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  7月23日(日) 05:08
 ――――――――――――

 夏という季節の特徴として、陽が長い点が挙げられる。
 最北端と最南端で2時間ほど違うものの、本州だと
 大体どの場所でも午前5時前には日の出を迎えるくらいだ。
 実際、5時を過ぎたばかりの今はもう空が薄白く光っている。
 
「……」

 その空の下、僕と城崎、湯布院さん、そしてイカの四人は
 ××県の△△動物園の門前に立ち、眠い目を擦り、欠伸を噛み殺していた。

 ここは一昨日、とある動物が△△動物園から脱走した事で
 ニュースになっていた県。
 城崎のサーチ・テレポートでここまで飛んできたって訳だ。
 
 目的は一つ。
 まだ見つかっていないという、その動物の保護だ。
 
 間違いのないよう、大事な点をもう一度言っておく。
 保護だ。
 捕獲ではなく保護。
 ここがスゴく大事な点だ。
 動物園の動物を勝手に捕獲したらえらい事になるから。

「さて、これから〈【CSPASummer Project.〉1st Processを開始する」

 僕は人差し指をビシッと立て、そう宣告した。
〈【CSPASummer Project.〉――――それは言うまでもなく、
 僕が立ち上げたこの夏【CSPA】をアピールする為の企画だ。
 その第一工程として今回保護しようとしている動物――――

「ところでさ、カピバラって何? 花? 薔薇?」

 ――――を、城崎は全く知らなかった!

「お前……カピバラ知らないの?」
「な、何よ。その薔薇そんなに流行ってるの? 二人だって知らないでしょ?」

 同意を求めた城崎に対し――――

「水歌ったら……カピバラを知らないなんて……」
「時代に取り残された哀れな女子なのじゃ。女子力ゼロなのじゃ」
「なっ……!?」

 残りの二人は憐れみを禁じ得ずにいた。
 無理もない。
 今時カピバラも知らないなんて終わってる。

 敢えて説明するまでもないが――――カピバラってのは薔薇じゃない。
 齧歯類の動物だ。

 のぺーっとした顔ともっさりしたボディ。
 それでいて意外と素早い動き。
 何より、その全体像のラブリーさ。
 今、日本で一番有名な動物といってもいいだろう。
 特に最近では広島と長崎で局地的な人気を誇っている事で有名だ。
 温泉に浸かってボーッとしている姿もよく見かける。

 この事からもわかるように、カピバラはこの上なく
 ローカル向きな動物だ。
 存在自体がゆるキャラと言ってもいい。
 圧倒的なポテンシャルを誇る、新世代のアイドル動物だ。

 僕がこのカピバラに目を付けたのは、今キテるからってだけじゃない。
 カピバラはかつてブームになった動物の要素をちょっとずつ持ってる
 という点が大きい。
 例えばハムスター。
 あれも齧歯類だし、顔もよく似てる。
 水辺でだらーっとしている点はアザラシのゴマちゃんを髣髴とさせる。
 すばしっこさはエリマキトカゲ。
 ちょっとふてぶてしい顔の感じはコアラとも共通している。
 
 というように、カピバラにはかつてブームになった動物との
 共通点が多く、『あの頃はアレが流行ったなあ』という
 懐古にも繋がる存在と言える。
 そして、何より温泉、ゆるキャラとの相性のよさ。
 スパランドのイメージキャラとして、これ以上相応しい存在はない。

 ただ、カピバラを仕入れるとなると一匹70万円くらいする。
 当然一匹じゃ集客には繋がらない。
 仮に五匹仕入れるとなると350万。
 注文から仕入れまでも時間がかかるし、そこから
 環境への適応、トイレなどの躾をして人の目に触れられる
 ようにするには相当な時間が必要になる。
 今夏の間にそれを全てクリアするのは不可能だ。

 そこで目を付けたのが、カピバラ脱走のニュース。
 当然、動物園から逃げたカピバラを自分達の所有にはできない。
 でも保護なら問題ない。
 この××県は、共命町からは結構離れているけど、
 カピバラが移動したとしてもそこまで非現実的な距離でもない。
 保護した後に暫くウチで預かり、数日後に△△動物園に知らせておけば
 移動時間の辻褄は合わせられるだろう。
 その上で、『疲労しているから、ちょっとの間ウチで
 滋養させて、それからお返しする』と返事すればいい。
 
