――――なあ。
「なあ!」
「え? 僕?」
僕と沢渡が初めて会ったのは、中学2年の始業式だった。
同じクラス。
一学期の初めは名前順で席が決められているって言うのは、どの学校も共通しているみたいだ。
僕は『キ』。こいつは『サ』。
前後で並ぶ事はなかったけど、僕の左隣にこいつの席はあった。
普通、こう言う初日には前の席に話しかけるものだと思うんだけど、こいつは
右隣の僕に話しかけて来た。
「お前さ、人差し指と薬指、どっちが長い?」
そして突然、こんな事を話し出す。
変な奴だと思った。
関わり合いたくないとも思った。
でも無視する程の事でもなかったし、僕は黙って右手の指を伸ばして見せた。
てっきり人差し指――――と思っていたんだけど。
「お、薬指が長いじゃん」
そうだった。
これには、僕自身驚いた。
14年近く、ずっと一番近くで見て来た筈なのに。
僕は自分の指の事も満足に知らなかった。
日常に潜む、小さな謎。
新たな見識。
「知ってっか? 薬指の方が長い奴って、祖先は草食動物なんだってよ。
お前、草食系なんだな。原っぱで生まれたと見た」
そして、僕は草食系と言う妙な断定をされた。
つまり、祖先はシマウマとかトムソンガゼルとか、ああいう動物らしい。
凄くどうでも良い。
どうでも良いけど、知らない同級生に話しかけられるという経験は
随分と久し振りだったから、ちょっとした高揚感のようなものを覚えていた。
僕はその日から、沢渡と毎日会話をした。
こいつが異世界に興味があると知ったのは、それから1ヶ月後。
MMORPGにハマッってるって聞いた時だった。
僕は思わず、こう聞いていた。
「異世界、実際に行ってみたいと思わない?」
「あー、良いな。そりゃ実際に行けたら一番良いな。剣とかスッゲ振りてえし。
グングニルとかミョルニルでも良いな」
そして、沢渡はこう答えた。
だから、僕は余りに嬉しくなって――――そこから一気に話を膨らませた。
もし、本当に行くとしたら。
もし、行けるとしたら。
もし、行った先がこう言う世界なら――――そんな話ばかりしていた。
こんな話を、想像の中以外で出来るとは思わなかったから。
僕の話を聞いてくれる奴に初めて会ったから。
沢渡は、ウザったい顔一つしないで、一緒になって色々案を出した。
だから僕は。
僕はてっきり、同じだとばかり思ってた。
寧ろ、嬉々として持論を述べるこいつは、僕以上にイカレてる――――そう思い込んでいた。
『こいつは本当にしょうがないな』
ずっとそう思い込んでいた。
込んでいたんだ。
でもそれは――――現実じゃ、なかった。
沢渡は、遊んでいただけだった。
きっと悪気もなく。
僕のあらゆる提案や自論を、ネタだと信じて。
ずっと、優しく付き合ってくれていたんだ――――
気が付くと、僕は外を歩いていた。
自覚。
そして、失望。
余り前後の事は覚えていない。
あ、こう言う導入だからって言って、可愛さ余って憎さ100倍――――なんて事は
ないからご安心。
茶化されてた、なんて怒る気持ちはない。
殺人事件とかこう言うきっかけで起こる事もあるらしいけど。
沢渡とはその後、適当に話をして、適当に別れただけ。
本当に、あいつには悪気なんて欠片もないんだと思う。
僕のしょうもない、幼稚な発想に対して、快く付き合っていただけなんだ。
元々、あいつもバカ話が好きなタイプ。
僕の異世界話については、『フリの長いネタが好きだねー』と言っていた。
そう言う事だ。
僕は異世界に行きたい。
その事に迷いはないし、その願望が消える事もない。
ただ、昨日までとは全く違う。
僕にはもう、味方はいない。
一緒に語らう相手もいない。
異世界に迷い込みたいと思ってる友達も。
異世界があると信じてる知人も。
きっと――――小日向もそうだろうから。
奇特な発言をしている僕や沢渡に興味を持っただけなんだろう。
より奇特だった沢渡に強く絡んでいたのも、そう言う理由だとすれば辻褄が合う。
昨日感じたのは、心理学的な興味かと思ってたけど、単に珍しい物に
惹かれていたのかもしれない。
自分も変り種だから、そう言う空気が居心地良かったのかもしれない。
いずれにしても、僕には関係ない事だけど。
異世界に行きたいと言う自分の思いが、他者に滑稽な事と認識されているのだと
嫌でも自覚する。
僕は異世界に行きたい。
行って、全てをリセットしたい。
この時初めて――――僕は逃避の手段として異世界を意識した。
それとほぼ同時。
僕の携帯が鳴る。
コンタクトの相手はかなり限定される。
沢渡か、家族か――――
「……?」
モニターを見て、驚く。
そのどちらでもなく、名前が記されていない。
つまり、登録していない番号だ。
まあ、インターネット関連の何らかのお知らせかもしれない。
電話番号は携帯のそれだけど、地域事業会社の職員が自分の携帯で掛ける
と言うのは、よくある事。
或いは、学校の連絡網かもしれない。
自宅の電話に誰も出ない場合は、僕の携帯が緊急連絡先に指定されている。
何にしても、驚くほどの事じゃなかった。
間抜け。
自虐的な気持ちで通話ボタンを押す。
『もしもし』
『もしもし? えっと、桐野の携帯で合ってる?』
小日向だった。
携帯番号は教えてない筈だけど、これも驚くには値しない。
『うん。学級名簿で?』
『そ。って言うか、声小っさ。何その死にかけの蚊の鳴くような声。ちゃんと
御飯食い散らかしてる?』
『食い散らかしてはないけど……何? 業務連絡?』
『な訳ないって。で、今日はどうするの? 別のスポット探すつもり?
