昼休み。
 制服を元に戻させ、校内放送で呼び出しを行った結果、生徒会長も含め
 スタッフ全員が生徒会室に集まっていた。
 名目としては、明日に行う最後の選挙活動の内容の確認と、許可申請。
 実際これも今日中にやっておくべき事だから、怪しむ奴はいない。
 一応、最後は校門の前で街頭演説ならぬ校門演説をやる予定だ。
 ただ、今はそれどころじゃない。
 大事なのは――――
「実は今朝、こんな手紙が俺のゲタ箱の中にあったんです」
 こうして、全員が見える位置に、手紙を広げる事にあった。
 特に、女子の席からはハッキリと正位置で文字が見えるように。
 その手紙の文章は、ラミナの術によって一部変化していた。

『立候補を辞退しろ。さもなくばオマエの大切な人副会長がひどい目にあうぞ』

 もし、自分が出した脅迫状の文が一部変わっていれば、少なからず
 動揺を顔に出すだろう。
 あ、打ち間違えてた――――そう思うはずだ。
 手書きなら、誤字はあってもそういう間違いはしない。
 ただ、パソコンで制作した場合、一度書いた文字を消したつもりが
 消せずにそのまま残してたり、コピペミスをしたりした結果、
 全然違う言葉が混じってしまった文章が完成品となってしまう可能性がある。
 その点を考慮して、『オマエの大切な人』の後ろに『副会長』の文字を
 入れてもらった。
 さあ、動揺する奴はいるかな……?
「オマエの大切な人副会長……え? マジで?」
 まず声を発したのは、同じ書記の豊臣先輩。
「ちょっ、おい、藤沢! お前副会長と付き合ってたのかよ?」
 そして、次は会計の川島先輩。
 いずれも一つ上の男子だ。
 俺は彼らの声はひとまず耳に入れず、一人の女子――――三井さんを
 ずっと注視していた。
 変わった様子は――――全くない。
 三井さんは、大きめのメガネをかけた同級生だ。
 クラスメートでもある。
 役職である会計を川島先輩と二人で担当してる。
 主に各部活の部費の振り分けを行ったり、各委員会の申請を見て、
 例えば図書室の本を増やしたい、特別教室の花を取り替えたい
 などと言う要望に対し、予算を回せるかどうかの検討を行ったりしている。
 つまり、生徒が校内において行っている活動の大半は、彼女たちの判断が
 大きく影響してくるという訳だ。
 もしかしたら、その関係で、桐谷が生徒会長になった方が都合が良い部活や
 委員会の連中と繋がっているのかもしれない。
 でも、普段から規律に厳しいなど、基本的に三井さんは真面目だ。
 生徒会に入る女子は大抵そうなんだろうけど。
「おい、何黙ってんだよ。どうなんだよ、藤沢」
 俺の沈黙に訝しげな顔を見せる男二人を尻目に、俺はじっと三井さんの観察を続けた。
 やっぱり、変化はない。
 じっと手紙を見ている。
 俺の方は全然見ない。
 それが、少しおかしい。
 男連中が俺に何度も話しかけてる。
 この状況なら、俺に視線が集まる筈。
 でも、三井さんは俺を見ない。
 これは……んー、でも状況証拠としては弱過ぎる。
 俺に興味がないだけかもしれないし。
 ってか、そっちの可能性がかなり高い。
 余り話した事もないしな……同じ生徒会の一員なのに。
「おい!」
「あ、ああ、すいません。俺には何がなんだかサッパリわからないんですよ。
 何で俺の大切な人が副会長って名指しされたのか」
 流石にこれ以上反応を見るのは拙い。
 結局手掛かりは掴めないままになってしまった。
「つまり、誤解されたって事かよ。それなら内海の方がよっぽど
 誤解されそうなのにな」
「なあ。いつもくっついてんじゃん、お前ら」
「なななな、何を言ってるんですかっ! 私はそんないつもいつもせんぱいと
 一緒にいるわけではありませんよ!」
 男共に冷やかされ、内海が照れてる。
 いやあ、悪くないね。
 こんな甘酸っぱい青春的なエピソードが、俺の人生の中に刻まれるなんて。
 でも、出来ればこの時期以外で来て欲しかった。
 今はそれどころじゃない。
 犯人が特定出来ないと、困る。
「……」
 俺の今回の行動には、二つの意味がある。
 ひとつは、生徒会の中に犯人がいるかもしれないから、それを特定する為。
 でも、それより重要なのは――――犯人が本当にこの脅しを実行するという、
 万が一の可能性。
 ないとは思うけど、ゼロじゃない限りは棄てられない。
 だから、敢えて恥ずかしい思いをしつつも、東雲先輩の名前を借りた。
