結論から言えば、川内コータは平凡な男子高校生だった。
精神科医・天川アヤメは自らの下したその判断に絶対の自信を持っていた。
しかしながら、精神科の領域は中々に厄介な問題を幾つも抱えていて、その一つに『病気である事に納得できない人』『病気でない事に納得できない人』の両方が多い点を挙げなければならない。
要因は至極単純であり、精神医学への信頼の薄さに他ならない。
実際、この学問は他の分野と比べると歴史は浅く、また未解決・未発見の領域が広すぎる為、当然と言えば当然の事だ。
信頼の薄さはそのまま精神科医への懐疑的な目へ繋がっていく。
そしてその目は、主に二種類に分けられる。
一つは、患者本人の疑惑の目。
そしてもう一つが――――
「いいえ! この子は病気なんです! 間違いありませんから!」
患者を連れて来た付き添いの人間による、このような訴え。
何気にこのケースも多い。
逆に言えば、自分を信用しない相手との会話に慣れている精神科医は多い。
20代半ばと、医師としては若輩の部類に属するアヤメでも例外ではなく、感情的になっている女性――――患者・川内コータの母親と堂々向き合った。
「気持ちはわかります。そう言いたくもなりますよね」
医者は病気を治すのが仕事だ。
論文を書くのも症例数を増やすのも、本来であればそこへ集約されなければならないし、事実多くの医師がその志を持ち切磋琢磨の日々を送っている。
『病気を治す』という仕事には、単に病巣を取り除くだけではなく、『患者を病気前の姿に限りなく近付ける』というニュアンスが多分に含まれている。
その為には、俯瞰的である事は勿論、常に多面的、多角的に患者と接していかなければならない。
患者一人一人にそれぞれの生活があり、それぞれの不安があり、それぞれの生き方があるのだから、病気前の姿に戻すアプローチは必然的に多岐にわたる。
無論、精神科――――メンタルクリニックにおいても例外ではなく、寧ろこの分野が最も注力しなければならないのはそこだ。
精神疾患は薬を常用しなければならないケースが多いが、その病気の性質上、途中で服薬を中断してしまう患者は多い。
また、仮病や詐病、虚偽の申告や思い込みも多い為、患者が真の病人か否か、病人であるならば今の状態はどうなのかを正確に見抜く目――――観察眼と洞察力が非常に重要となる。
「ええ! そりゃそうですよ! 先生、ちゃんと診て下さい! この子が普通な訳がありません!」
決して患者やその付き添いの者の言い分に惑わされない、強靱な意志。
あらゆる先入観や固定観念を取り払う事が出来る、フレキシブルな頭脳。
それもまた、精神科医には必須の能力だとアヤメは自らを戒めている。
「確かに、普通からは多少逸脱していますが……」
「多少どころじゃありませんでしょう!? おかしいんです! 異常なんですこの子は!」
故に、アヤメは思う。
この患者とその家族は、己の持論を更に確固たるものとする好機をもたらしてくれた――――と。
「いえ、お母様。貴女の問題視する息子さんの言動は、異常とまでは言えません」
もの凄い剣幕で捲し立てて唾液さえ飛ばしてくる母親を穏やかな笑みで諭しつつ、自身の出した診断の根拠を述べる事にした。
「例え、ゲームのキャラを『俺の嫁』だと言っていようともです」
「どうしてですか!? この子、作り物のよくわからない絵と結婚したって言ってるんですよ!? おかしいじゃないですか!」
川内コータ――――
城ヶ丘学園高等部に通う、高校1年生の男子。
彼がこの【メンタルクリニック
菖蒲】に強制的に連れて来られたのは、そういった理由からだった。
「親の私が言うのもなんですけど、この子見た目はそれなりだと思うんです。なのに恋愛どころか女っ気一つなくて、おかしいな、ちょっと変だな、もしかして男が好きなんじゃないか、って疑っていた矢先に……それ以上があるなんて! もう母さん信じられない! たった一人しかいない大事な一人息子がこんな事言い出すなんて!」
ついには愚痴を叫び始めたヒステリックな母親とは対照的に、コータという名の少年は3日前ピラニアに食い散らかされ腐敗しきったエンゼルフィッシュのような目をして、終始床を眺めていた。
その様子を横目で逐一チェックしつつ、アヤメは母親へ優しい口調で説明を続ける。
この根気もまた、精神科医には必須だ。
「今時、珍しい事ではないんですよ。20代、30代……お母様と同年代の方にも、少なからずおられますので」
「そ、そうなんですか?」
「男性ばかりではありません。女性も同じように、漫画やアニメ、ゲームのキャラクターに恋することはありますし、その恋を十年単位で続けている方もおられます」
「それって異常じゃないですか! だって、相手は人じゃないんですよ!?」