それとも別の手段考えてるとか?』
ああ、そう言う事か。
……そう言う事か。
『生憎、もう取材は受け付けない。悪いけど、オモシロ人間コンテストのエントリーは
他の人に当たってくれ。じゃ』
僕は、それだけを告げてケータイを切った。
深みに嵌ってる気はする。
このままだと、登校拒否しそうな勢いだ。
今日は日曜。
もし、この沈んだ気分を明日までに回復させきれないと、本気でそうなりかねない。
いたたまれない。
それがきっと、この世の中で一番無残な感情だ。
逃げたい。
憧れの世界に。
幻想的な、あの影の先へ――――
「……」
再び、ケータイが鳴る。
着信音は、購入時から変えてない。
無機質なこの音に恐怖心を持つ人は結構多いらしい。
僕も今、そんな心境だ。
でも、取りたくない。
馬鹿にされるような気がして。
冷ややかな声を浴びせられるような気がして。
昨日までなら、そんな事も平気だったのに。
沢渡と会う以前の僕は、どうだっただろうと――――ふと思う。
きっと、やっぱり平気だったんだろう。
まだその時は、勢いみたいなものがあったから。
今は停滞してる。
無理。
何度鳴っても、今は誰とも話したくない。
何度鳴っても。
何度呼んでも。
何度――――
『だーっ! うるせーーーっ!』
『アンタがいきなり切っていつまでも取らないからだ、このノドチャミユビナマケモノ!
ちょっとは人間の敏捷性を見習って5分前行動を取れっ!』
結局、通話ボタンを押していた。
そして同時に、ダークサイドに落ちきれない自分を笑う。
半端者と言われるかもしれないけど、僕はコレを自分の長所だと思った。
どうやら、明日は学校に行けそうだ。
あっさり開き直れたのは、構って貰っているって言う実感を着信音のしつこさに
感じたからに他ならない。
僕はきっと、運が良い。
登校拒否する生徒の気持ち、初めて理解した。
『で、何』
『さっきの。取材とかオモシロ人間とかも気になるけど、それよりあのヤサグレた声と
感じ悪い切り方何? フザケてんの? ドイツから吸血鬼スカウトして白骨死体にするぞコラ』
後、ヤクザに脅されて欝になる人の気持ちも理解した。
って言うか、こいつの口の悪さは僕の異世界論より何気に問題な気がする。
『悪かったよ。機嫌が悪かったんだ』
『あっそ。んで、結局異世界には迷い込まないの?』
『沢渡のアホはな。僕はまだ何も諦めてない』
少し呪詛を混ぜたのは、僕なりの区切りのつもりだった。
恨みはない。
僕の滑稽な夢に暫く付き合ってくれた友人には、感謝もしてる。
でもちょっと絶望したんで、これくらいは言っておきたい。
『僕は異世界に行く。電波だと思われても、カウンセリングに定評のある病院を紹介されても
夢からは降りない』
『それは良いけど、どうやって行くか決めた?』
凄く軽く流されて些かショック。
まあ、そんなもんか。
実際、他人の夢とか決意なんて暑苦しいし。
まして僕の場合、他人からしてみればドン引きの夢だしな。
……って。
『何でそんなに興味津々な感じなの? 電波少年の行動理念の具体的な例とか
調べてんの?』
『は? 何で私がそんな調査する必要あるの? ナマケモノの癖に
脳ミソは随分早合点ね。フライングノーミソナ、マケモノに改名してあげましょっか』
『マケモノで区切るな! まだ何にも負けてないからな!』
『……あ、もう時間。異世界どーのこーのについては、また明日聞くから。じゃ』
そして一方的に電話は切れた。
小日向――――アイツは一体何なんだ。
僕の推論は、彼女の口から完全に否定された。
奇妙な事を口走る人間の生態観察じゃなかったらしい。
てっきり、沢渡がフツーのアホだって事に気付いてアプローチ対象を僕に変更した
とばっかり思ってたけど、違うみたいだ。
じゃあ、本当に一体何なんだ?