 既に動物園の飼育係に教育されたカピバラなら、
 環境への適応も数日でクリアできる筈。
 上手くいけば、何日かは『カピバラのいるスパランド』が
 展開できるかもしれない。
 仮にできなくても、△△動物園の人達を招いてそれを
 ニュースにして貰えば、宣伝効果は絶大。
『カピバラを保護したスパランド』として全国的に名前が売れる。
 どう転んでも大きなPRになるし、カピバラがウチのイメージキャラに
 なれば、町の観光協会もそこに食いついてきて、合同キャンペーンの
 立ち上げを打診してくるかもしれない。

 完璧だ……我ながら完璧な企画だ。
 
「で、その逃げたカピバラってのをどうやって捕まえるのよ」

 若干ふて腐れた城崎が反撃とばかりに指摘してきたのは、
 確かに難題の一つだ。
 カピバラって動物は、齧歯類の中で最大の体格を誇る。
 中には大型犬クラスのデカさを誇るカピバラもいるくらいだ。
 その上、齧歯類特有のあの鋭い前歯もあり、噛まれるとかなりヤバい。
 網で捕まえようとしてもその網を食い破って逃げる可能性がある。
 △△動物園が本気で捜索しても、未だ見つけられずにいる現状が
 その難易度の高さを示している。

「普通に考えたら、僕らだけで捕まえるのは無理だ。
 だからこそ、コイツを連れてきた」

 そう、僕らには秘密兵器がある。
 僕はそいつを親指で差してみせた。
 
「……香保の事かの?」
「そう。お前のハート・ラックが切り札だ」

 ハート・ラック(障る運命)。
 イカが幸運に恵まれていると、その周囲の人間を不幸にする。
 逆に不運が訪れると、周りに幸運を振りまくという奇妙な異能力だ。

 昨日、イカは不幸続きと言っていた。
 不運パワーがストックされた状態だ。
 もしここでまたイカに不幸な出来事があれば、その半径5.3m以内に
 いる僕達には幸運が授けられる。
 今の僕達にとって幸運というのは――――脱走カピバラの保護を
 無傷で成功させる、それしかない。
 
「という訳で、イカ。不幸になれ」
「不躾じゃ! 人に不幸を強要するでないのじゃ!」
「とはいっても、動物園より先に逃げたカピバラを見つけて、
 かつ怪我なく怪我させず保護するのは相当な幸運がないと無理だ。
 お前に頼るしかない」
「嫌じゃ! どうして香保だけが不幸にならなくちゃいけないのじゃ!?」

 だってそういう能力なんだもん。
 ……とは流石に言えないんで、ここは詭弁を試みよう。

「よく聞けイカ。もしカピバラ保護に成功したらお前にも
 相当なメリットがあるんだぞ」
「嘘じゃ! 香保を騙してノセる為の詭弁じゃ!」
「カピバラをゆるキャラにしてみないか?」
 
 その僕の誘惑に――――イカは露骨に顔色を変えた。

「ウチの店が保護したカピバラを温泉で癒やしている間、
 お客様の目に偶然その姿が触れたとしよう。大騒ぎだ。
 なんだこのスパ、カピバラいるぞスッゲー。夏休みで子供連れが
 多い中、そうなる可能性は大だ」
「うむむむ……カピバラブームの予感なのじゃ」
「そう。そして共命町はカピバラ一色になる。そんな中、お前の
 応募したカピバラのゆるキャラを見た町の観光課はどう思う?
 このキャラをプッシュしてあのスパランドと協力すれば町おこしの
 大きな原動力になるかもしれない。そう思うだろう?」
「ま、間違いないのじゃ! 当選確実なのじゃ!」
「そういう訳だ。協力できるな?」
「フッ、愚問なのじゃ」

 籠絡に成功した。
 さすがイカ、軟体動物なだけあって柔軟な対応だ。
 色々考える脳がない、とは敢えて言わないでおこう。
 僕達は協力者なんだから。

「湯哉君……最近たまにドス黒い顔をしますね」
「元からそういう性格なのよ、コイツは。クズよクズ」

 外野がうるさい気がするけど、今はどうでもいい。
 重要なのはカピバラの保護だ。

「じゃ、まずはイカに不幸が訪れるのを待ちましょう。
 まだウチの店が空くまでは時間あるし、ギリギリまで待っても
 不幸がこないなら、一旦テレポートで帰ってまた明日……」

