「私達はもう勇者一行ではありません。勇者としての旅をする必要もなくなりました。隣国への親書というのも、勇者計画の為の方便でしょうから。だから……」
ファルシオンの声には、焦燥と困惑が混じっている。
自分で話し始めておいて、考えがまとまっていない。
普段の彼女からは考えられない事だった。
「だから、弓使い兼 薬草士が加わっても支障はありません。幸い、フェイルさんは遠近両方で戦える万能型ですから、近距離タイプのフラン、遠距離タイプの私と組めば、バランスはとても良い筈です」
表面張力だけでもっている器の中の水を必死に零さないように、或いは――――流血が止まらない心臓を必死に縫い合わせているかのように。
ファルシオンは矢継ぎ早に言葉を紡ぎ続けている。
「私達と一緒に来て下さい。お店は暫く休業する事になりますが、ナタルの処方を病院に売れば、纏まったお金は得られます。王子の手術にも使われている痛み止めですから、きっと高い値が付きます。だから、大丈夫です。きっと上手く行きます」
「……お店を続けるんじゃ、ダメなの?」
必死に勧誘を続けるファルシオンに、事情を知らないアニスが怪訝そうに問う。
本来なら、ヴァレロン・サントラル医院と業務提携の契約を結んだ今、フェイルが店を空ける理由は何処にもない。
安定した収入が得られ、生活に困る事はないのだから。
「薬草店ノートは、続けられません」
フェイルではなくファルシオンが断言した事で、アニスは衝動的に怒気を燃え上がらせる。
だがここは病院。
衝動の醜さを誰よりも知るアニスは理性を強く持ち上げ、下唇を噛む事で瞬時に抑えた。
「……どうして、貴女がそんな事言うの?」
とはいえ、険が全て消失するほど、アニスは大人でもない。
不満を隠す気もなく、口調こそ穏やかだが、鋭い目でそう質問を突きつける。
ファルシオンの返事は即答だった。
「誰かが、言わなければならないからです。フェイルさんは言えません。自分のお店を続けられないなんて、言える筈ありません。だから私が言うんです」
「何で続けられないって決め付けるのって聞いてるの!」
「それは――――」
「僕がいると、いろんな人に迷惑が掛かるからだよ」
アニスの肩に手を置き、フェイルが重い口を開いた。
伝える覚悟は、とうに出来ていた筈だった。
「アニス。よく聞いて」
けれど、気が進まないのもまた事実であり、決断には時間がかかってしまった。
「僕は兄として、妹を助けたかった。アニスを助けたかったんだ。だからヴァレロンに戻って来た。理由は本当にそれだけだったんだ。あの薬草店を開いたのも。今日、ここに来たのも」
これから伝える事は、妹を困らせるかもしれない。
苛立たせる事かもしれない。
悲しませるかもしれない。
でも、言わなければならない事だった。
「僕はあの男を父親とは思わない。今後会う事もない。でもアニスにとっては、あの男は父親だ。アニスには、あの男の庇護が必要だ。この街で生きていく為には」
「え……何の話……?」
「アニスは妹だけど、父親は同じじゃない。そういう話だよ」
単なる決別ではなく、今生の別れ。
それを告げなければならない。
「本当は、僕が面倒を見られるのなら、そうしたかった。出来る自信もあった。でも、それはもう叶わないんだ。アニスには子供の頃、凄く助けて貰ったのにね。まあ、その分困る事もされたけどさ」
「何の話を……してるの……?」
「アニス。僕は今から、これからの話をする。アニスがこれからどう生きるのかを決めるのはアニス本人だけど、僕の意見として聞いて貰いたい」
「……」
急に話の流れが激変したと感じ、アニスは困惑を隠せずにいる。
でも、これは必然の着地点だった。
フェイルがアニスと話をするのは、これが最後になるかもしれないから。
「本当に、あの衝動が起こらなくなったのなら、アニスはこれから普通の女の子として生きる事が出来る。違う生き方も選べるけど、まだアニスはその準備は出来ていないし、時間もかかる。まずは生活を安定させなくちゃいけない。その為には、今まで通り父親と一緒にシュロスベリー家で暮らすのが一番だ」
頭では理解できていても、フェイルの意図が掴めず、アニスは終始顔を曇らせている。
そんな顔にさせて申し訳ないという気持ちが、フェイルの中にはあった。