「ならお母様、例えばこんな話は聞いた事がないでしょうか」
精神科医に限らず、医師は寡黙だと苦労する。
昔はそうでもなかったが、現代において患者への説明はより明朗である事が求められる。
特にアカウンタビリティやインフォームド・コンセントの重要性が説かれる昨今においては『治しゃいいだろ』が通用しなくなってきている。
医療の世界は極めて巨大なビジネスマーケットであり、患者はユーザーでありゲスト。
ビジネスである以上は、ゲストに対するサービスを怠る事は出来ない。
例え相手が病人やその関係者でなくてもだ。
「とある婦人が伴侶と別れ、一人静かに暮らしていました。ある日、そんな彼女が意を決し、寂しさを紛らわす為に犬を飼いました。その婦人は飼い犬を大層可愛がり、もう結婚はいい、この子と結婚しているようなものだから……と呟きました」
――――この世に、病院の客となる可能性がゼロの人間はいないのだから。
「質問です。それは異常ですか?」
「い、いえ。よくある話かと」
「ええ。そうですね。つまりそういう事です」
そう穏やかに語りかけるアヤメの虹彩に、みるみる表情が明るくなる母親の顔が映る。
「先生……!」
「わかって頂けましたか?」
「はい! そうなんですね……! この子にとって、作り物の女の子の絵は犬畜生なんですね!」
「違げーよ!」
流石にそこは黙っていられなかったらしい。
ここまで見事に沈黙を貫き通してきたコータが、音を上げたかのように重い腰を上げた。
「あのさ! 俺ホント病気とかじゃないから! 先生もそう言ってるだろ!? もう帰っていいかな!?」
「だってぇ……お母さんビックリしちゃって。今ってそういうの普通なの? 親戚一同に知られても恥ずかしくないくらい普通?」
「それは恥ずかしいから黙ってて貰えるかな! っていうか、もう色々黙っててくれるかな……」
コータの顔は明らかに憔悴していた。
頬もこけ、目の下にはクマがくっきり浮かんでいる。
彼は彼なりに、母親に自分の性的嗜好を知られ、羞恥の限りを尽くしていたのは明らかだ。
尤も、そういう常識的な心の動きが診断を決定付けるものでもない。
理由は極めて端的。
精神疾患はそんな表層的なものではないからだ。
「そうですね……お母様、ではこうしましょう。今日はカウンセリングという事で、これからコータ君と二人で少しお話をします。それで如何ですか?」
「問診みたいなものですか?」
「はい。そう考えて頂いて構いません」
今この母親は、検査したという事実を求めている。
ちゃんと専門家に診て貰って、別に問題はなかったという安心――――それさえ得られれば、完全には納得は出来ないまでも一つの区切りにはなる。
母親として、やるべき事はやった――――そう思える。
「わかりました。先生、お願いします。コーちゃん、ちゃんと診て貰うのよ」
「だから病気じゃねーって……」
息子に甘いという印象を残し、母親は診療室をあとにした。
そして一人残されたその息子は――――
「……すいません。気を使わせちゃって」
申し訳なさそうに、そして極めて常識的な姿勢でアヤメに頭を下げた。
飾り気のない、至って普通の高校男子。
眉も整えておらず、アクセサリーの類もなく、外見を飾る事への関心は見受けられない。
ただし不潔にしている様子もなく、淡い色の私服や短めの髪からは清潔感さえ漂う。
少なくとも、特異的なこだわりや偏った嗜好はなし。
視線の忙しない動きや身体の強張りも認められない。
沈黙が長かったのも、気恥ずかしさや心療内科に連れて来られたショックや不安を思えば全て常識の範疇だ。
異常性は何一つとして見当たらない。
川内コータの反応は、極めて正常な男子高校生のそれと一致する。
ただし――――
「全くだ。君の母親はどうかしている。初対面の相手に唾液を飛ばすなど言語道断だ。これだからあの年代の同性は嫌なんだ。虫酸が走る。恥を知れと言いたい」
その診断を下した医者本人が正常であれば、という前提が必要だが。
「……ん? あれ? すいません、今何か……言いまし……た……?」
「あ? 全く、ああいう母親と接するのは本当に気が滅入るな。自分の価値観とズレているというだけで病気扱いとは恐れ入る。ま、逆に明らかな病気であっても病院へ連れて行きたがらない親も多いのだが。精神科や心療内科は未だに偏見が根強い。だから"メンタルクリニック"などといちいち横文字使って印象を和らげなければならない。今に始まった話ではないが、クソな世の中と言わざるを得ない。チッ」
コータの眼前で堂々と悪態を吐き、舌打ちまでする精神科医・天川アヤメは、医師としてはかなり若い部類ではあるものの、外見上において頼りないと思われる箇所は皆無だった。