 そう行動方針を告げようとしたその時――――

「……何か音がしない?」

 城崎が怪訝な顔でそう訴える。
 同時に、その理由は判明した。
 これは羽音だ。
 それも、かなりの数の。
 
「あら……あれって……」

 音の発信源を探して上空を見上げていたところ――――
 湯布院さんが何かを発見。
 その方向に目を向けると、直ぐに〈それ〉は視界に飛び込んで来た。
 真っ黒なブツブツ。
 そうとしか言いようがない。

「カラス……か?」

 カラスなんて日常いくらでも見てきてるから見間違えようがない。
 でも、そのカラスが何百羽もの大群で空を覆っている光景となると
 何が何やらわからない。
 不気味すぎるぞ……!

「な、何なのじゃ……どうしてカラスが……」

 イカは明らかに怯えていた。
 そりゃそうだ。
 状況的に、あのカラスの群れがイカの不幸の前触れなのは明白。
 っていうか、寧ろ……

「ね、ねえ文奈さん。あのカラスたち……」
「ええ。段々降りてきるみたいね」

 やっぱり! 
 って事は、イカを襲う不幸はあのカラスそのもの……!?

「そう言えば、イカって漢字で書くと烏賊、でしたね。それなら
 イカちゃんがカラスに襲われても仕方ないかしら」
「そんなワケないのじゃーーーーーーーーーーーーーっ!

 そう叫びながらも、イカは一目散に動物園から離れるように逃げ出した。
 あ、まずい。
 イカの異能力ハート・ラックは半径5.3m以内にいる人間しか効果を得られない。
 幸運を授かるには、イカを追いかける必要がある。

「二人とも、早くイカを追いかけないと――――」

 そう叫ぼうとした僕に対し、城崎と湯布院さんは明らかに傍観の構え!
 
「ハート・ラックは効果範囲にいる人数が多いとその人数分だけ分散するのよ?」
「誰か一人で行った方が、幸運の度合いが高くなるんですよ」

 ああそうかい!
 僕一人で追えって事かい!
 そりゃそうだ、だって僕の家の経営がかかってるんだもんな!

「ちっくしょーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」

 長い長い人生の中で、恐らく最初で最後の行為。 
 僕は自らイカを追いかける数百のカラスの群れに向かって突っ込んでいった。






 ――――――――――――
  7月23日(日) 06:17
 ――――――――――――

 一時間後――――

「……人が鳥類に襲われてるってのに、何してんだお前ら」

 服をズタボロにされた僕とイカが戻った動物園の前で、城崎と湯布院さんが
 呑気にレジャーシートの上でサンドイッチを食べていた。
 日よけ用の傘まで立ててやがる。

「だって朝ご飯の時間だし。ホラ、これ文奈さんの手作り。美味しいよ?」
「アンチョビ入りタマゴサンドイッチです。お二人もどうぞ」

 たおやかな所作で、湯布院さんがバスケットを差し出してくる。
 確かにそこには綺麗に作ったサンドイッチが並んでるけど……

「遠慮します。色味がさっきのカラスの群れに似てるし……」
「こんな如何にもカラスが突きそうな食い物持ってるのに、どうして香保だけ
 カラスに襲われるのじゃ……納得いかないのじゃ」

 まあ、幸い怪我はなかったし、よしとしよう。
 これで僕にさっきのイカの不幸と、これまでチャージしていた不幸の分量の
 幸運が僕にもたらされるんだ。
 きっとカピバラも見つかるさ。

「で、幸運授かったのはいいけど……これからどうするの? ここで待つの?」

 自分の手をペロッと嘗めながら問う城崎に、僕は首を大げさに横へ振った。

「幸運にばかり頼ってても仕方ない。それにここにいると動物園の
 従業員に保護する所を見られかねないからな。カピバラが逃げてそうな所を探す」
「……やってる事、置き引きと何ら変わらないじゃない」
「保・護。脱走して疲労困憊のカピバラをウチの温泉で癒やすの!」

 と、言う訳で――――レジャーシートを畳んで移動準備開始。
 カピバラは文献上は草食動物との事らしいけど、実際には雑食らしく肉や魚も食べるという。
 加えて水場を好む事から、河川敷や湿地帯があればそこへ逃げると思われる。
 現実的には河川敷が一番妥当なところ。