妹であるのと同時に、幼なじみでもあるから。
「だから、アニスが今後どんな道に進むにしろ、今はこれまで通りの生活をするのが良いと思う。ハイトさんもこの街に留まるみたいだから、何かあったら彼に相談しても良いんじゃないかな。女の子にしか話せない事なら、新しく友達を見つけないといけないね。学校に通ってみても楽しいかもしれない」
アニスはずっと、シュロスベリー家で教育を受けてきた。
彼女が外の世界に出るには、余りにも危険過ぎた。
だから今まではずっと、この街の住民の大半は彼女にとって他人だった。
そして、それは正解だった。
知り合いが殆どいないからこそ、血を求める時の彼女がハイト以外の目に晒される事はなかった。
そうならないよう、父親が仕向けていた。
けれど、呪縛は解けた。
アニスの未来は、自由を得た。
それはある意味、自由国家への第一歩とも言えた。
「フェイル、さっきから何を言ってるの……? なんで私の先々の話なんてするの? そんなの、明日でも、明後日でも、いつだって出来るじゃない」
「……出来ないんだ。僕はもう、この街にはいられないから」
「なんで!? また出て行くの!?」
アニスも、フェイル達の様子からある程度は察していた。
でも言葉にされると、感情を繋ぎ止められない。
どれだけ頑張っても。
「やっと……やっとお兄ちゃんが戻ってきたのに……また私を置いて行くの?」
涙目で、震えた声で問われたその言葉は、フェイルがこれまで向けられてきたどの発言よりも、父親への諦めよりも、苦しいものだった。
「……僕も、しなきゃいけない事が出来たから。アニスを自分で助けられた訳じゃないけど、こうしたいって思ってた事はもう叶ったから。だから……」
「ヤだ! 行っちゃヤだ!」
まるで子供の頃に戻ったように、アニスはフェイルの服を掴んで駄々をこねる。
けれどその主張は、我儘とは次元の異なるものだった。
「だってフェイル、もう会えないって顔してる! さっきのだって、もう会えないから最後にって……そんな感じだった! どうして!?」
「……」
理由は言えない。
言えば、アニスにも火の粉が飛びかねない。
世界の恥部――――それは呪いでもあった。
覗いてしまった以上、口封じや情報奪取の対象にならざるを得ない。
全てを自分の中に封じ込めていたアルマとは違って、フェイルはただの人間で、絶対的な防衛手段を持たないのだから。
「会えない事はないよ。それは大丈夫」
けれど、全ての自由が奪われた訳ではない。
フェイルは、アニスに対して嘘をつく気はなかった。
「必ず戻って来る。アニスに会う為でもあるし、違う目的の為でもある。僕の最終的な着地点は、このヴァレロン新市街地だから。でも……暫くはお別れだ」
そう笑顔で告げるフェイルに抗うように、アニスは服を握る手に力を込め続ける。
彼女はずっと、孤独だった。
その孤独を埋めてくれる筈の兄が、また去って行く事にどうしても我慢できなかった。
「私を置いて……その人と一緒に行くの?」
アニスの呟きは、ファルシオンに向ける敵意がこもっていた。
兄を連れ去る魔女のように、アニスには映っていた。
「ねえ、フェイル。どうなの? 答えてよ」
「……」
ファルシオンは何かを言おうとして、結局言葉を呑んだ。
隣のフランベルジュは――――この空気に耐えられず、黙ったまま終始辛そうな顔をしていた。
その様子を横目で眺め、こっそり苦笑しながら、フェイルは既に出ている答えをそのまま口にした。
「ううん。ファル達と一緒には行かない」
しなければならない事がある。
どうしても、自分が。
恐らくは、最後の最後に師匠のデュランダルがする筈だった事を。
「ダメです!」
けれど、ファルシオンは見逃してはくれなかった。
彼女は、彼女達だけは見抜いていた。
フェイルがこれから何を果たそうとしているのかを。
「それだけは絶対にダメです。私達と来て下さい。私達なら……迷惑なんて思いませんから」
「ま、そうね。一応恩人だし。その借りがなくなるまでは、付き合ってあげられるけど」
熱量こそ異なるが、同じ覚悟をもって、二人はフェイルを引き入れようとした。
余に万が一の事があったら――――貴様が代わりに果たせ
その究極の汚れ仕事から、フェイルを遠ざける為に。