「藤沢君……」
 注意喚起の為に。
「まあ、誤解とは言っても、こう言う脅迫文章が届いている以上、警戒するに
 越した事はありませんから……暫く東雲先輩は一人では帰らないようにして下さい」
 流石に、俺が送っていきますとは言えない。
 理由は色々ある。
 下心を指摘されるだけならまだしも、それ目的で脅迫状をでっち上げたとか
 思われるかもしれない。
 そもそもそれ以前に、俺には時間を割く余裕がない。
 だから、注意喚起くらいしか出来ない。
 俺に出来る事なんて、そんなもんだ。
「ええ。ありがとうございます、藤沢君」
 東雲先輩は、健気にも笑ってそう答えてくれた。
 この人はいつも健気だった。
 決して自分にスポットライトが当たらない事を知っていても、
 あらゆる行事に対して真剣に考えていた。
 昨年、この御剣学園の文化祭は、過去最高の一般動員を記録した。
 校門の近くに、匂いの良い焼きそばや焼きとうもろこしの屋台を
 配置した事や、一般参加者も一緒になって参加出来るビンゴ大会の開催、
 景観を良くするために花壇全体をリニューアルした事が大きな要因だ。
 全部、東雲先輩の指示だった。
 高校の文化祭が、一般人の来場者を増やしたからといって、そう大々的に
 褒められる訳じゃない。
 でも、東雲先輩は最後までその為に尽力し、奔走していた。
 この学園を、多くの人に見て貰うために。
 多くの人に褒めて貰うために。
 東雲先輩は、ずっと健気にもそうやって頑張って来た人だ。
「にしても、インケンだよなあーっ。こっちが先生達に言い付けられないの
 わかってて書いたんだろうな。クソがっ」
 川島先輩が嘆く。
 そう。
 俺はこの件を教師には言えない。
 言えば、生徒会内の人間関係を根掘り葉掘り聞かれることになり、
 それが妙な噂を生みかねない。
 ま、元々教師に頼る気はないし、それは良いんだけど。
「……せんぱい」
 冷やかされていた内海が、不意に俺の方に視線を向ける。
 心配そうな顔だ。
「大丈夫だよ。お前は何も心配するな!」
「心配してしまいますよ。心配です。せんぱいも、東雲先輩も」
「私は大丈夫だから……ありがとう、内海ちゃん」
「はうー……」
 内海は東雲先輩に撫で撫でされていた。
 彼女達をいたずらに不安にさせた罪悪感が、少し胸の辺りを刺してくるけど――――
 こればかりは仕方がない。
 万が一、実行に移されるリスクを考えれば、黙ってる訳にはいかない。
 後は、俺が解決するしかない。
 でも、これ以上はどうすりゃいいのか……
「それじゃ、昼休みも終わるし、ここで解散って事にしますか」
 豊臣先輩がそう促す。
 仕方がない、確かにこれ以上ここで何が出来るわけでもない。
 俺は考えがまとまらない中、手紙を収容して教室へと戻った。


 そして――――翌日。
 選挙前日。
「うまうまー♪」
 目を覚ますと、ラミナがとろける様な顔で金平糖を頬張っている姿が映った。
「人の寝顔の前で食事するか? 普通」
「あーら、御免あそばせ? ああ、なんて至福の時……この偉大なお菓子を
 最初に考えた人には足向けて寝れない」
 涎でも出てきそうなんで、俺は直ぐに体を起こした。
 時刻は7時。
 普段より少し早めの起床だ。
 やっぱり、少なからず緊張感があるらしい。
 本番は明日だけど、今日も同じくらい重要だ。
「さて。腹ごしらえもした事だし、いよいよアンタを私の高等錬金術で
 絶望の淵にズゴォォォォンって感じで陥れる時がきたようね」
「口元、金平糖がついてる」
「わ、わざとよ! こういうイノセントなキャラ設定は妖精には必要なの!」
 よくわからないけど、そう言う事らしい。
「馴れ合いは昨日までよ。ちょっと手を貸したからって調子に乗ってる
 みたいだけど、私はアンタを不幸のどん底に蹴落としてその穴に
 ツバ吐きかける為にここにいるって事を思い知らせてやるから覚悟なさい!」
「わかった。俺も今日は全力で戦おう」
「……へ?」
「お互い悔いのないように……よし、覚悟を決めたよ。俺はお前を倒す。絶対にな。
 例え先に討たれてこの部屋が俺の血で染まっても、その血でお前の喉を浸して
 窒息死させる。それを飲み干されても、毒となってお前を滅ぼす!」
 俺は全身の筋肉を隆起させ、妖精を極限まで睨みつけた。
 ちなみにケンカの経験はない。
「ちょ、ちょーっと待った! タンマタンマ! ルックミー! こんなちっちゃいから!