「イカ、スマホでこの辺りに河川敷がないか検索頼む」
「任せるのじゃ。カラスにズタボロにされた仲間同士、結束するのじゃ」

 なんか妙な友情が芽生えた事で、すんなり事が運ぶ。
 ちなみに、恐らく河川敷があったとしても、既に△△動物園がそこを
 捜索しているのは間違いないだろう。
 普通なら、もういないと考えるべきポイントだ。

 でも、今の僕は幸運持ち。
 偶々、逃げたカピバラが僕達が到着したタイミングでヒョッコリ現れる。
 なんて運が良いんだ!
 うん、コレだ。
 この展開以外思い浮かばない。

「河川敷が見つかったのじゃ」
「おお、そうか。それじゃ早速城崎、テレポートを……」
「忘れたの? あたしのテレポートは一日一回」

 ……素で忘れてた。
 そういや、そういう制限があるんだったな。
 ってか、だったら帰りは電車か。
 いや待て。財布持ってきてないぞ……?

「イカ。いや伊香保さん」
「お金ならないのじゃ。香保はいつでも貧乏なのじゃ」
「……湯布院さんはさすがに、財布持ってきてますよね?」
「あら? 遠足に財布なんて持ってくるほど野暮じゃないですよ?」

 遠足じゃねェーーーーのにィーーーーーーーー!
 くっ、仕方ない。
 明らかに財布を持ってきていて、さぁあたしの前に跪きなさいって
 顔の城崎に頼るしかないのか……

「きっ、城崎さん……電車賃貸して下さい」
「そうね。別にいいけど?」

 口元を抑えて涼しげな目で微笑む城崎。
 当然、ただで貸そうという気はないらしい。 

「……利息は?」
「日頃"お世話"になってるし、トイチで勘弁してあげる。
 ちなみに10分で一割の方」
「ねーよ! そんなトイチ聞いた事ねーよ!」

 どうやら、日頃僕から仕事に関して色々注意を受けてきた事、
 ずっと根に持っていたらしい。
 こっちは早く一人前になって貰うよう、心を鬼にして
 指導したってのに……報われねー。
 
「どうするの? あ、文奈さんとイカちゃんには普通に貸してあげるからね」
「ナチュラルにイカちゃん呼ばわりなのじゃ……でもお金には替えられないのじゃ」

 イカ、1000円札を受け取りあっさり籠絡。
 僕と結束はどうなった?

「くそ……よりにもよって性格の悪いヤツが唯一の財布所持者とは……」

 なんてツイてないんだ。
 そう思った刹那――――

「……ん?」

 ポトン、と足元に何かが落ちてきた。
 上空からカァ、とカラスの鳴き声。
 さっき僕を襲ったカラスの中の一羽だろう。
 まさかフンでも落としやがったかと一瞬思ったが、
 どうやら全然違う。
 これは……

「500円玉だ!」
「えっ!? 何それ!?」

 城崎が目を丸くする中、僕は足元に落ちていたコインを拾う。
 確かに500円玉。
 カラスは光り物が好きとは言うけど……何処かで拾ったコレを
 誤って落としたのか。
 流石に『クリーニング代だ、取っときな』とかいう
 ノリで落としたとは思えないし。

「500円なら、電車だと無理ですけどバスで帰れるんじゃないかしら?」
「調べてみるのじゃ」

 湯布院さんの言葉に従い、イカがスマホで調べたところ――――

「行けるのじゃ。500円キッチリなのじゃ」
「マジか!」

 これはカラスの落とし物であって、人間の落とし物ではない。
 なら使っても遺失物等横領罪にはならないんじゃないか?
 さすがに、人以外の落とし物を想定して作った法律じゃないだろう。
 ……微妙なところだけど。

「まあ、何にせよこれでお前にデカい顔される理由はなくなったワケだ」
「チッ……悪運の強いヤツ」

 心底悔しがる城崎の性格の悪さはともかく、確かに運が良い。
 このタイミングで幸運が舞い降りてくるなんて……

「……げ」

 浮かれてて気付かなかった。
 これってハート・ラックから授かった幸運じゃないのか……?
 だとしたら、こんな事で使っちまったって事になるんだけど……

「……」

 僕以外の三人も気付いたらしく、全員顔を引きつらせていた。
 な、なんてこった。
 せっかく早起きしてまで来たのに、無駄骨か……?

