メトロ・ノームの更なる地下に作られたその部屋は、牢獄で例えるなら死刑囚を収容する最奥の監獄だった。
例えそこに自身の権力が行き届いていると知っていても、監獄に足を踏み入れる国王などいない。
それと同じように、この場所は――――『世界の恥部』の封印を解ける唯一の場所であるこの書庫は、ある意味不可侵領域だった。
各国の弱味を握れるという魅惑的な行為は、同時に各国を敵に回す無謀な行動でもある。
エチェベリアにとって世界の恥部を保有する事で得られる最大の強みは『各国の弱味を握っている事実』であって、実際それを使って脅すような事をすれば、たちまち全方位から開戦の狼煙を上げられてしまうだろう。
だからこそ、それを外に持ち出されない為にあらゆる対策を講じた。
膨大な量の情報を、一人の封術士――――魔力の中に封じる。
その封術士をメトロ・ノームの管理人として縛り付け、地上には決して出ないようにする。
数多のカムフラージュを用意し、首都からも遠く離し、世界最高峰のお宝を隠した。
そして、仕上げは封印を解除する条件。
ここでなければ、アルマの中にある世界の恥部は決して他者には漏れない。
アルマ自身の意思の中に、この場所が特別だと刷り込まれているからだ。
だが、封印の為に記憶を失っていたアルマにとっては、特に何の思い入れもない部屋。
彼女は決して立ち寄らないし、近付こうともしない。
クラウに連れて来られるまで、存在すらわかっていなかった。
故に、この部屋がアルマの封印を解く条件だと知る者はごく少数。
スティレットやビューグラスであっても、その情報を得るのは極めて困難だった。
ヴァレロン・サントラル医院と組み、その院内をくまなく調査し、ようやく手がかりを掴むまでには途方もない時間を要した。
スティレットとビューグラスは、事前にこの書庫に来ていた。
アルマを連れて来なければ封印が解けないのは承知していたが、彼女の身柄を確保するのは予想以上に難しかった。
デュランダル=カレイラの介入も苛烈だったが、それ以上に計算外だったのは――――フェイル=ノートと勇者一行の存在。
本来なら、戦闘力は然程でなくとも小回りが利く土賊で十分に捕まえられる筈だったが、フェイル達に邪魔された事で、計画の見直しが必要となった。
その時、ビューグラスはこの絵を描いていた。
複数の勢力が入り乱れ、アルマ=ローランと世界の恥部に群がっている状況。
ならばいずれ、この書庫にそれらの全ての勢力、または一部の人間が集まる可能性が高い。
ここでまさに封印を解こうとするその時に妨害されたとしたら、悔やんでも悔やみきれない。
人間、最も望んだ事が叶おうとする絶頂のその瞬間に、人生最大の隙が生まれる。
ビューグラスはそれを利用して、これまで何度も自分の前に立ち塞がる障害を蹴落としてきた。
だからこそ、自分が同じ目に遭うなど絶対に許されないと、過剰なまでに自戒していた。
ならば、準備しておけばいい。
毒をもって制すれば良い。
ただし毒は二種類必要だ。
封印を解く為に魔力化したアルマ=ローランにも効く毒。
それに群がる連中を一網打尽にする為の毒。
ビューグラスは、自身の人生を賭けて学び続けて来た薬草学の集大成として、それらの毒を準備した。
嗤う。
自分の生きてきた道が正しかったと知る瞬間は、最高の幸福の時だ。
或いは、世界の恥部を我が物にする時よりも、この今が至福かもしれない――――そう絶頂を迎えていたビューグラスの顔が、次の瞬間、凍り付いた。
「……?」
小瓶は割れた。
しかし、予定していた毒素は生じない。
次の瞬間、その理由は足の裏から感じ取られた。
冷たい。
不自然に冷たい。
その冷感を察するまで、数秒を要した。
靴を履いている事をその理由とする事は出来ない。
それは――――隙だった。
絶頂の瞬間に訪れる、人生最大の隙。
