう見ずなところも、昔のフェイルを思わせる。
「師匠はそんな真似は絶対にしない。ガラディーンさんもね。王子様は、僕をそこまで重要視していないでしょう。なら、残る候補は二人。貴方とスティレットの二人しかいないんですよ」
勇者計画の一環。
勇者に協力したフェイルを、勇者一行の残党狩りの犯人に仕立て上げる。
フェイルが愛用していた弓が暗殺に用いられた、という事にすれば、そしてその動機が勇者候補リオグランテへの怨みとするならば、全てのヘイトはリオグランテへと向かう。
リオグランテがフェイルの店に迷惑をかけた事を知っている人物でなければ、思いつく事はない謀略。
勇者計画に最初から組み込まれていたものとは考え辛い。
勇者計画の実行者に、途中で入れ知恵した者がいると考えるのが自然だ。
「国王を傀儡にしているスティレットなら、僕が王宮時代世話になっていた人間を調べるなんて簡単に出来るでしょう。そして、貴方は僕がどういう性格かを知っている。どうすれば僕の行動を意のままに操れるかを。事実、僕はまんまと貴方に行動を制御されていた。ちょくちょく僕の前に現れて、言葉を投げかけ、僕を揺さぶってきましたよね。だから――――貴方とスティレットの共犯なんですよ。この件は」
二人を止める。
そういう目的でここまで来た。
自分にもそう言い聞かせ続けて来た。
だが、許せない事はある。
どうしても我慢出来ない、看過出来ない、許容出来ない事はある。
そういう時、人は素の自分になる。
「貴方の脅迫は、僕が潰します」
「……出来るのか? 青二才のお前に。儂の毒を、最高傑作を中和出来るつもりか?」
睨み合う事は叶わない。
だが、フェイルの見開いた目は、視力なきその瞳は、確実にビューグラスの方を向いていた。
「魔力に干渉する毒。貴方は間違いなく、その発明に成功したんでしょう。薬草と毒について、貴方が嘘を言うとは思えない」
「当然だ。儂は薬草学を担う人間。そのような嘘は儂自身を全否定するも同じだ」
二人を囲む面々は、確かに感じた。
「でも、魔力に効く毒が、魔力にしか効かない毒だとしたら、付け入る隙はあります。実はそうなんじゃないですか?」
青二才の言葉が、権威の心を確実に貫いた瞬間を。