医学の世界は不可侵の領域だった。
生命に必ず訪れる終焉、生物に必ず訪れる死に唯一抗える学問であり技術。
例え魔術であっても、何十年、何百年もの時を費やしたところで、この領域に踏み込む事は不可能とされてきた。
カラドボルグには自信があった。
即死でなければ、必ず助けられる自負があった。
その為に、多くの人間の死に触れてきた。
魔術もそうであるように、医学もまた、多くの人体から学ばなければならない分野。
時代によっては、兵学以上に人を殺してきた学問でもある。
そして平和が訪れた現代、カラドボルグは同年代で最も多くの人間の死の間際と向き合い、時に勝利し、時に敗北してきた。
その経験が、彼にあらゆる知識と知謀を授けていた。
内科も外科もない。
必要なら切るし、縫うし、服用を促す。
手術した患者の体調管理を他の医師に任せる事はせず、多くの患者を同時にフォローし続けた。
沢山の患者と長く付き合う事で、見えてくる境地がある。
同じ負傷箇所、同じ症状でも、人によって出現する苦痛には大きな違いがあり、手術や薬の効果も一様ではない。
だからこそ、違いを見抜く事が重要になる。
カラドボルグは、あらゆる患者から『違い』を見つけてきた。
それが、他の医師とは大きく違うところだった。
だが――――そんなカラドボルグをもってしても、スティレットの変容には理解が及ばなかった。
「人一人分の命じゃ、どうしたって限界があるのよね。薬草士ちゃんも経験あるでしょう? 自分の未来像と現在地との距離から、限界を算出するの。別にやりたくてやる訳じゃないのに、自然と頭に浮かんでくるのよね」
このままでは、思い描いた自分にはなれない。
価値を決める人間になるには、時間が足りない。
何処かの段階で死が邪魔をする。
だからスティレットは躊躇なく、生物兵器投与実験に自らの身体を差し出した。
理想は植物の回復力と生命力を得る事。
その可能性が最も高い生物兵器を投与する事にした。
結果、スティレットは一度死亡し、その後別のものになって蘇った。
投与された生物兵器は、体内で急速に彼女の人格を浸食し始めた。
同時に、スティレットの髪の毛と爪が伸びなくなった。
厳密には伸びる速度が極端に遅くなった。
一年前と殆ど区別が付かないくらいに。
カラドボルグは憤慨し、そして悔やんだ。
自分がついていながら、その凶行を止められなかった事を。
非合法の手段を用いて、人でないものと混ざった結果、スティレットは普通の人間とは死の概念が変わってしまった。
日に日に変わりゆく恋人を、カラドボルグはただ傍観するしかなかった。
体内の毒素を排除する様々な薬を試したが、当然何の効果もなし。
外科的な処置など最初から入り込む余地はなく、これまでの人生の大半を注ぎ込んできたカラドボルグの臨床経験は、僅か数日で底を尽きた。
絶望が青年を支配する。
表情が違う、話し方が違う、癖が違う、好物が違う。
息遣いが違う、目付きが違う、喋り方が違う、振り向いた時の角度が違う。
愛用の香水が違う、急ぐ時の歩幅が違う、酒を飲んだ時の唇の乾き具合が違う、ベッドから降りる時の脚の運びが違う。
何もかもが違う。
何もかもが。
愛した女性と同じ形をした何かが、同じ声で嗤う。
カラドボルグにとって、耐え難い日々が続いた。
「酷い話よね。年老いて認知機能が著しく衰えた人は、記憶も大半が消えてまるで別人みたいになってるけど、それも別人って言うのかしら? 頭部を負傷して人格が荒廃した人は? 医師ならそんな患者、山ほど見て来た筈よね」
悲しそうに話せば、その言葉にも重みが生まれたかもしれない。
だがスティレットの声は、まるでカラドボルグを茶化すような、真剣味の欠片もなく上滑りしていくような響きだった。