「水は落ちません。凍りましたから」
それをビューグラスが理解したのは、床が魔術によって急速冷却されているのを知った時だった。
【氷海】
地面を凍らせ、歩行を困難にしたり、足を固め動けなくする中級の青魔術。
かつてアウロス=エルガーデンが得意としていた魔術だった。
「なん……だと!?」
「毒は――――」
その地面を滑走するように、フランベルジュが既に走り出していた。
ファルシオンが【氷海】をオートルーリングで綴り始めるのと同時に。
理解していた訳ではない。
ファルシオンがどんな魔術を使い、何を狙っていたのか、フランベルジュは予想していなかったし、出来るとも思っていなかった。
ただ、彼女が魔術を綴り始めた以上、必ずビューグラスに何かが起こり隙が生まれると、そう踏んでいた。
「貴方が思っているほど万能じゃないみたいね」
氷の欠片となった小瓶の中身を、フランベルジュは手で鷲掴みにし、それを――――
「ヴァール!」
「……フン」
ヴァールに向かって放り投げる。
既にルーンが宙に綴られていた。
「オートルーリングは邪道だ……でも、邪道が役に立つ事もある」
そう言いながら、ヴァールは手動でルーンを綴り終えた。
彼女の出力した赤魔術【炎の球体】は、瞬時に氷を蒸発させた。
空気中の水分がほんの少し増したが、それで壁や床に塗った毒が反応する事はない。
「セコい手ばかり思い付く貴様には、お似合いかもしれないな」
「はい。私にとっては最高の相性です」
ヴァールの皮肉になりきれていないその言葉に、ファルシオンは笑顔を浮かべずそう答えた。
「でも、今のはフェイルさんの貴女への打診がなかったら思い付きませんでした」
「……そいつは見当違いの緑魔術を私に所望してなかったか」
「だからこそですよ。私ではなく『貴女に緑魔術で気化した毒を吹き飛ばして欲しい』と敵に聞こえるように言ったという事は、その正反対が正解。私に青魔術で液体の水を固めて欲しい』が、フェイルさんの言いたかった事なんです」
敵に聞こえる指示など、何の意味もない。
対策してくれと言っているようなもの。
フェイルがそんな愚行を犯す筈がない。
その信頼が、ファルシオンの出発点だった。
ならばその発言はフェイク。
ビューグラスを油断させる為のまやかしであり、同時に対抗策のヒントを提示している。
それくらいの事を、フェイルなら平気でやれる。
後は、自分に出来る事と照らし合わせ、フェイルの意図を探る作業。
最終的に思い付いたのは、自分にとって原点とも言える、オートルーリング創始者の得意魔術だった。
「信じ難い話だが……そうなんだろうな」
「私は別に驚かないけどね。もう見慣れた光景だし。それに、アンタだって私の意図はしっかり汲んでくれたじゃない」
「あれは誰でもわかる」
戻って来たフランベルジュを、ジト目で睨むヴァール。
その光景を横目で見ていたハルが、溜息交じりにフェイルの頭を軽く小突いた。
「……お前ら、本当どうなってんだよ。以心伝心よりヤベーじゃねぇか」
「かもね。生き別れの兄妹ってくらいファルとは息が合うから、きっと伝わるとは信じてたけど。完璧」
「完璧じゃありません。兄妹は困ります」
顔を背けながらそう呟くファルシオンに、そうとは知らないフェイルはなんとなく表情を想像しながら、穏やかに微笑む。
けれどそれも一瞬。
「これで決着は付いたよね。ビューグラスさん」
敢えて、そう呼ぶ。
最早フェイルの目に、父としてのその男は映っていなかった。
「……ククク」
毒々しい笑い声。
ずっと俯いたままだったビューグラスは次の瞬間、目を極限まで見開き、口を極限まで開いて、歯を剥き出しにしながら天井を見上げ、そして――――
「フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
それはもう愉快そうに、心の底から哄笑した。