白衣の着用に乱れはなく、背中を覆うほど長い黒髪には隅々まで艶が行き渡り、光沢さえ帯びているかのような彩りだ。
その整った顔立ちはいわゆる日本的美人でありながら、奥ゆかしさよりも意志の強さが全面に出ていて、市民の健康を預かる医師としての風格を漂わせている。
けれども、外見上の印象など本質を見極める上での決め手にはならない。
患者然り。
医師もまた然り、だ。
「あの、先生? なんか急に……さっきまでマトモな先生でしたよね?」
「私は今も昔もマトモだ。精神科医が精神の病に罹患するケースは意外とあったりするが、私には該当しない。見ての通りただ美しいだけの女医だ」
その時、コータは気付いた。
自分が普通の精神科医に診て貰っていた訳ではない、その事実に。
尤も、それも珍しい事ではない。
人格が偏ったり傾いたり歪んだりしている医師など、何処にでもいる。
寧ろ偏屈な人間の方が多いと言っても過言ではない。
「なんだ? 君は私を変人扱いしているのか? メンタルクリニックに連れて来られるようなガキが、この私を?」
「いやいやいや! それはダメでしょ! 精神科医がそれ言っちゃ絶対ダメなヤツでしょ!」
「問題ない。この部屋には私と君の二人しかいない。君が言いふらさなければ何も……な」
先程までとは打って変わり、ダウナー系のジト目でアヤメはコータを睨んだ。
ヤブ医者がヤブ睨み――――そんな下らないダジャレが脳に浮かび、コータは思わず頭を左右に振り現実も振り払おうとする。
「もしかして……さっきまではただ猫を被っていただけ?」
「表現の是非は兎も角、一般人のイメージする"医師らしさ"を前面に出していたのは事実だ。君の母親の年代は、丁寧に接しないと直ぐにある事ない事ご近所に言いふらすからな。歩く匿名掲示板とでも名付けようか」
「いや、どっちかって言うと匿名掲示板がネット上の井戸端会議だと思うんですけど、順序的に」
「ふむ。多少は緊張が解れたみたいだな」
そのアヤメの指摘は、コータに少なからず驚きを与えた。
いつの間にか、表情も柔らかくなっている事に気付き、更に目を丸くする。
これまでのやり取りは全て、メンタルクリニックという特殊な環境に足を踏み入れた自分の不安と焦燥を見抜き、和らげようと――――
「なら問診だ。君の心の深淵を覗いてやろう。最近やたら覗き魔にされがちな深淵をな」
――――そんな好意的な解釈が無意味だと気付き、コータは絶望の余り思わず一歩後退る。
その瞳の中には、口の端を吊り上げ、禍々しく微笑む精神科医の姿があった。
「問診……ですよね? 尋問じゃないんですよね?」
「問診だ。楽しい楽しい問診の時間だ」
そう愉快そうに告げるアヤメに対し、コータは戦慄さえ覚えていた。
他者に対し威圧感を与える人物との遭遇。
それはアニメとゲームに人生の大半を費やしてきた彼にとって、初めての経験だった。
「そう身構えるな。これでも一応、本物の精神科医なのでね。君が患者としてここへ連れて来られた以上、何もせずに家に帰す訳にはいかないのだよ」
「えぇぇ……な、何されるんですか。薬とか出されるんですか? 俺……」
それでなくても、コータはここへ連れて来られた時点でかなりの精神的負荷を受けている。
高校生のコータにとって、心療内科に連れて来られるという現実は、それなりにショッキングな出来事だった。
自分がおかしいと本気で親に思われているという、この上ない証左だからだ。
それに加え、薬まで出された日には、精神的におかしい人物――――狂っていると断定されるようなもの。
子供でなくとも、到底受け入れがたい話だろう。
しかも診断を下す医師がどうにも不審人物っぽい言動を繰り返す現状であれば尚更だ。
「それは今からの問診次第だな。場合によっては薬漬けもあり得る」
「クス……!? いや、ちょっと待って下さいよ! 俺おかしくないですって! だってさっき先生も言ったじゃないですか! 俺は病気じゃないって!」
高校生が自分を語るのは、中々に気恥ずかしく、難しい。
だが人生の危機が首をもたげ覗いてくるような状況下においては、話は別だ。
「確かに俺は書きましたよ! つい勢いで弟相手に『菊ちゃんは俺の新しい嫁だから。ケッコンするって決めてるから』ってLINEで書きましたし、それを親にチクられましたよ! でもそれ以外は普通なんです! 成績も普通だし身長体重も平均だしお年玉だって総額3万円だったし! 艦これだって時間区切ってやってるし、深夜アニメも録画してるから夜更かししてませんし! 薬とか必要ないですって!」
コータは必死になって自己弁護という名の自己紹介を行っていた。
ちなみに彼らの発言している内容は、実在するゲーム名やキャラクター名とは一切関係がない。
ほぼ一致している名称があったとしても、一切関係はない。