「でも、イカちゃんの何日か分の不幸がストックされてた割には
 ショボい幸運よね」
「確かに納得いかないのじゃ。香保の不幸はこんな500円玉と
 釣り合うようなものじゃなかったのじゃ」
「例えば?」
「一昨日、一番浅いプールで溺れてプールサイドに打ち上げられたのじゃ。
 死にかけたのじゃ」
 ダイオウイカか、お前は……
「確かにそれだと釣り合わないですね。違うのかもしれませんよ」
「ですよね……」

 っていうか、それ以前の問題かもしれない。
 考えてもみてくれ。
 あれだけのカラスに追いかけられた割に、無傷で済んだのは
 ある意味奇跡的な事だ。
 ……その時点でもう幸運使い果たしてないか、僕。

 それともう一つ。
 イカ、さっき城崎から『利息なしでお金を借りられた』けど、
 これって……ちっちゃいながらも幸運じゃないか?
 だとしたら、これから僕達を待っているのは寧ろ、不幸な出来事なんじゃ……

「ちょ、ちょっと。アレ……」

 サーッと城崎の顔が青ざめる。
 その視線の先は、上空だった。
 その時点で、何が起こっているのかは想像に難くない。

「げ」

 やっぱり――――カラスの群れの再訪だった。

「落とした500円玉を取り返しに来たのか……?」
「いや、違います。あれを見て下さい」

 珍しく、湯布院さんが少し感情を昂ぶらせた様子で
 カラスの群れの真下を指差す。
 あれは……カピバラの群れ!?

「カピバラを追いかけてる……?」
「そのようです。餌と見なしたのかも」

 な、なんつー凶悪な鳥類だ!
 あんな愛くるしい動物を食べようなんて……けしからん!

「こ、こっちに近付いて来てるけど……アレがカピバラ?」

 城崎は明らかにドン引きな様子で、カピバラの群れを凝視していた。
 間違いない。
 赤い帽子が似合いそうなのぺーっとしたあのデカい顔と、
 それに釣り合わないスイカの種みたいな小さい目は、間違いなくカピバラだ!

「これは……僥倖なんでしょうか? それとも奇禍かしら?」
「不幸な方に決まってるでしょ!? あんなのに追突されたら死ぬって!」

 そう言ってる傍から、もう直ぐ近くまでカピバラの群れは来ている。
 は、速い……!
 しかもイメージよりデカイ!
 カラスを怖がってるらしく、必死になって逃げている。
 いや……必死かどうかはあののぺーっとした顔からはわからんけど。

「に、逃げるのじゃ! このままじゃ轢かれるのじゃ!」
「いや、でも保護のチャンスだし……」
「そんな事言ってる場合じゃないでしょーがっ!」

 イカと城崎が必死に叫ぶように、確かにヤバい状況だ。
 カピバラの数は予想よりずっと多く、10匹以上。
 サイズ的にも速度的にも、猪がその数で突進してくるようなモンだ。
 捕まえるのは難しいかもしれない。

「仕方ない、一旦逃げるぞ!」
「オッケ!」
「そ、そうね」
「はわわー、なのじゃ」

 僕と湯布院さん、そしてイカの三人は動物園の門の右側へ。
 そして城崎だけが左側へそれぞれ逃亡を図った。
 特に示し合わせた訳でもなく、直感的に。
 一方、カピバラの群れはというと――――

「なっ! なんでこっち来んのよっ!?」

 ものすごい足音と共に、門の左側へとルートを変え迫ってきた。
 あれ、これってまさか……

「まだ湯哉君の幸運が残ってたのかしら?」
「いや、そんな冷静に分析してる場合じゃないでしょ!」

 おっとりした湯布院さんを押しのけ、僕は城崎の方へ迷わず駆け出す。
 このままじゃあのバカがカピバラの犠牲者になりかねない。
 幸いまだ距離が少しあるし、今の内にこっち側にムリヤリ引っ張って――――

「カァァァァァァ!」

 突然のカラスの一鳴き。
 それが更なる恐怖となったらしく――――カピバラ達の逃走速度が上がった!