 10倍近い体格の人間に本気出されたら私死ぬから! 謝るから! い、今までの
 いろんな事兎に角ゴメンなさーい! うえええええん!」
 ラミナは泣きながら拝むように謝辞を述べてきた。
 ……最初からこうすりゃ良かった。
「うええええん。やっぱりダメだ……もうダメだ……またダメだったあ……
 もうヤダあ……ひーん」
 しかし頭を抱える俺を尻目に、ラミナの涙は止まらない。
 そして、ポタッとベッドの上に落ちる。
「ど、どうしたんだよ? そんなに俺怖かったか?」
 前もなんかちょっと凄んだだけでインテリヤクザとか言われて
 ショックだったけど、俺は絶対そんな容姿じゃないぞ。
 あと筋肉も全然ない。
 何もそんな怖がらなくても。
「わ、私……妖精界でみんなからバ、バカにされてて……ひっく、お、
 お、落ちこぼれって言われてて……だから、くやしく……て……ひーん」
 俺の狼狽を他所に、ラミナはこっちの懸念と全く違う事を嗚咽混じりに
 話し始めた。
 人間界、なんて世界はないけど、人間には人間の領域があるように、
 妖精には妖精の領域があって、そこには妖精だけの文化や社会があるらしい。
 そこでは、錬金術が人間で言う所の勉強――――国語や数学、英語などと言った
 ものに該当して、その得手不得手がそのままステータスとなり、
 同時に将来の指標ともされるそうだ。
 当然、出来の悪いヤツは下に見られ、バカにされ、苦い思いをする。
 ラミナは、ずっとそんな環境で生きてきたと言う。
 そんな妖精にとって、人間へのイタズラはテストのようなものらしい。
 経過はどうあれ、或いは錬金術によるイタズラの質はどうあれ、
 結果を出せば褒められるし、一目置かれる。
 だから、妖精はイタズラをする。
 種族の嗜好というより、もうそう言うシステムが出来上がっているみたいだ。
「ひんっ……ひんっ……」
 ラミナは、30分くらいずっと泣いていた。
 出来損ないの、落ちこぼれ。
 それは社会や学校では、紛れもない弱者だ。
 弱者は虐げられる。
 自然界がそうであるように、
 植物や動物が本能でそうするように。
 人間も、そして妖精もそうするんだろう。
 俺も――――気持ちはわかる。
 一応、これでも生徒会長を目指す人間だ。
 成績は、まあ悪くはないと思う。
 ただ、中学時代はもっと上だった。
 学年でトップクラス。
 1位を取った事もあった。
 模試でも全国二桁順位を取った。
 周囲からは、東大だ京大だって騒がれたものだった。
 でも、実際に全国模試の成績でアテになるのは、高校の、それも
 本試験に近い時期くらいだと言う事を、当時俺は知らなかった。
 自分が簡単にエリートになれると本気で思ってた。
 高校に入って、一年の一学期までは、それでもどうにか意地を見せていた。
 でも、それ以降は――――クラスで上位、レベルで落ち着く事になった。
 如月先輩も、或いはそうだったのかもしれない。
 本気で良い大学を目指す人は、生徒会には入らない。
 勉強時間を活動に奪われるからだ。
 勿論、生徒会に入りながら東大や京大を目指す生徒もいるだろう。 
 でも、俺はその道から離脱した口だった。
 そして俺は何時しか、それを『生徒会に入ったから仕方ない』と
 自分に、周囲に言い訳していた。
 これも、立派な落ちこぼれだろう。
 じゃなきゃ、言い訳なんて必要ないはずだから。
「おい、妖精」
「ひっく……名前で呼べ、人間……」
「ラミナ。お前のイタズラってのはもう終わったのか? 今日は何もやって
 ねーみたいだけど」
 時計を見る。
 そろそろ登校時間だ。
 やる事は山ほどある。
 脅迫犯の特定も出来てない。
 でも、ま……良いか。
「やってみろよ。お前が落ちこぼれかどうか。まだ何も決まっちゃいないぞ」
「……え?」