その疑問で頭が一杯だった僕は、夕日に照らされている街並を眺める余裕はなかった。
週が変わって、月曜日。
キリスト教的には日曜が週の頭と言う定義があるらしいが、僕は熱心なクリスチャン
じゃないから、今日が週の初め。
そして、切り替えの日でもある。
「よーっす桐野。ジャンプ読んだ? 読んでないなら100円で売るぞー」
登校すると、いつものように沢渡が少し気だるげに話しかけて来た。
こいつは朝が苦手だ。
そして、立ち読みで済ませるんじゃなく、しっかりジャンプを購入すると言う
妙に律儀な面もある。
同じ夢を持っている訳じゃなかったけど――――友達だ。
「高いよ。コンビニ行けばタダで読めるのに」
「ドアホ! 立ち読みの方がリスク高けーんだよ! もしツボ入って思わず噴出しちまったら
周りから白い目で見られんだぞ。ウッハ〜……ハウウッ」
沢渡はその場面を想像し、興奮しているようだ。
やっぱりこんな友人は嫌だ。
今日限り、稀に話す知り合いに関係を再構築しよう。
「……何、あの人類の進化の歴史に甚だ疑問を覚える酔いどれムンクみたいな顔」
その知人を見ながら、僕の直ぐ後ろで小日向が顔をしかめていた。
余り朝から話し掛けて来る事はなかったんだけど。
どう言う心境の変化なのかはわからないけど、取り敢えず挨拶しておこう。
「おは」
「放課後までに草案をまとめておいて」
でも、それは半分しか許されず、素っ気ない物言いを残して小日向は席に着いた。
何か機嫌が悪そうに見える。
「あれ? 小日向さん、もしかして2日目……」
「荒挽きにされたいの?」
「うひょお」
悪態にもキレがない。
沢渡は喜んで身悶えしてるけど。
本当にそうなのかも。
「……」
す、凄い目で睨まれた。
アレは古龍種だ。
古龍種の目だ。
恐ろしい……
「はあい、席に付いて下さあい。ホオムルウム始めまあす」
担任の丸い声が聞こえて来た事で、どうにかその凶悪なグレアから逃れる事が出来た。
気をつけよう。
女性のメンスは男が想像する以上に神経質になるものらしい。
と、教訓を得たところで放課後。
この日、僕は授業もそっちのけで異世界へのアプローチ方法ばかり考えていた。
いつもの事、と言えばそれまでだけど、今日は特に集中していた。
一度も教師に当てられなかったのは幸運だった。
或いは、その集中している様が『ほう、こいつは随分熱心にノートに取ってる
じゃないか。邪魔しちゃいけないな。それを見極めるのも教師の素養よ』と
思わせたのかもしれない。
それくらい、一点集中で考えた。
基本バカだから、発想力に関しては自信ないけど。
「で、どんな感じ?」
教室には、僕と小日向、後いつも最後までいる女子グループだけが
残っている。
沢渡はオンラインゲームに身を投じる為にとっとと帰宅していた。
あいつ、廃人にならないと良いけど。
僕の親がインターネットの閲覧時間に制限を設けているのは、
その風評を多少捻じ曲がった解釈で聞いているからだし。
父曰く、『良いか良く聞け。お前はのめり込みやすいタイプだ。そして単純だ。
もし俺がお前にネット閲覧の自由を与えたら、その瞬間にはもうお前は廃人なんだ』
との事。
言われた時はムカッとしたが、僕の事を僕以上に良く知る父の言葉は無視出来ない。
それに何となく、自分でもそうなりそうな気がする。
だから僕は、周りの人間がどう思おうと、比較的まともな道を進んでるんじゃ
ないかと思わなくもない。
「どんな感じかって聞いてんのよ。聞こえてる? それともその耳は
耳じゃなくて羽付きにしようとしたらブヨブヨになった失敗作?」
「この耳は家庭で作った餃子じゃねえよ! ちゃんと聞こえてるよ……」
やっぱりキレはなかったが、それなりに癪に障る物言いをされた。
この小日向と言う女子が、どうして僕にいちいち突っかかってくるのかは知らない。
まあ、でも構ってくれるってんだから、披露しよう。
僕の今の精一杯を。
「色々考えたんだけど、過剰なアピールは却って怪しまれる可能性がある。
だからもし偵察に来てる異世界人がいるんなら、フツーにしてた方が良い」
「アンタ、自分の意見コロコロ変えるねえ。児童漫画雑誌に愛着でもあるの?」
「ねえよ。それに、反省して意見を修正する事が恥だとも思わない」
「ま、そうだけどね」
少し感心したような素振りで、小日向は僕の後ろの席に座った。
そこは普段、佐藤君の席。
僕以上に目立たず、僕以上に友達がいなさそうな生徒だ。
勝手に座ったところで、誰が咎める事もないだろう。
「って言う事で、結局は一番スタンダードな召喚される方法を軸に考えてみようと
思うんだけど、ここまでは良い?」
「良いんじゃない? 結局は王道が愛される。それが世の常だし」
何か大きな意味での皮肉みたいに聞こえたけど、気にしない気にしない。
「で、異世界に迷い込む人の傾向を考えたんだ。その結果、ごくフツーの中高生が
ダントツで多いって言う集計結果が出た」
「何処で調査したかは知らないけど、ま、それも王道か。実際、異世界側も下手に
有名人を拉致ったりしたら国際問題どころか宇宙規模の問題になりそうだし」
今更だけど――――小日向の言葉はいちいちヲタク臭い気がする。
気の所為だろうか。
「そんで、フツーの学生って意味では僕はキッチリ該当してるから大丈夫。