「げげっ」
「嘘っ!?」

 あっという間に目の前に迫る、カピバラの群れ。
 絶体絶命だ。
 いくらカピバラたちがぬぼーっとした顔のままでも、この速度、この。
 勢いをマトモに受けたらタダじゃ済まない。
 僕は死をも覚悟し、反射的に目を瞑った。

 ……でも。

 まだ死ぬには早過ぎるよなあ。
 自分が成し遂げたいと思った事、何も成していない。 
 やりたい事は沢山ある。
 何より、彩莉の成長を見届けなければならない責務が僕にはある。
 まだ死ねない。
 そうだ……僕はまだ死ねない!

「死ねないんだ!」

 クワッ、と目を見開いた僕は、暫く呆然としたままその場に立ち尽くした。
 
 ――――いない。

 さっきまで確かに僕達に向かってきていた筈のカピバラたちが、
 影も形もなくなっている。

「……あれ?」
  
 目を逸らし変なポーズのまま硬直している隣の城崎も、
 その異変に気付いたみたいだ。

「ね、ねえ……どういう事? さっきの、幻か何かだったワケ?」
「そんな事はないと思うけど……いや、幽霊ならあり得るのか?」
「カピバラの幽霊? こんな朝早くに? それこそないでしょ……」

 二人して間の抜けた会話に興じる他ない。
 あ、そう言えばこの状況を傍観している筈の二人がいたんだった。

「水歌! 湯哉君!」
「無事でよかったのじゃー!」

 その二人が心配そうな顔で駆けつけてくる。
 彼女達は見た筈だ。
 カピバラたちがどうなったのかを。

「ね、ねえ、何がどうなってるの? もしかして文奈さんが隠された
 力を使ってカピバラを消し去ったとか……」
「そんな物騒な能力なんて持ってませんよ。それならイカちゃんが……」
「文奈先輩にまでイカ呼ばわりされるのは悲しいのじゃ……それと、
 いくら香保の幸運でもいきなり動物を消したり出来ないのじゃ」

 いきなり消えた……?
 やっぱりカピバラたちは消えたのか。
 状況的に、それ以外考えられないし。

「ど……どういう事? まさか集団幻覚だったんじゃ……」
「それもないと思います。環境的に」

 集団幻覚ってのは、集団全体に強いストレスがかかっていて
 かつ密閉された空間で起こるもの、と聞いた事がある。
 確かに、それが起こる環境じゃない。

「……」
「……」
「……」
「……」

 沈黙。
 いや、マジで幽霊説が一番妥当とすら思えてきたんだけど。
 カラスの群れが未だに上空を彷徨ってるし。

「……帰る、か」 
「そうね。移動時間考えると、店が開くまで割とギリだし」
「私も、そろそろお休みの時間だしね」
「香保も賛成なのじゃ」

 そうそう。
 今日も【CSPA】でしっかり働かないとだし、
 湯布院さんはもうすぐおねむタイムだし。
 こんな所でいつまでもいてられない。

 そんなワケで。
 僕達は現実逃避すべく、その場を即座に撤収する事にした。

 


 ――――けど。





 ――――――――――――
  7月24日(月) 07:53
 ――――――――――――


 話はそこで終わらない。
CSPA】に帰宅直後、僕達はあのカピバラが現実に存在していた
 事をあらためて認識する事となった。

「おお、湯哉! 見てくれよあの連中! いきなり現れて
 温泉にザバーンだ! こりゃビックリだな! 早速マスコットキャラ
 として売り出すしかないなあ!」
「なんで急にウチにやって来たのか知らないけど、これってどうすればいいの?
 保健所に連絡? それとも猟友会?」

 夢見がちな父と、堅実な母。
 その両極端な反応が示すように――――カピバラ達はウチにいた。
 10数匹のカピバラがウチの温泉に浸かって、のんびりしていた。
 ……いや、癒やされる光景だけど。

「母。このカピバラ達が家に来たのはいつ頃? あと連絡はどっちもNGで」
「一時間くらい前じゃなかったっけ。それじゃ、近くのちゃんこ鍋専門店に連絡……」
「だからなんで殺す方向に持っていこうとするの!」

 母は偶に猟奇的。
 それはともかく――――なんでこんな事になったのか。

「……考えられるのは、一つです」

 足が不自由な為、ジェネドで唯一居残り組になっていた
 鳴子さんに事の顛末を語った結果、意外にも素早い回答が得られた。

「水歌のテレポートが作動した、と思います」
「あ、あたしの……?」

 既に接客用の制服に着替えた城崎が、驚いた顔で自分を指差す。

「はい。××県にいたカピバラが突然、ここへ移動した。
 テレポート以外にはあり得ない現象です」
「それはそうかもしれないけど……でも変よ。あたしもう今日は一回
 飛んでるし、そもそもカピバラだけ飛んであたしだけ飛ばないってのも
 あたしのサーチ・テレポートの法則に則ってない」