「今までダメでも、最後にひっくり返せりゃ、それで成功だ。
 お前、自分の錬金術、最後まで俺に仕掛けたのかよ? そうでもないのに
 心が折れたからって諦めるのか? ま、俺にとっちゃその方がありがたいけどな」
 挑発的な言葉は、ラミナに少しくらいの反骨心を植えつけられただろうか。
 それはわからないけど、少しだけ羽音が聞こえた。
 妖精は、また飛んだ。
「……良い度胸ね。この私が追い詰められたらどんなスゴイ力を発揮するか、
 見せてやろーじゃない。私だってね、いつまでもオチコボレなんて
 言わせないんだから!」
 ぐしっ、と目を擦り、ラミナが部屋の中を舞う。
 妖精の錬金術は、極端な物々変換は出来ない。
 人を変化させる事も出来ない。
 その中で、イタズラとしての質を追求するのなら、愛用品を別の物に変えるのが
 一番手っ取り早いし効果的だ。
 実は、ラミナの方向性は決して間違ってなかった。
 こいつは運が悪かっただけだ。
 後は、愛用品のチョイス。
 人間が生活する中で、どんな物を毎日使ってるか。
 そして、用途は変わらなくても、それ自体が変わるだけで困る物は何なのか。
 ラミナは必死で、まだ変化させていない物の中から、それを探していた。
 嫌がらせなんだから、その行為は決して正しいもんじゃない。
 でも、俺はそれを非難できる立場になかった。
 寧ろ、心のどこかで――――ラミナを応援していた。
 誰かが一生懸命頑張っているその姿は、たまらなく愛おしい。
 それを軽んじたり、平気で踏みにじるヤツには、牙を剥いてでも闘いたい。
 この感情は、現代においては恥ずかしい事なんだろうか――――
「決めたっ」
 ラミナは、『ある物』を錬金術によって変化させた。
 成程、それか。
 それは確かにきついな。
 俺は本気で嫌な顔をした。
 ラミナは無邪気に、とても嬉しそうに舌を出して笑っていた。
 その日、初めて遅刻をした。
 小さくない損失。
 でも、後悔はない。
 悪くない気分だ。
 等価交換。
 この気持ちと、無遅刻での選挙戦。
 価値は同じくらいだろう、きっと。


 学校に着いて直ぐ、異変に気付いた。
 玄関付近に人だかりが出来ている。
 そこには――――桐谷の姿があった。
「皆さん、聞いてください。この学校の現在の予算は決して完全じゃありません。
 まだまだ改善できます。結果を残している部活に対して、軽視されている傾向が
 見受けられます。僕はその点を特に重要視したい!」
 演説だ。
 最終日、当然向こう陣営も力を入れている事だろう。
 俺は特に聞く必要もないその演説をスルーしようと、人混みに紛れるように
 自分のゲタ箱へ向かう。
 一瞬、桐谷の目が俺の方を捉え、ニヤッと笑ったのが見えたけど、気にしない。
 流石に今日は嫌がらせは何もなかった。
 あれが誰の仕業か――――もうそれを調べる時間もない。
 昨日のカマかけにも似たあの手紙の改ざんは、ある種の賭けだった。
 あれで判明しなかったって事は、もしかしたら生徒会とは無関係かもしれない。
 偶々俺のゲタ箱を眺めていた女子の誰かが、そのまま生徒会室へ行った。
 それだけの事かもしれない。
 もしかしたら、ラブレターを入れようとして、既に手紙が入ってたもんだから
 混乱と驚きの中で生徒会室へ向かった――――なんてオチかもしれないし。
 ……わかってるよ、冗談だよ、ないないうるせーな。
 兎に角だ。
 俺としては東雲先輩に迷惑さえ掛からなきゃ、誰が犯人でもこの際良い。
 これまでの嫌がらせも、今は不問。
 犯人探しなんてやってる暇はない。
 まずは、自分のアピールをする事だ。
「二年の皆さん! 藤沢ですっ! 藤沢洋が最後のお願いにやってまいりましたーっ!」
 と言う訳で、放課後。
 最後と言う事で、内海のウグイス声にも気合が入っている。