次の条件は『友達が少ない』。友達が多いと人間関係も何処に繋がってるか
わからないから、異世界側も手を出し難いと思うんだ」
「って言うか、発想がどんどん誘拐犯のプロファイリングになってきてるけど。
本当に大丈夫なの?」
実際似たようなものだと思う。
「そして更に言えば、僕がもし異世界側なら、文明の利器に詳しい奴が良い。
ファンタジーが土台の異世界がこの世界に求めるのは、大抵スタンガンとか拳銃とか
精密機械だ」
特に秀でた能力のない人間が英雄になる手っ取り早い方法。
それは、物資の力を借りる事。
オーバーテクノロジーは、その模範例だ。
この世界でオーパーツが重宝されているのと同じか、それ以上の意味がそこにはある。
何しろ、こちらの世界の武器は向こうじゃ対策も立てられてなけりゃ開発も難しい。
材料ないからね。
それは、戦争と言う状況下では切り札となる。
大抵、異世界に迷い込んだ少年少女はそれを使って伸し上がるんだ。
「成程ね。つまり、そこがアンタのネックになる、と」
「ああ。僕は近代の機械には疎いからね。兵器に到っては知識もない。
だから、今日はその調査をする」
ようやく本日の方向性を示す事が出来た。
それに対する小日向の意見は――――
「良いんじゃない? それだったらまずは『異世界が求めそうな』モノを
ピックアップする所から始める訳ね」
やけに好意的だった。
と言うか、ノリノリだ。
……やっぱりコイツは同類なんじゃないだろうか、と言う疑念が湧く。
でも沢渡の件があるだけに、それを言葉には出来ない。
もう、いたたまれない気持ちになるのは避けたい。
「一応、僕なりにピックアップしてみたけど……」
その代わり、能動的に自分の草案を見せる。
まず、異世界とこっちの世界を行き来出来るかどうかと言う問題もあるけど、
電気は基本、ポータブル電源で使用可能だから十分使用出来る。
原油は、存在自体は遥か古来からあったものだから、異世界でも多分
普通にある。
ガソリンはアルコール濃度90%以上の酒なら、代用出来る可能性があるらしい。
よって、基本的には何でもOKと言える。
その上で、異世界に召喚された際に重宝される物を選ぶ必要がある。
「わざわざ召喚されるケースでは、10中8、9はモンスターや別の国家との戦争で
役立つ物が重宝される。だから、まずは武器」
そうなれば、やはり近代兵器が圧倒的な需要を得るだろう。
銃火器も有効だけど、効力って点に絞れば、一番良いのは細菌兵器。
一瞬で戦争は終わる。
でも、それじゃ暗黒大王だ。
僕の好みじゃない。
やっぱり、自分で武器を使って闘ってナンボだと思う。
それがロマンだ。
だから、見栄えとかも結構大事で、銃火器類はその点ではとても魅力的だ。
でも――――僕は銃なんて扱えない。
使った事ないし。
弾の込め方とか安全装置の外し方とか、そう言うのはまあ調べればわかる。
でも、銃の重さは実際に持たないと実感出来ないし、まして狙い通り
撃つ事が出来るとは思えない。
そもそも、調達方法がない。
よって非現実的だ。
「僕が用意出来る範囲で武器として有効な物と言えば……スタンガンだ」
スタンガンは通常、電圧の高さで威力を計られがちだが、実際には
100万ボルトのモノより5万ボルトのモノの方が威力が高い事もある。
場合によっては、人をも殺せるだろう。
特に、鎧で覆われた屈強な兵士や、堅い甲羅やウロコに覆われたモンスターには
多大な威力を発揮出来る。
接近戦のみの使用と言う点ではやや扱い辛いが、僕が購入出来る範囲では
これ以上の選択はない。
電気使いっていつの時代も絵になるし。
「そうね。中高生が使う武器に限定するならそれが一番って気がする。
平々凡々、夏炉冬扇、酔生夢死なアンタには相応しい、女子供の武器だしね」
……微妙に毒が戻って来ている気がする。
心なしか、肩の辺りまで伸びた髪が瑞々しく見えた。
「でも、本当に価値を見出されるのは兵站の補助だろね。移動手段、兵糧の運搬、
情報管理、情報伝達……戦争ではこれらが重要になって来るから」
「へえ、聞いたふうな事言うじゃない。どのサイトに載ってたのやら」
あ、バレてら。
昨日1時間と言う制限の中で頑張って探したネット上の情報。
それによると、戦争においては実際にドンパチする戦場より、そこに到るまでの
過程がとても大事なんだそうな。
まあ、地味な事だけど、そう言う事をしっかり満たす存在になれれば、
英雄としてだけじゃなく軍師として名を轟かせる事も出来る。
幅が広がるってもんだ。
「まあ、そうは言っても僕が用意出来るのは自転車か原付バイクとか、そんなもん
って気もするけど」
「フッ」
鼻で笑われた。
そんな物よりずっと重宝される物があるのに、と言わんばかりに。
「そんなシケた物よりずっと重宝される物があるのに。余り視野が狭いと
器まで小さくなるんじゃない? 将来社会に出た時に後輩から器の小さい男って
陰口叩かれる人生設計って最悪よね」
ワンランク酷い事を言われてしまった。
って言うか、この口の悪さも慣れて来ると腹も立たないな。
悪気を感じないからなのかもしれないけど。
「異世界がこの世界に求めるのは、何もオーバーテクノロジーだけじゃないと思わない?
