――――これは、書なき書庫であの凶行が果たされた後の話。
ヴァレロン・サントラル医院は、身の毛もよだつほどの緊張に包まれていた。
「早く運べ! 一刻を争うぞ!」
ファルシオンの魔術とビューグラスの所持していた薬によって止血は出来たものの、失った血は決して少なくはなく、アルベロア王子はいつ天に召されても不思議ではない状態のまま手術室へと運ばれた。
凍った傷口をそのまま放置していれば凍傷になる為、直ぐにでも赤魔術で解凍する必要がある。
ただ、手術室に同行したのはファルシオンではなくヴァールだった。
一定量回復したとはいえ魔力の残量は依然少ないままのファルシオンより、彼女の方が適任という判断だ。
「……まさか、王族を手術する日が来るとはな」
執刀医は院長のグロリアが自ら務める事になった。
本来ならカラドボルグが適任だったが、彼はもうこの世にはいない。
ならば、病院の威信を懸けた手術に挑むのは、この病院の責任者しかいない。
「王子の負傷はこの病院に勤めていたファオ=リレーによるものです。大勢が目撃しています。もし助けられなかったら、この病院は終わりです」
手術室に向かう通路で、フェイルはグロリアに対し冷酷な言葉を送る。
だが、それに動じるような人物が、この大病院を長年支配し続けられる筈もない。
「私が憎いかね? 生物兵器を蔓延させた原因の一人である私が」
まるで挑発し返すように、グロリアは足を止めず、顔も動かさずに返事を突きつける。
アマルティアの一員だった彼は、花葬計画の為に生物兵器の研究を続けていた人物。
それがやがて、ビューグラスの暴走へと繋がり、シュロスベリー家は崩壊した。
「……貴方の病院にアニスを入院させたのは幸運でしたよ。格好の実験材料をぞんざいに扱う事はないでしょうから」
皮肉で返したフェイルに、グロリアの反応は薄い。
ただ、あくまで薄いだけで、全くない訳でもなかった。
「私は既に花葬計画には関わっていない。名も戸籍も変えてある。尤も、世界の恥部を覗いた君には無意味なのだがね」
その足が止まる。
手術室の前で。
「君の要望に応えられなければ、どのみち私は終わりだ。心配せずとも最善を尽くす。最善以上の事は出来んがね。医者とは所詮、神のなり損ないなのだよ」
「……」
それを傲慢と取るか、究極の謙遜と取るか、フェイルは――――判断を放棄し、手術室に入る男の背中を見送った。
直後、後ろにいたヴァールも後を追う。
「お前はこれから地獄の日々を送る。何でも知っている人間になってしまった以上」
そのヴァールが一旦立ち止まり、淡々とした口調でそう指摘したのは、憐れみではない。
「だがそれは私も同じだ。自律魔術が明るみに出れば、デ・ラ・ペーニャの連中が黙っていない。抹殺指令が下るのも時間の問題だろうな」
「今の魔術国家はそこまで腐ってないって聞いたけど」
「急進派か野心家が一人でも上層部にいれば、そいつが私を手に入れようとするだろう。もう私はスティレット様の庇護下にはいないから」
「だったら、王子を助ける事だよ」
次期国王の救命に成功すれば、手術に関わった人間は総じて特権待遇を得られる。
それは、外敵に対しエチェベリアから守って貰える事を意味する。
研究成果を国の発展に寄与するという条件を呑めば、自律魔術の研究費および研究環境も得られるだろう。
「私はあの女が凍らせた患部を溶かすだけだ」
「それだけで将来が約束されるんだから、美味しい役回りだよね」
「手術が失敗したら貰い火で黒焦げだがな」
不意に――――ヴァールが笑ったようにフェイルには見えた。
だが彼女は横顔しか見せず、そのまま手術室へと入っていった。
「……ふぅ」
溜息をつくフェイルの横を、今度はビューグラスが通る。
本来、医療従事者ではない彼が手術室に入るのは御法度だが、緊急時につきその薬の知識を活かす為に加わる事となった。
「お前の作った痛み止め、存分に使わせて貰う」
「……」
断る理由はないが、返事をする理由もない。