 その中で、俺は最後の演説を行った。
 俺のマニフェストは、シンプル。
 現状維持だ。
 勿論、それだけじゃダメなのはわかってる。
 幾ら安定を求める世の中でも、それだけじゃ目をひくことは出来ない。
 俺は、公約として『修学旅行の班決めの柔軟化』と『校内での携帯使用の自由化』を
 掲げていた。
 前者は、班の人数を固定せず、三人グループなら三人、四人グループなら四人
 って形で、最低人数と最高人数(予定では三〜六人)を決めるだけして、
 後はその中で自由に人数を決めて良いようにする、と言う案だ。
 これなら、仲良しグループに余り者が一人、って感じにはならず、仲良しグループ
 のみで形成され、友達が少ない生徒はその生徒同士で組みやすいようになる。
 後者は、キッパリ人気取りだ。
 勿論教師には掛け合うけど、別に案が通らなくても良い。
 期待させておいて実際ダメでした、じゃ政治の世界だと通らない話だけど、
 学校の生徒会なら問題はない。
 寧ろ、こう言うのはトライする事が重要だ。
「難しい案かもしれません! でも、色々とアプローチ方法を考えて
 交渉を行っていきます!」
 俺の言葉に、生徒達からは歓声があがる。
 携帯使用の自由化を望む生徒は当然多い。
 卑怯なのは承知の上だけど、こんなキャッチーなマニフェスト、
 効果がない筈がない。
 俺は生徒会長になる。
 意地でもなってやる。
「ご静聴、ありがとうございました!」
 そして――――最後の演説が終わって、俺は内海と共に生徒会室に戻った。
 これで、校内でやる事は全部やった。
 後は、明日。
 最終演説を行って、投票を待つのみだ。
「せんぱい、ご苦労様でした!」 
 内海がグレープフルーツ味の清涼飲料水を持ってきてくれる。
 俺の好みは把握済み。
 頼りない部分もあるけど、とても有能なヤツだ。
 将来、秘書にでもなると良い。
「きっと明日、先輩は勝ちます!」
「ありがとな。そう行って貰えると、やる気出てくるよ」
「はいっ! それに、幸運は私達の元にあると思うんですよ。こう言う事言うと
 変なヤツって思われるかもしれないですけど、昨日、変わったものを見たんです。
 あれはきっと、幸運の証ですよ」
「変わったもの?」
「妖精さんです!」
 ……あー、そう言えば昨日は一般人にも見える日だったか。
「う、疑っておられですか?」
「いや。信じるよ。内海が見たって言うのなら、きっと俺に幸運を運んで来た
 妖精だったんだろう」
 実際は不幸を運んで来たヤツなんだけど……
「せんぱい……優しいですね。いつもせんぱいは私に優しいです」
「そうか? お前こそ、俺に優しくしてくれるだろ?」
「そ、それは……そうでしょうか」
 俯き気味に、内海はテレテレで答える。
 愛いヤツだ。
「で、では、私はこれにて失礼します! 明日、せんぱいを会長って呼ぶのを
 楽しみにしてますねっ!」
「ああ。最初に呼んでくれよ」
 はいっ、と力強く返事をして、内海は生徒会室を出た。
 俺が生徒会長になれなくても、あいつはここで明るいキャラクターを武器に
 親しまれていくだろう。
 でも、出来れば呼ばれたいもんだ。
 会長、と。
「……」
 一人、窓の外を眺める。
 この景色も、もう見慣れたもんだ。
 ここまで来ると、てっぺんを取りたいとか、勝負に勝ちたいとか、桐谷の野郎を
 負かせてやりたいとか、そう言う気持ちは薄れてくる。
 それらも大事なモチベーションだった筈だけど。
 今はただ、一生懸命俺をサポートしてくれた内海や、決起集会まで開いて
 俺に期待してくれている東雲先輩の期待に応えたい――――それだけだ。
 成績が良い、テストで1位を取った、そんな理由で中学時代の教師は俺に期待を寄せた。
 その期待には、応えられなかった。