この世界だからこそ無駄に余ってる物。そして、保存にとっても便利な物」
「……ダンボール箱?」
小日向は口の両端を引き上げた。
確かに――――それは何気に重宝されるかもしれない。
ダンボールは湿気に強い。
収納にも良い。
中身も見えない。
使わない時は畳んでおける。
技術が進んだ今の時代でも尚、運搬時には常に重宝される物。
それでいて、無料で幾らでも手に入れられる。
コレは大発見だ。
異世界で一番必要とされるのは、もしかしたらダンボール箱なのかもしれない。
「よし! それじゃ僕の部屋に沢山ダンボール箱を用意しておこう!」
と言う訳で、本日の行動が決定した。
そして、やって来ました量販店。
ダンボール箱はスーパーとか電気屋にも沢山あるけど、こう言う店だと大抵は
『ご自由にお取り下さい』と言うコーナーが設置されており、そこに余り物の
ダンボールが多数放置されている。
引越しシーズンなら相当な数のダンボールを持っていく人が沢山いるが、
夏のこの時期には余りまくり。
問題は、それをどうやって家まで運ぶかだが。
「学校のリヤカー使えば?」
と言う小日向のありがたいお言葉を採用し、少々恥ずかしいものの、
一度に54箱ものダンボール箱(押し潰し済)を家まで運ぶ事に成功した。
部屋の押入れに全て押し込み、収納完了。
更には、インターネットを使って通販でスタンガンも購入。
少ない小遣いとは言え、お年玉をコソコソ貯めていた事もあって、
なんとか安物をゲット出来た。
さて、これで準備万端――――って訳でもない。
次は異世界について、ちょっと本気で分析してみようと思う。
実際に召喚された時の為の予習だ。
ちなみに、僕は勉強においてはどんな科目に関しても予習なんてした事がない。
中間テストも期末テストも、実力テストも模擬試験も、全部ぶっつけ本番で
やって来た。
結果は殆ど惨敗だけど、別に悔いはない。
仮に前日に勉強して良い点をとっても、ちょっとだけ良い気分になる程度。
終わった瞬間、また次のテストが待っている。
でも――――異世界への召喚はきっと、一生に一度。
そして、夢。
勉強と同じようにする訳にはいかない。
どんな異世界へ行くにしても、そこには未知故の危険と脅威が待っていて、
それに呑まれたらきっと死ぬ。
僕は異世界に行きたい。
でも行くだけで終わる気はない。
英雄になれなくても良いけど、何かを成したい。
異世界へ言った事を誇りに思える何かを。
夢には続きがあって良い筈だ。
だから僕は、異世界を考える。
諸説あるけど――――異世界には第二世界と第三世界が存在する。
第二世界って言うのは、現存するこの世界の干渉がある世界だ。
二人称、と言う言葉を思い浮かべるとわかり易い。
一人称、つまり自分自身と向き合う存在。
第二世界は、第一世界に従属する世界と考えて良い。
例えば、第一世界の誰かが構築した世界だ。
それは物理的に作り上げた国のようなものかもしれないし、誰かの夢の中の世界と言う
形なき世界かもしれない。
小説やマンガ、インターネットなどの創造物の中の世界もここに含まれる。
中世ヨーロッパをモチーフにした剣と魔法の国は、基本的にこの第二世界だ。
簡単に言ってしまえば、第一世界の誰かが作った世界。
だから、実際にそんな異世界は存在しない。
想像上の世界だから。
ただ、僕を含めて多くの異世界迷い込みを希望している人間は皆、この世界をイメージし、
そして理想とする。
一方、第三世界と言うのは、第三者――――つまりは他人。
或いは傍観者。
それ等と同じ意味だ。
要するに、この世界の干渉を受けておらず、独自に生まれ、そして発展したと思われる世界。
並列世界と言っても良い。
パラレルワールドと呼ばれる世界も、この範疇だ。
例えば、現実のこの世界と殆ど作りは同じだけど、座標軸が異なる世界。
これも実際は創作物に良く登場する世界だけど、同時に独立した世界とも言える。
この辺はちょっと複雑だけど、要するに『矛盾のない』世界と考えれば良いらしい。
地球が生まれた理由を誰も知らないのと同じで、その世界が構築された理由は必要ない。
ただ、生物形態が存在してるならば、それらが成長し、文明を築き、歴史を積み重ね、
社会を生み出したその過程に矛盾がない事が必要となる。
第二世界は、誰かが生み出した物だから、そこには誰かの利己が在る。
誰かにとって都合の良い世界が第二世界。
そうでない世界が第三世界だ。
そして、僕が考える異世界って言うのは――――第三世界だ。
第三世界は都合の良い世界じゃないから、例えばRPG等に良く見られる歴史の矛盾はない。
中世ヨーロッパと同じ文化形態を築きながら、ガラスが普及し、銃のような武器があり、
大陸を列車が横断していると言う世界はあり得ない。
でも、そう言う矛盾を取り除けば、僕の理想とする第二世界風の第三世界がある可能性は
十分にある。
厄介なのは、魔法。
この世界にはない魔法と言う存在がある世界を考える場合、その文化の発展は当然
魔法の存在を中心に考えなくちゃならない。
もし、自由に炎を出せる魔法があるとしたら、火薬の発展は恐らく大きく遅れる。
また、回復魔法なんて存在があれば、医学の発展は更に遅れているだろう。
そして、一つの学問の発展が遅れれば、他の学問の中にもそれに影響され
発展が遅れる事になる。
全ての学問は独立はしておらず、それぞれの分野が手を取り合って発展して行くものだからだ。