「俺、本当に病気じゃないんですよ……信じて下さい」
「生憎、この科を訪れる病人の多くは今の君の科白を口にする。『自分は病気じゃない、信じてくれ』と執拗に訴えてくるものだ」
そんなナイーブな高校生男子に対するアヤメの言葉は無情だった。
けれど、真実でもあった。
「ただし誤解しないで欲しい。私は君を病気だと思っている訳ではない。君の母親に話した通りだ」
「え? い、いや、なんかもう訳わかりませんよ」
狼狽するコータに対し、アヤメは先程までのやさぐれた目とは違う、そして彼の母親と話していた接客モードの目とも違う、冷ややかでありながら熱を帯びた『医師の眼』を向けた。
「ゲームやアニメのキャラクターと本気で恋人になりたい。なっている。結婚したい。するつもりだ。というかもうしている――――これは別段珍しくもない訴えだ。この事実一つをもって病気と見なす事は出来ん。だが、病気でないと決めつける事も出来ん。きちんと診察しない限りはな」
「えっと、つまり、母さ……母の訴えは兎も角として、俺が精神病かどうかはちゃんと診察しないとわからないって事ですか?」
「中々良い理解力をしているじゃないか」
そう褒め称える一方で、アヤメの眼は冷たいまま。
コータの様子、表情、虹彩の動き――――その一挙手一投足を静かに観察していた。
「例えば胃や腸にポリープがあるとする。これ自体はよくある話だし、ポリープは放置していても問題ないモノが多い。だが中には癌化するモノもあるし、そうでなくとも部位によっては切除しなければならないケースもある。ポリープの有無を調べる検査で別の病気が見つかるのも、珍しい話じゃない」
「前歯が痛くて歯医者に行ったら、奥歯にも虫歯があったって感じですか」
「そうだ。その意味でも問診は必要なので、協力して欲しい。何、悪いようにはせんよ」
涼しい目でそう主張するアヤメに恐怖心を抱きつつも、コータは先程よりは幾らかリラックスしている自分自身に戸惑いを覚えていた。
まるで、自分が目の前の医師にコントロールされているような感覚。
それが不思議と嫌ではない事に。
「私は医者だ。医者である以上、病の可能性を1%でも残したまま別れる事は許されない」
コータはアニメやゲームを愛する、二次元至上主義の人間だった。
けれど、今の目の前にある確かな美女の存在が、そんな自分を揺るがしているのでは――――
「わかりました。何でも聞いてください」
「うむ。まず最初に聞きたいのだが……君は童貞か」
自尊心やら羞恥心やら色んなものが根こそぎ揺るがされた質問という意味では、コータの予感は正しかった。
最悪ではあったが。
「ひ……必要ですかね。その質問」
「極めて重要な質問だと受け取って欲しい。君に病気が潜んでいるか否かを知る上で」
アヤメにふざけている様子は微塵もない。
医師としての強い意志をそのままぶつけてきている。
訴えれば何かしらの罪状が付いて勝てそうなリスキー過ぎる内容だけに、却って真剣さを裏付ける内容でもあった。
「も、黙秘します」
とはいえ、正直に答えられるほど剛胆な性格ではなかった為、コータは黙秘権を行使した。
「うむ。では本題に入ろう」
「本題じゃないんですかあ!? だったら必要じゃないですよね!?」
「何の事はない。恥ずかしい質問に対し、君がどう対処するかを見ただけだ。より専門的に言うならば『高等感情の確認』だな」
高等感情――――そんな専門色が強そうな言葉が出て来た事で、コータは振り上げた拳を下ろすしかなくなった。
自分の理解が一切及ばない空間において、専門用語に卑屈になってしまうのは人間の性だ。
「さて。先程の君の話では、君がここへ連れて来られた主因はゲームのキャラを『自分の嫁』だと弟クンにLINEで伝えた為とのことだが」
「あらためて蒸し返されるとお恥ずかしい限りです……」
「では最も重要な問い掛けをしよう」
精神科医・天川アヤメの問診が今、始まった――――
「何故、菊月なのか。中々にマニアックだと思うんだが」
「そこ!? ええ!? そこ!? っていうか菊月わかるんですか!? 先生提督なんですか!?」
「そんな事はどうでもいい。何故なのかだけ端的に答えよ」
発言内容は実在するゲーム名やキャラクター名とは一切関係がないし、今後の記述に関しても全て関係ないが、それはともかくアヤメは鋭い視線でコータを射た。
医師の厳しい目は時として凶器にさえなり得る。
コータはすっかり萎縮し、小さく頷いた。
「その……最初はそんなに気にならなかったんです。榛名とか雷とかが好みで。あと最近だと萩風とか。えっと、鹿島より萩風だったんです、俺……」
「いちいちこっちの顔色を窺わなくていい。内容は全て理解している。口からのデマカセではない証拠に解説をしてやろう」