 確かに、鳴子さんの言うようにテレポートと考えれば納得行くし、
 城崎の言うようにこれまで見てきたテレポートとは質が違う。
 とはいえ、どっちを支持するかと言えば、やっぱり鳴子さんの説だ。
 更に補足するなら――――

「サーチ・テレポート以外にもテレポートが使えるように
 なったんじゃないか?」
「……へ?」

 城崎は僕の意見に、間の抜けた顔で振り向いてきた。

「私も有馬さんの説を支持します。恐らく反応性の異能力です。
 水歌に迫る危機に反応して、それを排除する為に発動したのでしょう。
 名付けるなら……リアクティブ・テレポート。でもこれだと
 水歌自身が反射的にテレポートするイメージですね。
 うーん……」

 鳴子さんはどうでもいい事に熟考し始めた。
 小説家志望だけあって、ネーミングには拘りがあるらしい。

「新しい異能力……」

 一方、城崎は新たに習得した(可能性が高い)自分の力に対し――――

「って事は、新しい副作用が出るかもしれないって事!? そんなの
 イヤ過ぎよ! ただでさえ記憶力がなくてまともな人生送れそうにないのに!」

 やたら悲観的だった。
 こういう時、普通は喜びそうなもんだけど……当事者となると
 やっぱり感じ方は違うんだな。
 まあ、副作用が深刻なのは確かだから、真っ当な反応なんだろうけど。

「……」

 そんな城崎を、湯布院さんは真剣な顔で眺めていた。
 彼女も彼女で、何か思う事があるんだろう。
 それが何なのか――――

『私達ジェネドの中に、一人……スパイがいるみたい』

 ――――何なのかは、僕にはよくわからないけど。

「とにかく母さん、一旦落ち着こう。彼らカピバラは人類の
 敵じゃないんだから、捌く方向に持っていくのはよそう」
「でも……あの顔、なんか腹に一物ありそうでムカつかない?」

 両親は両親で、カピバラの処遇について揉めている。
 なんか、予定と大分違う方向にシフトしてしまった。
 とはいえ、ウチにカピバラが来たのは事実。
【CSPA】Summer Project.〉1st Processは無事完了した
 と言って良いだろう。
 尤も、大変なのは今後の2nd Process以降なんだけど。
 カピバラ達の力を借りて、この夏の【CSPA】を盛り上げていく。
 その為にやる事は沢山ある。
 城崎の新能力が気にならないと言えば嘘になるけど、
 今はそっちに構ってる余裕はない。

「父、母。カピバラについては、僕に一任して欲しい。考えがあるんだ」
「うむ。それがいいだろう」
「そうね。面倒そうだしそれでOK」

 両親、またも即決で僕に丸投げ。
 ……これでいいのか【CSPA】。

「部外者の香保から一言あるのじゃ」

 僕と両親の会話を聞いていたイカが近寄ってくる。

「なんとなく、まだまだトラブルが続出しそうな気がするのじゃ。
 カピバラが来てまずは順調というところじゃが、城崎先輩の
 事もあるし、浮かれる事なく悲観もせずに頑張るのじゃ」
「……おい。13歳が一番まともな事言ってくれたぞ。聞いてるか当事者ども」
「浮かれきっておる連中が傍にいると、妙に冷静になってしまうのじゃ」

 ジト目で僕とイカが眺める中、両親ズはさっさと引き上げ、
 ジェネド三人はそれぞれのトーンで悩み悶えて続けていた。
 
「おふぁようございまふ……あれ、何の騒ぎですかー?」 

 彩莉が起きてきたみたいだ。
 まだ寝起きみたいだけど、きっとカピバラを見たら興奮して
 一気に目覚めるに違いない。

 その姿を見るのも楽しみだけど、何よりまずは店を開けないと。
 こんなクソ暑い中でも、朝から駆けつけてくれるお客様が
 いないとも限らないからな。

「さて……楽しいおもてなしの時間の始まりだ」
 
 色々あったけど、本番はこれから。
 僕は肩をグルリと回し、一日の始まりを身体に教え込んだ。








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