ビューグラスの顔には、正気だけが取り残されていた。
つまるところ、彼は冷静だった。
冷静に、狂ったように笑い続けていた。
「楽しそうだね」
そんな父親を、フェイルは無感情のままに皮肉る。
視力を失った事で、今の彼の顔を見なくて済むのは、数少ない恩恵だと嘆きながら。
「フフ……皮肉で言っているのだろうが、その通りだフェイル。今、儂は心から楽しんでいるよ」
歓喜など、その声の中にほんの一摘みさえ含まれていない。
ビューグラスは、空洞の言葉を紡ぎ続ける。
誰に対しての虚勢なのか、フェイルはまだ掴み切れていない
「今のこの状況、お前はどう思う?」
「……?」
「勇者計画、花葬計画……エチェベリアという国家が歴史を積み重ね、今まさに転換期を迎える最中、この二つの計画をもって時の王は、そして次期国王は新たな道を切り拓こうとした。歴史に名を残す剣聖と次期剣聖もまた、その為にこの地を訪れた。そして今、水面下での戦いに勝利し続けた者だけが、世界の恥部を秘めたこの場所へと辿り着いた」
何が言いたいのか、まるで要領を得ない。
敗者の弁にしては、言葉が弾み過ぎている。
ファルシオン、フランベルジュ、ヴァールの三人、そしてハルも警戒心を露わにした。
だが、それを察知してもビューグラスは淡々と発言を続けていく。
「生物兵器に汚染された者は、人間の尊厳を淘汰された。だが同時に、決して常人では届かない領域へ踏み入れる事が出来た。剣聖ガラディーンがそうしたように」
「……は?」
その発言は、ハルにとって到底無視出来るものではなかった
「何言ってやがんだ? 親父が……なんだって?」
「奴は儂の数少ない同士だったのだよ。故に一部始終を知っているし、協力もした。あの強者は、どうしても己の限界を越えたかったのだ。その為に生物兵器を自らの意思で取り込んだ」
「バカ言ってんじゃねーぞ! あのクソ真面目な親父がンなセコい真似すっかよ!」
ハルの叫びは息子の叫びであり、国民の叫びでもあった。
ガラディーンという人物と、生物兵器による人為的な逸脱行為を結びつけられる国民は、エチェベリア内にほぼいない。
だが、ビューグラス以外にもそれを出来る者がこの場にはいた。
「ハル。あの人の言っている事は真実だよ」
フェイルは声を抑え、静かな口調でそう伝える。
尤も、それがハルの興奮を鎮める事はなかった。
「な……嘘……だろ?」
「師匠に生物兵器を取り込むよう薦めたのも、ガラディーンさんだった。でも『右腕』に限定した師匠とは違って、あの人は全身を……全てを生物兵器に預けた」
「止めろ! 聞きたくねぇ!」
悲鳴のような声が、室内に響き渡る。
ハルにとってフェイルの証言は、自分の思い出や生い立ちさえも破壊してしまうような、呪いの言葉だった。
「どうしてあの人が、ハルから魔崩剣専用の剣を取り上げたかわかる?」
「……」
「ハルに、魔崩剣を使わせない為だよ。アルマさんの封印を解ける可能性が僅かでもあるから。予備の剣では多分、そこまでの芸当は出来ない」
青ざめた顔で、ハルは歯軋りをしながら俯き黙っている。
酷な事だとは、フェイルも理解していた。
そして同時に、ハルという人間を全面的に信頼しているからこそ、伝えなければならないと感じていた。
「ガラディーンさんは、スティレットと契約していた。協力する代わりに、師匠と本気で戦える機会を作ると」
「……それを、お前は見てたんだな」
「うん。見えてはいなかったけどね」
視界に収める事はなかった。
そして、見届けた訳でもなかった。
フェイルはあの戦いに、不公平感を抱いていた。
ガラディーンは、デュランダルが全力を出せる状況を作り出し、その上で勝負をしたかったのだろうが、それでもフェイルにはデュランダルが余力を残さなければならない戦いだったと解釈していた。
彼の目的は、剣聖を譲り受ける事ではなかったのだから。
だから、最後に介入した。
あの戦いで、二人の死闘を決着させたくはなかった。
あくまで、自分の邪魔した戦いとしたかった。
そして、どちらに肩入れするかは――――最初から決めていた。
「ガラディーンさんはまだ生きてる。でも、もう全盛期の力では戦えない」
「……そうか」
ハルは、フェイルの話を疑いなく受け入れた。
自分に都合の悪い言葉に耳を塞ぐような人間ではないと、フェイルが信じていた通りに。
「父を責めるな、魔崩剣の使い手よ。彼は正直だった。あれだけの地位を得ても尚、正直に嫉妬心を目的として掲げてみせた。出来る事ではない。儂は立派だったと思っているよ」
「嬉しくねーな。ちっともよ」
まだ頭の整理が付いていない中で、ハルはそう返すのがやっとだった。
フェイルもまた、瞼を落として険しい顔を浮かべていた。
「話を戻そう。剣聖でさえも渇望は止められぬ。自分の辿り付けない境地への憧憬、彼方の領域への羨望は、万人の願いであり自然な心理。ここへ辿り着いた者は皆、それを手にしようとした。決して"悪"ではない。全員がな」
「……何が言いたい。さっきからグダグダと無駄話を」
自分の主が一言も発しない現状への、言いようのない苛立ちもあった。
ヴァールの針のような言葉が、ビューグラスに切っ先を向けるように飛ぶ。
「君も含め、両計画に携わった全ての者への賛美だよ。特に、最後にここへ辿り着いた皆へ拍手を送りたい。誰もが優れている。立派だ」
言葉通り、ビューグラスは手を叩く。
追随なきその拍手の音は、虚しく室内に響き渡り、やがて唐突に止んだ。
「そんな面々の中にあって、中心にいるのは誰だと思う? 王子も、次期剣聖も、流通の皇女も、不死に限りなく近い存在になった者も、見事に凌駕して中心に立っているのは……誰だ?」
ビューグラスの顔は、歓喜に溢れていた。
「儂と、フェイル。この二人だ。両計画における中心的な役割を担った儂と、強敵を退け儂すらも食い止めたフェイル。紛れもなく今、我々はエチェベリアの中心にいる。二人の薬草士がな」
狂っている。
率直に、フェイルはそう感じた。
自分がこの場に来て、彼を止めた事を後悔したくなるほど――――
「薬草と薬草士が支配した世界。儂は、これが見たかった」
ビューグラスの思考は、常人の理解を超えたところへと向かっていた。