時折外来の患者から懐疑的な目を向けられるのは、何も精神科医に限った話ではない。
医師を試そうとする者は少なからずいる。
そういった人達に対しどう接するのかも、医師の重要なスキルの一つ。
特に精神科においては、その技術は診療・治療に直結する事もある。
その為、優良な医師は豊富で幅広い知識や柔軟性などを持ち合わせている事が多い。
「榛名、雷、萩風、鹿島とは艦これに登場するキャラクター名だ。彼女達は"艦娘"と呼ばれている。この中では榛名、雷が初期から登場しているのに対し、鹿島と萩風は嵐・グラーフと共に2015年秋のゲーム内イベントで登場している。この中で鹿島が絶大な人気を獲得した為、他の艦娘はどうしても影が薄くなってしまう憂き目に遭った。海域こそ違うが同じクリア報酬だったのも災難だったな」
アヤメもその一人――――かどうかは兎も角、彼女はコータの目を爛々と輝かせるだけの知識を有していた。
「スゲェ! こんなに話のわかる医者は初めてです!」
「そうだろう。ならば安心して話の続きをするといい。赤裸々であればあるほど好ましい」
「あっはい。それでええと……確か去年の夏頃でした。偶々ネットニュースで見たんです。菊月の今の姿を」
今の姿。
それはゲーム内のキャラクターを指す言葉ではなかった。
「ほう。菊月の元になった駆逐艦の映像を見たのか。艦これのキャラクターは実在した艦艇を擬人化しているが、その殆どは戦時中に沈んでいるか、跡形もなくなっているからな」
「はい……あの、もう解説はいいんで。わかってる人ってわかってるんで」
そうアヤメを制しつつも、コータの顔は妙に高揚していた。
菊月という名の駆逐艦は戦時中、ソロモン諸島のとある島の湾内に座礁した状態で放置され、現在もその姿を視認できる。
勿論、長年の風化によって朽ち果てており、在るのは残骸のみ。
「そのボロボロになった菊ちゃんの映像を見て、その……」
だがそれでも、確かに菊月はそこに居て、今も居続けている。
勝利を信じ、仲間を信じ、未来を待ち続けているのだろう。
「興奮、してしまって」
――――結果、自国の少年に興奮されてしまう未来が待ち受けていた。
「興奮? ならば勃起でもしたのか?」
「……」
否定、なし。
圧倒的沈黙が診察室を支配した。
「安心するが良い。君くらいの年代だと脈絡なく勃起する事はままある。自律神経が副交感神経支配の場合は微かな刺激に反応するものだ。それ一つをとって病気と診断する事は出来ん。童貞なら尚更だ」
「そ、そうなんですか。よかった……」
何気に気にしてはいたのか、コータは心の底から安堵した様子。
が、直ぐに表情が曇る。
「でもなんか大切なものを失った気が……あの、今のナイショにして貰えますか? 特に親には知られたくないっていうか、恥ずかしさと情けなさで一家心中になりそうなんで」
「心配無用だ。医者には守秘義務がある。家族であろうと、患者が秘密にして欲しいと言えば決して口外はしないし、出来ないようになっている。私は常識人だから大丈夫だ」
「ありがとうございます! 九死に一生を得ました!」
今度こそ確実な安堵を手にしたコータは、同時に自分が彼女へ妙に心を開いている事を自覚し、不思議な心持ちでアヤメを見やった。
「でも、まさかこんな事まで話すなんて、自分でもビックリです。童貞って言われても全然平気だし」
「これくらいは出来なければプロとしてはやっていけんのでな。さて、では次の問診だ」
「はい! もう何でも聞いてください!」
「君は何人とケッコンした?」
ケッコン――――それは勿論、現実の女性との結婚という意味ではない。
艦これ内において、あるアイテムを消費する事で艦娘と心を通わせ、特定の演出シーンやレベル上限の限界突破、能力の上昇などが発生する『ケッコンカッコカリ』というシステムを指す。
いわゆる『〜は俺の嫁』を実現可能とするシステムだ。
「そ、それは……」
「さっき『菊ちゃんは俺の新しい嫁』と言っていたのがどうしても気になってな。一人ではないのだろう。何人だ? 一体、何股かけている?」
「う……あ……」
「言え」
特に声を荒げるでもなく、しかし内蔵を鷲掴みするかのような凄味で、アヤメはそう命じた。
コータはごく普通の胆力しか持ち合わせていない高校生。
耐えられる筈もなかった。
「……32人です」
「やはり課金勢か」
艦これは基本無料でプレイできるゲームだが、より有利に進めるため、現実のお金を支払うことで更なるサービスを受けることができる。
ケッコンカッコカリは1人だけなら無料でも可能だが、2人目以降は課金対象。
それが32人となると、それなりの金額が必要だ。
「し……仕方なかったんです。ランカーになる為には……ランカーになって、その位置をキープする為には必要だったんです」