 俺は、数ある生徒の中の、数ある平凡な卒業生になった。
 或いは――――それを見返したいという気持ちも、昨日まであったのかもしれない。
 でも、今は違う。
 本当に期待されるって言うのは、今みたいな事を言うんだ。
 この学校の過半数の生徒に必要とされているかどうかはわからないけど、
 少なくとも二人、俺に期待してくれている人達がいる。
 負けられない。
 そして、負けられない理由はもう一つある。
 本来、生徒会長は一年間以上生徒会で活動をした人が立候補をする。
 それが普通だ。
 でも、この学校では非生徒会の生徒にも立候補権が与えられている。
 公平性を保つ為だ。
 もし、桐谷が生徒会外からの当選を果たした場合、これまでの通例が
 通用しなくなる。
 この学校では、生徒会長のみが選挙で選ばれ、他の役職は生徒全体に
 信任を取らず、生徒会長が役員を決める事が出来る。
 だから、これまでなら、生徒会で活動していた一年は、そのまま次の年度も
 生徒会に残る事が出来た。
 頑張って来た姿をずっと見てきた新生徒会長が、その仲間を不信任に
 するなんて事は、常識的に考えてあり得ない。
 まして、既に生徒会での仕事、或いは人間関係と言ったものも固まってる中で、
 わざわざそれを壊す必要はない。
 でも、今回はその保証はない。
 桐谷がもし、自分の腰巾着だけで生徒会を固めようとするなら――――
 一年の内海は、そこから弾かれる可能性が高い。
 俺がどうしても生徒会長にならなくちゃならない理由の一つ。
 それを防ぐ為だ。
「……?」
 不意に、窓の外に何かが映った。
 鳥?
 いや、違う。
 それは、蝶々の羽。
 妖精だ。
 内海は幸運を運んでくる妖精、って言ってたっけ。
 俺は苦笑しながら窓を開けた。
「なーに黄昏ちゃってるのよ。まだ選挙は終わってないんでしょ?」
「まあな。お前こそ、一つイタズラが成功したからっていい気になってんなよ?」
 ラミナは、誇らしげに笑う。
 ったく、泣いた烏がもう笑う、だ。
 結局こいつ、誰に召喚されて俺に嫌がらせを始めたんだろう。
 でも、もうそれもどうでも良い事か。
 泣いても笑っても、明日全てが決まるんだし……
「藤沢君」
 突然、後ろから声。
 俺は慌てて振り向く。
 幸い、ラミナに話しかけてる最中じゃなかったから良かったものの、
 最悪独り言をブツブツ言ってる危ない人と思われかねなかった。
 東雲先輩に。
「お疲れ様でした。演説、評判良かったですよ」
「そ、そうですか? それなら嬉しいんですけど」
「明日も、同じ調子で……気負わずに、いつもの藤沢君で頑張って下さい」
 それだけを言って――――東雲先輩は、直ぐに踵を返した。
「あの、何か生徒会室に用があって来たんじゃ」
「いえ。もう用件は終わりました」
 激励。
 その為だけに来てくれた、ってのか。
 感激だ。
「あ。それと、もう一つ」
 クルッと振り返り、東雲先輩は少しはにかみながら、俺の方を見た。
「折角ここまで頑張って来たんですから、報われたって良いと思いますよ」
 それは――――少し変わってはいたけど、初めてあった日の最後に
 俺へ向けて贈ってくれた言葉と殆ど同じ、祝福の言葉。
 ああ、覚えていてくれたんだ。
 これだけで、俺は本当に報われた気がした。
「今の人、生徒会の人なの?」
「あ、ああ。副会長だ」
 感動に震える俺に、ラミナが近付いてくる。
 冷やかされるかとも思ったけど、その顔は寧ろ、怪訝そうな表情をしていた。
「なんだ、俺に嫌がらせするって息巻いてた割には、俺の周辺のことは
 あんまり調べてなかったんだな」
「仕方ないじゃない。依頼主の事はあんまり調べないように言われてるんだから」
 妖精の世界ってのも、色々気遣いとかあるんだな。
 大変だ。
 ……?