「誤解されたくはないんだけど、生物兵器に支配されたつもりはないし、投与前と投与後であたしの意識が変わったとも思ってないのよ? 記憶は地続きだし、生きる目的も変わらない。あたしは壊れてなんてないのよ。少し別のものを混ぜただけ。薬草士ちゃんが矢筒の中に一本だけ毒矢を混ぜておくようなものね」
明らかにそんな筈はないのだが、スティレットは自分の状態をそう認識していた。
ここは意識の世界。
偽りなど存在出来ない。
「あたしがボルグちゃんをどう思ってたか知りたいみたいね。ええ、愛していた。あの子の才能を。日々上っていく姿は見ていて心地良かったし、刺激にはなったかな」
まるで、男性とは――――人とは見ていなかったかのような物言い。
だがスティレットに悪気はない。
あるのは、彼女の歪んだ認知のみ。
「結局別れちゃったけど、彼との日々は少なくとも無為じゃなかったから、あたし的には満足よ。この後も、つかず離れずで完全に切れる事はなかったしね」
フェイルは知っていた。
この状態になった事で、知る事になった。
カラドボルグが、彼女の見ている前で死亡した事実を。
「彼が死んだ時にどう思った、って? とても悲しかったに決まってるじゃない。あたしを冷血だと思ってるのかもしれないけど、こう見えても情が深いところもあるのよ。だから裏切り者も始末せず見逃していたでしょ?」
フェイルにはスティレットの感情はまるで理解出来なかった。
同じ人間とは思えない、何かが決定的に欠落しているような印象を受けていた。
それが生物兵器による変容なのか、彼女が元々持っている性質なのか、それを理解するのは困難だった。
「あたしの過去はこれくらいね。ここからは仕事に情熱を注ぎ過ぎて、ドラマティックな事は何もないし……ヴァールを拾ったのも、あの子が有能だからっていうよりは、その時の気分だったしね」
流通の皇女は、自分の上り詰めていく期間をそんなふうに総括した。
本来なら、最も輝いている時期である筈なのに。
「前哨戦はおしまい。いよいよ、世界の恥部に到着みたいね」
景色が――――消える。
まるで断崖絶壁から落下したかのような、唐突な消失。
奇妙な浮遊感が全身を覆う。
「これは……」
沈んでいた意識が、気付けばスティレットと同じ高さまで浮上している。
フェイルは自分の声を聞き、微かな安堵を覚えた。
そして同時に、我が目を疑う。
消えた景色がいつしか、いつの間にか具体性を帯びた場所に変わっていた。
それは――――
「王城の隠し部屋ね」
本棚の群れ。
長大な本棚が何処までも広がり、その奧にも、またその奧にも並んでいる。
確かにそこは、以前訪れたあの部屋に似ていた。
「膨大な情報を封印させる為に、アルマ=ローランはこの本棚をイメージしたんでしょうね。というか、イメージさせる為にあんな図書館より図書館な空間を作ったと考える方が自然かしら」
「そんな事が可能なの?」
「あくまで予想よ。さて、せっかく本棚のイメージにしてくれているんだから、素直に知りたい情報を探しましょう。ここからは別行動ね」
スティレットの意識が剥がれていく。
もっと概念的な形を予想していた為、フェイルはこの具体性に富んだ状況に戸惑っていた。
とはいえ、本の数は余りに膨大で、少なくとも一万冊や二万冊どころではない。
この中から自分の知りたい事を見つけるのは、相当骨が折れる。
というより不可能に近い。
それでもスティレットは喜々として探しに行った。
彼女には、ここで朽ちてしまうのを覚悟で探したいものがあるのだろう。
フェイルも覚悟を決めた。
求めるのは、アルマを元の姿に戻す方法。
そして――――出来る事なら、リオグランテを元に戻す方法。
例え死という結論が変わらずとも、人として終わらせてあげたい。
その願いを胸に、フェイルは一番近くにあった本をまず手に取った。
長い長い道のりの、最初の一歩だった。