「別に責めてはいない。ゲームで重婚しようが何ら罪は問われまい。無論、病気とも無関係だ。ただし愛とは何なのか真面目に考える事だな」
「わかりました……俺、軽率でした……」
己のゲームスタイルを悔いるコータの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「さて。艦これについてはこの辺にしておくとしよう。他に趣味はあるのか?」
「あっはい。アニメ鑑賞とか……要するにオタク趣味なんで」
「今時オタクなんぞ死語のようなものだが、まあ良い。それで、アニメは何を? 取り敢えず2017冬クールは何を観ているかを答えよ」
まさか医者から観ているアニメを問われるとは夢にも思わず、コータは狼狽した。
しかし既に人生最大級の恥を幾つも晒してしまった手前、ストッパーはガバガバ。
多少の躊躇はあったものの、結局は答える事になった。
「『このすば』と『ガヴリール』と『メイドラゴン』と『セイレン』、あと『LWA』と『亜人ちゃん』……『政宗くん』もです。あ、『3月のライオン』も観てます」
「ふむ。島田八段は渋いな。私好みだ」
「そうそう……って、深夜アニメもわかるんですか!?」
「無論だ。試聴しているアニメの傾向から、精神状態をある程度把握出来る。今の若い子を診るのに意外と有効な手段なので活用している」
「へぇー、精神科医って凄いんですね」
明らかに常軌を逸した診断内容だったが、コータは特に疑問も持たず感嘆の声さえ漏らしていた。
自分の趣味を受け止めてくれるこの精神科医に対し、親しみを覚えていたからに他ならない。
毒舌を吐いていたアヤメに怯えていた彼の姿はもうどこにもなく、そこにいるのは若干高揚気味な男子高校生だ。
「あとは好みとは外れてるんですけど、一応『けもフレ』と『幼女』は抑えてます。それと、『クズ』『バンドリ』『うらら』あたりも。あ、『アイドル事変』も結構好きですね。ブッ飛んでますし」
「多いな。毎クールそれぐらいの量を観ているのか?」
「はい。一応、というか一話は観られるだけ観て、ちょっとずつ絞っていく感じです。気に入ったのは毎日一話から最新話まで何回も観直すんですよね」
趣味の話になると饒舌なのは万人に共通する特徴。
コータも例外ではなく、またこの場に慣れてきた事もあって、当初の頃よりスムーズに会話が進むようになっていた。
「ふむ。ところで、グッズは買い集めていないのか?」
「あっはい買ってます。気に入ったゲームとかアニメ限定で。箱から出してないグッズやブルーレイ、押し入れの中にいっぱいありますよ。限定版って文字見ちゃうとつい買っちゃうんですよね。これって貧乏性って言うんですかね」
「違う気もするが……よし、では問診はこの辺にしておくか」
唐突な終了。
コータは一瞬、会話の流れについて行けず口を半開きのまま暫し呆然としていた。
「……あの、終わりですか?」
「終わりだ。このクリニックは一人当たりの診察時間が決まっている。本日はここまで、という事だ」
そのアヤメの説明に安堵にも似た表情で納得を示し、コータは小さく頷いた。
そんな彼の様子を確認したのち、アヤメは腰を上げ、自ら診察室の扉を開き帰宅を促す。
「話し足りないのであれば、また来れば良い。予約さえ入れればいつでも診断してやろう。無論、有料だがな。あの私に唾液をかけた残念な母親から上手にせしめる事だな」
「あっはい、考えときます。えっと……それじゃ」
「気をつけて帰るといい。クリニック帰りに事故にでも遭って死者が出たとなれば、嫌な噂が流れかねん。精神科医・死神のアヤメ……ん」
「いやいやいや……ちょっと良さげとか思ってないですよね? ないですから」
若干引きつつも、コータは二度ほど会釈し、若干名残惜しそうに診察室をあとにした。
――――問診の結果を聞く事もなく。
「……」
それから暫くの間、アヤメは一人診察室で外来カルテと向き合った。
同時にノートパソコンも開き、患者データの更新と精神病理の所見の整理を行う。
そしてある程度まとまったところで、電話を手に取った。
"まだ川内コータの診察時間内"なので、次の患者の心配は要らない。
「……もしもし。【メンタルクリニック 菖蒲】です。川内コータ君のお母様の携帯でよろしかったでしょうか? ……はい。たった今診察が終わりました。問診の結果をお伝えしますので、診察室へお戻り下さい」
程なくして、先程出て行ったコータの母親が再度、アヤメの前に現れた。
手筈通りだった。
――――前日からの。
「あの、息子は……」
「結論から申し上げますと、何らかの精神障害が芽生えつつある可能性は否定出来ません。これから順を追ってお話しします」
問診の結果、アヤメは川内コータを平凡な男子高校生と認識した。