よって、魔法がある世界では、僕等の世界の常識は一切通用しない。
だから僕は、その覚悟をしておかないといけない。
そう言う世界に召喚される事を望んでいる訳だから。
僕が今日した行動は、そう言う事だ。
剣と魔法の国に召喚される可能性をちょっとでも上げる為の行動。
これが、今日、そしてこれから僕がやって行く事。
目標だ。
それが定まったこの日――――僕宛に一通のメールが届いた。
残念ながら、異世界へのお誘いじゃない。
小日向からだった。
今日の放課後、メアドの交換をしておいたんだ。
女子と初めてのメアド交換、そしてメール受信だけど、全然ときめかないのは
あの毒舌の所為なんだろう。
顔はとっても綺麗なのに……人間中身が大事ってのは都市伝説じゃなくて事実なのかもしれない。
メールの内容はと言うと、簡素なものだった。
送信テスト。
そして、お休み。
要約した訳じゃなく、こう言う文面だった。
絵文字とか好きじゃないし、くどい文章は読みたくないゆとり教育真っ只中の僕だけど、
流石にこれは軽く引いた。
あいつは――――小日向は、社交性がない女子なんだ。
毒舌もまた然り。
コミュニケーションのとり方をあんまりわかってない。
だから友達もいないんだろう。
あの鍾乳洞に言った日も、結局午後の予定ってのは家族とだったみたいだし。
美人なのに、はぐれモノ。
マンガでは良くありそうな設定だけど、実際に現存するとはね。
普通はチヤホヤされて、そのままグループの中心になるものなんだろうけど。
それとも、そうしたくない理由でもあるんだろうか。
――――そうしてはいけない理由でもあるんだろうか?
ふと。
僕はそんな事を考えた。
やっぱり、僕は頭が悪い。
何でこの可能性を考えなかった?
真っ先に思いつくべきじゃないか。
どうして小日向が異世界について語る僕等に近付いたのか。
そして何故、実際には異世界に興味のなかった沢渡へのコンタクトを止め、僕の方に
シフトして来たのか。
やけに異世界に対して積極的に意見を述べ、僕を誘導している理由。
そして、群れたがらない理由。
小日向は、異世界人じゃないだろうか――――?
それなら、全ての辻褄が合う。
だって、あんだけの美人がここ数日、僕にやけに絡むのはやっぱり不自然だ。
でも、彼女が異世界人で、僕を召喚すべき人材かどうか観察しているとしたら
納得が行く。
異世界に理解があり、それどころか行きたがっている中学生。
当然近付いて来る筈。
そして、異世界召喚の準備をさりげなく誘導する為、行動を共にする。
助言もする。
でも、異世界人である以上は目立ってはいけない。
いずれ元の世界に帰るんだから、友達は作るべきじゃない。
別れを寂しくするだけだ。
ああっ、綺麗にピースが嵌ったジグソーパズルの絵が頭に浮かぶ!
僕はアホだった。
こんなのは序盤に気付くべきじゃないか。
ま、まずい。
そう確信すると、心臓がドキドキしてきた。
動悸が止まらない。
い、異世界は本当にあるぞ、これ。
勿論、1000%信じてたけどね!
信じてたけど、いざ確証とも言えるこの推論を頭に浮かべた瞬間、僕は急速に
その存在を近くに感じた。
落ち着け。
これは千載一遇の、そして空前絶後のチャンスだ。
よし、明日早速聞いてみよう。
……でも、実際に聞いても良いんだろうか。
『気付いてしまったのね……試験の途中で気付いてしまった以上、貴方を異世界に
連れて行く訳には行きません』
とか言われないだろうか?
僕は今試されている最中で、それに対して何も知らないままでいないと
ダメなんじゃないだろうか?
でも、既に疑ってしまってる状況で、自然に接する事が出来るかって言うと、
その自信はキッパリない。
それに、もし試されているなら、出来れば有利に働く行動を取りたい。
と、なると――――軽くカマ掛けて、小日向に気付かれないように確証を得て
その後は『異世界人に試されている』と言う事を念頭に置きつつ、自然に
心証の良い行動をして行くのが、理想の展開だ。
僕は今後の行動指針を練り上げ、そして高揚する心を鎮める事なく、
その日はずっと眠れない夜を過ごした。
「はー、今日はいい天気だなー。絶好の異世界旅立ち日和だよなー。
もし身近に異世界人がいたら、今日くらいに故郷に誘ってくれないかなー。
もう家族には挨拶済ませたんだけどなー」
「……」
「異世界って、やっぱりアレかな。スカウトする相手は出来るだけ
順応力がある方がいいって思ってるよね。プロのスポーツ選手だって、
力はあっても移籍先のお国柄に合わないと、実力を発揮出来ずベンチで腐るだけだもん。
ドラえもんみたいに、その行き先に好きな食べ物を見つけるのが一番だよね。
異世界って、ドラ焼きとかあるのかな?」
「……」
「ああ、今日も異世界超行きたい。いつも行きたいけど、特に最近行きたいなー。
こんなの初めてだ。どうしてだろう。きっと、そういう周期なのかな。
コレが過ぎたら、暫くそんな気分じゃなくなるかもなー。今がいいなー、今がチャンスだなー」
「……さっきから、意味不明な独白しながら私をチラチラ見てるその怪しい挙動は
一体何のつもりなの?」
翌日。
実際に試してみたトコロ、全く上手く行かなかった。
って言うか、半眼でドン引きされていた。
う、うーん。
なんか、イマイチ上手く伝わってないのかな。
遠回しなのが良くないのか?