フェイルは無言で、その背中をただ黙って眺めていた。
「何故、この薬にあんな名前を付けた?」
予想外の質問が襲ってくる。
これも答える義務はない――――が、逃げたと思われるのも癪だった為、一言だけ残す事にした。
「自分の為だよ」
彼の最期は、今もフェイルの脳裏に焼き付いている。
そのイメージを少しでも払拭したかったのが、偽らざる本音だった。
「……」
ビューグラスは無言で手術室へと入る。
結局彼は、誰にも謝罪しなかった。
だからフェイルは、これがビューグラスと交わす最後の会話だと確信し、手術室の前から離れた。
「フェイル……!」
一階のロビーに向かったフェイルに、そこで待っていたアニスが駆け寄ってきた。
ファルシオンとフランベルジュの姿もある。
ただし、ハルはいない。
彼の父であるガラディーンもまた現在は手術中の為、そちらについている。
「……デュランダルさんとクラウ=ソラスの遺体は、安置所に保管しました。生き返るかどうかはわからないそうです」
神妙な面持ちで説明するファルシオンに、フェイルは小さく頷く。
元アマルティアが営む病院とあって、生物兵器に詳しいスタッフもいる為、彼らに任せるのが最善と判断した。
尤も――――
「クラウ=ソラスはともかく、師匠はきっと生き返らないと思う」
フェイルの見解は、彼らとは違っていた。
生き返るか否か、それは本人の意思とは関係ない。
少なくともハイトはそう言っていたし、不死型の生物兵器とはそういうものだとフェイルも認識している。
それでも、デュランダルがこれ以上生き恥を晒す筈がないという確信があった。
「僕は……これ以上、師匠を傷付けられない。本当は僕が……師匠を殺した僕が責任をもって火葬なり水葬なりすべきなんだろうけど……それは出来ない」
彼の願い――――引導を渡して欲しいという暗黙の願いを聞き入れ、命を絶った。
だが決して、そうしたかった訳ではない。
まして、二度も殺すなど、到底受け入れられない事だった。
「そういえばアニス。どうしてあんな所にいたのさ」
露骨に話題を逸らしたフェイルに、それを指摘する者はいない。
その代わり、アニスは少し困った様子で顔を曇らせた。
「フェイルが全然お見舞いに来ないから、退屈で散歩してたの!」
「ああ……ごめんごめん。ちょっと立て込んでて」
上っ面の会話なのは、フェイルも理解していた。
スティレットに連れて来られたアニスが、血を求めて荒廃した原初の病棟を彷徨い、戦闘が発生していたあのエリアまで来たと想像するのは、そう難しくない。
でも、それを指摘する気は一切なく、アニスの返答を真相とする為だけにした質問だった。
「フェイル。私ね、なんか大丈夫になったみたい」
「……え?」
「もう、おかしくならなくて済むみたいなの。自分でもよくわからないけど、ずっと悩まされてた衝動……? みたいなの、スッと消えちゃった」
故に、そんな事を急に言い出したアニスに、思わず目を丸くしてしまう。
「なんで……?」
「わからないの。でも、ハイトが言うにはね、『貴女は勇者に助けられたんですよ』って。もしかしたら、そのおかげなのかなって……」
アニスの発言は、自分が危険から救われた事と、血を求める体質の治癒が混在しており、全く論理的ではない。
けれど、フェイルは微笑みながら頷き、ファルシオンとフランベルジュを見ながら力強く断言する。
「そうだね。きっとリオが、アニスの中の悪霊みたいになってたものを一緒に連れて行ってくれたんだと思う」
綺麗事は、綺麗である事に徹すれば救いになる。
フェイルは本心からそう思う事にした。
「……フェイルは、これからどうするの?」
恐る恐る、アニスが訊ねる。
彼女は、あの書なき書庫で起こった出来事を断片的には聞かされているが、フェイルが置かれている立場を完全には理解できていない。
だから、そう問える。
フェイルは返答に迷い、少し困った顔で笑った。
その顔を見ていられず――――
「フェイルさんは、私達と一緒に旅に出ます」
ファルシオンは、そう告げていた。