"メンタルクリニックを訪れる男子高校生としては"、至って平凡。
実によくある症例だった。
「まず、お母様が懸念していた、引きこもりの理由がゲームに影響を受けたからではないかという点ですが――――」
川内コータ。
高校生ではあるが、現在は高校に通っていない。
不登校、そして引きこもり――――それが現在の彼の日常だ。
「これはありません。息子さんが楽しんでいるゲームは、少し官能的な面はあるものの、全体としては健全な内容です。何の問題もありません」
「でも……」
「『ゲームに夢中になっているから、そのゲームが引きこもりの原因』。そういうケースはあります。ただその場合であっても、ゲームの中身の問題ではありません。御本人の問題です。ただし、それが未熟さや甘えなのか、それとも精神障害が関係しているのかを見極めるのは重要です。その意味では、病院へ連れて行くというお母様の選択は正しかったと言えます」
コータは中学生までは普通に登校し、普通の学生として生活していた。
部活こそ入っていなかったが、日々を健康的に過ごしていた。
だが高校に入ると、直ぐに登校する事を苦痛に感じると訴え始め、一学期の段階で学校に行くのを止めた。
その後、部屋に引きこもるようになり、勉強などする事もなく、ゲームやアニメばかりに現を抜かしている。
――――それが、前日アヤメが母親から受けた説明だった。
この場合、最も可能性が高いのは、環境の変化に耐えられずに現実逃避する『不適応』のケース。
精神科においては、適応障害や社会不安障害と診断する事が多い。
ただ、コータはこれらの病名は該当しなかった。
「息子さんの抱えている問題の一つは、『負い目が希薄』という点です。話を聞く限り、ゲームにかなりの時間を費やしている事が想定されます。更に、アニメの視聴時間も同様です。それが私に露見する事に対し、やや無防備だったように思います」
コータは自分が引きこもりである事を一度も話していない。
アヤメはそれを事前に母親から聞いていたが、コータは知らないだろう。
そんな状況下にあって、彼はゲーム及びアニメに相当な時間を費やしている事を平気で示唆していた。
艦これでランカー入りを果たし、10作品以上ものアニメを視聴し、しかも毎日何度も繰り返し観直す。
学校に通いながらこれらの事を全て行うのは不可能に近い。
だが、コータは隠さず全て正直に話した。
自分が引きこもりだとバレるかもしれない手がかりを幾つも、自ら提供した。
ただ単に『バレるとは思わず調子に乗って話しただけ』とも取れる。
が――――問題はその一点に留まらない。
「加えて、かなりの浪費が認められますが、これに関しても負い目を感じている様子はありません。息子さんは引きこもる前はそういった傾向がありましたか?」
「いえ……どちらかと言えば堅実な方でした」
「でしたら、やはりケアが必要という方向で進めるべきだと私は考えます。全体像として、人格がやや自然ではない形で変化しているように見受けられますので」
「甘え、という可能性はないんでしょうか」
母親がそう訴えるのは、無理のない話だった。
引きこもってゲームやアニメ三昧の日々。
普通ならば精神障害ではなく甘えを第一に疑うべき。
誰もがそう思うだろう。
「その可能性はゼロではありません。常にあります。ただ、息子さんの場合は少々危険な言動が見受けられました」
アヤメは敢えて母親に具体的な内容は示さなかったが――――その"危険な言動"とは、艦これの話をしていた時のものだった。
『恥ずかしさと情けなさで一家心中になりそうなんで』
さり気ない言葉だったが、これは本来危険な思想だ。
無論、本気で実行するつもりなどなく、冗談の類である事は間違いない。
けれどこれは、初対面、それも医者に対して言う冗談ではない。
自分の羞恥心を理由に、一家心中――――家族を道連れに死ぬという発想を口外するのは、親しい間柄ならまだしも、そうでない場合はやや奇異と言える。
匿名でネット上に書き込んだりするのとは訳が違う。
自分が危険人物だと疑われかねない発言だ。
「勿論、その言動ひとつをもって病気とは見なしません。ただ、やはり『自分が他者にどう思われるか』についての意識にやや問題があるように思います。それも、性格の範疇とは異なるニュアンスです」
「それは……病気なんでしょうか」
「そういうところから顕在化していく病気もあります。なので、何らかの精神障害が芽生えつつある可能性が否定できないのです。精神障害には様々な種類がありますけど、その多くに共通しているのは『自己制御のエラー』なので」
鬱病。
双極性障害。
統合失調症。
パーソナリティ障害。
自閉スペクトラム症。
解離性障害。