よし、やっぱりココは一か八か、勝負を掛けてみよう。
ダメでも、冗談で済むように、ちょっと保険かけつつ。
「いやー。実はさ、もし小日向が異世界人だったら、どんなリアクション返すかな、
って思ったりなんかして」
直球勝負。
ただ、もしココで『何言ってんの、私はフツーの人間に決まってるじゃない。バカ?』
と返されたら、『フッ、例え0%に限りなく近い可能性でも、近い場所から
試していくのが、異世界への近道なんだよ。甘いな小日向は。日向夏くらい甘い』
と答えるコトで、電波扱いを回避できるって寸法だ。
恐らく『日向夏は酸っぱいだけじゃない。貴方の脳ミソこそ酸味だけで出来てるんじゃないの?』
と、ツッコみどころをキッチリ抑えてくれる筈だ。
そこで話題転換。
話は終わる筈。
さあ、答えてみろ小日向。
さあ!
「……」
アレ、なんか答えないな。
つーか、寧ろ困ってる?
アレアレアレ。
これ、もしかして……ビンゴ?
俺、やっちゃった?
異世界への扉、開いちゃった?
男子中学生の一念、岩をも通した?
や、やった……
やったアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああ!
やっぱり、やっぱりやってみるモンだよね!
言ってみるもんだよ!
小日向……いや、小日向さん。
良く良くみると、人間離れした神々しさを持ってると、前々から思ってました!
むしろ第一印象から決めてました!
さあ、僕を異世界へ。
異世界へ連れてってくれっっっっっ!
「それはそうと、カーテンはやっぱり、オフホワイトが一番落ち着くと思うんだけど、
貴方はどう思う?」
アレ?
なんか勝手に話題が進んでるな。
まるで、さっきの俺の発言をスルーしているかのような展開じゃないか。
「あ、あの。小日向さん」
「何よ」
「さっきの発言に対するリアクション、貰ってないんだけど」
「? アレって、その必要あるの? って言うか、そこまでして私に罵詈雑言で
弄られたいの? もしかして、ドマゾ?」
「誰がマゾか! え? やっぱスルーされてたの?」
ちくしょう……ちくしょーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!
「……一体何なのよ。わかるように説明しなさい」
まるで小学生低学年に悪戯した理由を聞く教師のような面持ちで、小日向が問う。
やむを得ず、僕は一連の発言の動機を誠実の述べた。
「……生粋のアホね。もしアホの純度に価値があるのなら、貴方は世界で一番高価な
ダイヤモンドをも上回る価格で取引されたでしょう」
酷い物言いだった。
「だってなあ……小日向みたいな可愛い女子が僕に構う理由って、他に思いつかないし」
あ、しまったっ!
口滑らせた!
小日向は――――
「……」
そっぽを向いていた。
感情は読み取れない。
照れてるのか、キレてるのか。
どっちもあり得るなあ……
「ったく……バカじゃないの?」
そして、そのままの体勢でそう呟く。
少し声が震えてた。
それを自覚したのか、小日向は数度咳払いし、僕に構う理由を述べ始めた――――
要するに。
小日向と言う女子は、僕と同類だった、って言う事らしい。
異世界に迷い込みたい。
異世界でロマン溢れる体験をしたい。
そう言う、世間一般で言うところの『痛い』人だった。
言動がやたら毒舌なのは、小学生時代に『異世界はある! 私はそこに行く!』
と大々的に宣言した結果、クラスメートに散々馬鹿にされ、それを蹴散らす為に
身に付けた防護壁……と推測。
いや、護ってはいないけど。
完全に攻めてるけど、まあそんなところだろう。
そう言う感じの事を昨日言ってた。
で、同じ主張をしてる僕や沢渡に近付いて来たらしい。
類友。
まるで引力でもあるかのように、そう言う人間同士が同じ集団の中に
引き寄せられた事例は少なくない。
僕と沢渡がそうだと思ってたけど、実際には僕と引き合ったのは小日向だった。
ってか、だったら最初から『私も異世界行きたーい♪ お話面白そうだから
混ぜて混ぜてーっ♪』とでも言ってくりゃ良かったんだ。
……と言ったところ、『何か低次元な話ばかりだから失笑を抑えるのに必死だった』との事。
抑えてた痕跡、一切見当たらなかったけど。
結局、仲間に入りたかった、って事らしい。
これも昨日聞いた事だけど――――小日向が異世界に興味を持ったのは、
ゲームでもライトノベルでもなく、幼い頃に友達が一人、失踪した事が原因だとか。
今でもその子は見つかってない。
世間的には『神隠し』なんて言われているその事件を、僕は知らなかった。
そして、幼い彼女は幼いなりに、友達を取り戻す為、色々なアプローチを
試みたそうだ。
いきなり人がいなくなるってのは、どう言う事なのか。
その中で辿り着いたのが、異世界迷い込みと言うジャンル。
一見、強引にも思えるその結び付けだけど――――それは最も優しい結論だった。
だって、異世界に迷い込んでるのなら、その友達はきっと無事だから。