代表的な精神障害はいずれも、自分の感情や自己同一性、或いは『自身と自身以外との区別』を正常の範囲で制御できず、問題を引き起こしてしまう。
例えば幻聴という症状は『聞こえない声が聞こえる』というものだが、この声は他人のものでない以上、自分の頭の中の声の筈だ。
だがその認識が出来ない、自分の中の声だとわからない、自分自身のものだと区別出来ていないから、幻聴という訴えになる。
鬱病も同様だ。
ただ気分が落ち込むというのであれば、誰だって経験している。
まして『失恋した』『こっぴどく怒られた』『癌になった』などのわかりやすい落ち込み要因があれば、鬱状態にならない方が少数派だ。
こういった理由でよく『鬱は甘え』という言葉が使われる。
原因があって、大きな落ち込みがあって、その結果食欲がなくなり、寝不足になり、目に見えて衰弱する――――実際、そういう鬱病もあるにはある。
けれど鬱病の本質は『落ち込む』『気が晴れる』などの感情を制御出来ていない状態にある。
特別な原因があった訳じゃないのに、突然塞ぎ込んでしまい、しかも立ち直れない。
これも自己制御のエラーだ。
その為、アヤメは診断の際、常にその患者が自己制御をどのレベルで出来ているか、出来ていないかを注視する。
今回診たコータは、やや危うさを感じさせる水準だった。
「幸い、ここや私に嫌悪感を抱く事はありませんでしたから、通院出来る状態にはあると思いますので、暫く経過を見守りましょう。もし病気ではなかったとしても、外に出て、話をすることは引きこもりからの脱却に繋がります」
「はい。あの、お薬は……」
「現時点ではお出ししません。必要性が認められれば、その時に」
「わかりました。ありがとうございます、親身になって頂いて……」
「仕事ですからお気になさらず。元々不安定な年代ですので、お母様も焦らず、最初の時のように感情的にならず、冷静に接してあげて下さい」
そんなアヤメの言葉に母親は何度も頷き、時折息を詰まらせながらも取り乱さず、息子に週一の通院を促すよう約束を交わしたところで診察室をあとにした。
これでようやく、川内コータの初診は終了。
アヤメは若干疲れた顔で、再びパソコンと向き合った。
カルテおよび個人データを更新し、次はブラウザを開いてお気に入りに登録していた幾つものサイトを整理する作業に移行。
そこには『艦これ』や『2017年冬アニメ』などの情報を掲載したサイトの名前がズラリと並んでいた。
「ふむ……患者の為にと仕入れた情報だったが、中々面白そうだな。今度始めてみるか、艦これ」
アヤメには兄弟姉妹がいない。
だから、このゲーム内でも使用されている、同型艦を意味する『姉妹艦』という言葉には少し惹かれていた。
ちなみに――――川内コータも一人っ子だ。
母親がそう言っていた。
だか彼は、親に自分の発言が露呈した理由を話した際、『弟』の存在を示唆していた。
それが、本当の理由を隠す為の方便ならば問題はない。
よくある誤魔化し方の一つだ。
だが、もしそうではなく、存在しない弟をいるものとして認識しているとすれば――――
「彼とは長い付き合いになるかもしれんし、な」
アヤメにとって、或いは精神科医にとって、治療とは患者を治す事であるのと同時に、患者が自己の中に生み出した『錆びついた人格』との闘いでもある。
これは俗に言う多重人格、解離性同一性障害によって生まれた別人格ばかりを指している訳ではない。
まるで広大な海にひっそりと漂う朽ちた艦艇のように、孤独に錆ついてしまった自分。
精神障害は、自己の制御から外れてしまい、乱れた形で固定してしまった患者の"もう一つの自分"を生み出すのが常だ。
ならば治療とは、そのもう一つの姿を消去する事を目標としなければならない。
歪んだ人格の矯正、歪んだ自己の再生、暴走する感情の抑制――――いずれにせよ、それはある種の処理であり始末。
悪性腫瘍を切除するように、或いは薬で小さくするように、歪みつつ生まれた『錆びついた人格』を退治する。
だからこう言い換える事も出来る、とアヤメは日頃から綺麗事への嫌悪と皮肉を込め、自分に言い聞かせていた。
私は――――誰かを殺している。
患者の心を、人生の一部を無残にも殺している、と。
罪悪感は微塵もない。
それで患者を救えるのだから。
夥しい数の苦痛と絶望を取り除けるのだから。
「さて。次の方、どうぞ」
だから毎日、今もこうして診療室に患者を招き入れている。
困り果て、救いを求めやって来る人々を全力で助ける為に尽力する事こそが、彼女の生き甲斐なのだから。
故に――――
天川アヤメはいつも誰かを殺している。
喜々として、殺戮の日々を送っている。
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