小日向は、数ある説の中で、一番友達がハッピーなものを選んだんだ。
そしてそれ以降、彼女はずっと異世界の存在を信じている。
現実にあった事に起因すると言う意味では、僕と似ていた。
『道理で、幼稚で稚拙で拙劣で劣悪なアンタの異世界論の中に、偶に私が共感出来る
部分が垣間見えた訳ね。これで気になってた部分の98%は解決した』
と、小日向は言っていた。
そこまで言われる程僕の異世界に関する考えはヘッポコなものだったのかと
思うと気が滅入るけど、既に2%になったと言う彼女の僕への興味は、
意外な事に、あれから三ヶ月が経過した今も未だに継続している。
妙な話だけど、まあ結局のところ、人は自分のマイナーな部分を共有しているモノに
対して一番執着するんだろうと、何となく悟った。
2%の部分が、どれくらい人生で重要な意味を持つかと言うと、きっと何ら
意味のないものなんだろうとは思うけど。
そんな訳で、僕の放課後の過ごし方は、一ヶ月前からちょっと変化した。
主に話す相手が男子から女子になった――――と言うと、結構同世代の同性からは
羨ましがられそうだけど、実際にはそんな色気のある話は皆無で、でもより
ディープな議論は毎日行われている。
ま、彼女が僕に特別な感情を持つなんて事は、100%ないだろう。
小日向は相変わらず汚い言葉で僕を罵るし、僕はそれを全力で非難する。
そう言うやり取りに終始している中で、例えば恋とか、或いは愛とか、そう言ったものは
ちょっと生まれそうにない。
実際、休日に午前中から会ったり、テスト期間中に一緒に勉強してる時も、
そんな雰囲気には全然ならないし。
偶に思いっきり顔が近付いて、睫毛同士が触れ合っても、何らときめくような
素振りは見せないし。
小日向にとっては、僕は単なるマイノリティな自分を晒せる唯一の存在、
って事なんだろう。
単一のものが特別なものとは限らない。
人生で一度しかない盲腸の手術が、大した話題にもならないように。
その話を一度小日向にした事がある。
まるで焼肉屋に行った日の夜に乗った体重計の数値を見るような目で見られた。
呆れられるのは慣れてたから、特にどうとは言わなかったけど。
と、まあ。
そんな感じで、異世界に行きたいと言う気持ちは、まだまだ社会や常識に潰される事なく、
僕の中で元気に活動継続中だ。
小学校の卒業式の日見えた景色は、未だ僕の前に現れてはくれないけど。
あの時見た世界を忘れない限りは、そして一緒にそこへ行こうと思っている
風変わりな女子が近くにいる限りは、頑張ってみようと思ってる。
例え――――本当はそんな世界は存在しない、と、わかっていても。
余談かもしれないけど、追記。
衣替えも終わり、残暑がようやく消えて、空気に潤いがなくなって来るそんな時期。
僕にとって数少ない友達である沢渡が転校する事になった。
あの日以来、沢渡との会話は極端に減った。
朝や休み時間は割と普通に、割と何処にでもある雑談をしていたけど、
放課後の異世界トークが一切なくなってからは、共に過ごす時間はかなり
少なくなっていた。
その分、小日向と過ごす時間が増えたから、一日のトータルの他者との会話時間は
全然減っていないどころか、寧ろ増えてはいたんだけど、それでも僕にとって沢渡は
貴重な友人である事に何ら変わりはない。
こう何度も念を押すと、逆説的な受け取り方をする人もいるかもしれないけど、
僕は決して電波な人間じゃないと断言出来る。
ちょっとピーターパン症候群的な夢を持ってる事は否定しないけど、それ以外は
至って普通の感性を持った、何処にでもいる中二の男子だ。
だから、沢渡が転校するって話を聞いた時は凄く落ち込んだし、それに対して割とドライな
反応を示した沢渡に対しても、やっぱり会話が減ると関係性も薄れるのか……と
こっそりショックを受けてたりした。
それでも、僕がどれだけそれを望まなくても、その日はやってくる。
今日は、沢渡がこの学校に登校する最後の日だった。
転校すると言う担任の紹介は、既にその事実がクラス全体に広まっていた事もあって、
特に悲観的な雰囲気になる事なく淡々と告げられた。
やたら明るい性格の奴だったけど、意外な事に、僕以外に特別親しい友達は
いなかったみたいで、沢渡の挨拶の後には、申し訳程度の疎らな拍手しか起こらなかった。
そんな中、僕と一緒に一際大きく手を叩いた小日向の行動に、思わず感動して
目頭が熱くなったけど、それは誰も知らない僕だけの秘密。
そして、委員長からこれまた申し訳程度の花束を受け取り、沢渡は自分の席に向かう。
こいつの席は僕の三つ後ろだから、その通り道に僕は座っていた。
目が合う。
どうせこの後、放課後になったら一言二言、或いはもっと、言葉を交わす。
見送りにだって行くつもりだ。
だから、敢えてここで何かを言う必要はなかった。
でも――――沈黙を守る僕に、沢渡は徐に口を開いた。
「受験が終わったら、また迎えに来る」
僕は意味もわからず、そんな小さな声を漫然と聞いていた。
その日。
1年半振りに、山の向こうに影が見えた。