「――――あ」
 ラミナは。
 明らかに失言をしてしまったと言う顔で、俺の方に丸い目を向けていた。
 それが、この全てが『演技じゃない』って事を証明していた。
 こいつにそんな器用さはない。
 たかが数日の付き合い。
 それでも、おはようからおやすみまで共にしていると、わかってくる事がある。
 この妖精に、そんな器用な演技は出来ない。
 リアリティを生む為、ついうっかり口を滑らせたように見せかける――――
 そんな嘘は、吐けない。
 だから、本当なんだろう。
 妖精に俺が不幸になるよう願ったのは、東雲先輩なんだろう。
「……」
 ラミナは、何も言わなかった。
 俺も、聞き返せなかった。
 こうして、選挙前日は静かに、ただ静かに過ぎて行った。

 

 その日は、特別な日だった。
 生徒会長になると決めてからずっと、この日を夢見ていた。
 でも、いざ当日となった今日――――俺は、ただ漫然と過ごしていた。
 本来なら集大成となる筈の立会演説会も、散々見直して何度も書き換えてきた
 原稿を、魂も何もなく、ただ淡々と読み進めるだけだった。
 そして――――投票が終わり、桐谷正也の名前が呼ばれ、体育館中が歓迎の
 拍手で包まれた時も、俺は静かにその現実を受け止めていた。
 選挙は桐谷の勝利で幕を閉じた。
 この御剣学園において、生徒会に所属していない生徒が生徒会長となったのは
 史上初の事だ、と言うアナウンスが、教師からなされていた。
 俺は、負けた。
 ただ負けただけじゃない。
 票数こそ公には明かされなかったけど、かなりの差が付いていたらしい。
 放課後、それを有働から聞かされた時も、余りその実感が湧かなかった。
 あれだけ熱望して、あれだけ頑張って、あれだけ必勝を期した俺の選挙戦は、
 本当に呆気なく、静かに終わってしまった。
「ま、仕方ないだろうね。桐谷のマニフェストは殆ど実現不可能って感じの
 ものだけど、理事長が親戚にいるってのは大きい。『もしかしたら』があるからね。
 それと比較すると、君の案は非現実的だし、中途半端だったかもしれない」
「……だな」
 有働の敗因分析を、壁に寄り掛かりながら聞く。
 放課後、既に教室には誰もいない。
 まるでクラスメートからも、学校の生徒全員からも見放されたような気分で、
 俺はさっき買ったばかりのサンドイッチとジュースを手に、ただ壁に寄り掛かっていた。
 昼食も食べてない。
「でも、他にやりようはなかったと思うよ。君の立場でやれる事は全部
 やったんじゃない? 君に力を貸した人達も納得してるさ」
「……」
 それは、俺にはわからない。
 少なくとも、東雲先輩は……そうかもしれないけど。
 俺の不幸を祈ったのだとしたら、俺が敗れたこの結果を喜んでいる筈。
 俺が負けて、納得していない訳がない。
 そう言う理屈になる。
「短い付き合いだったけど、君の選挙戦は傍で見ていて楽しかったよ。
 余り落ち込まなくて良いさ。十分やったよ」
「ありがとう。約束のクラブハウスサンドは明日どうにか手に入れるよ」
「え? それ、違ったのかよ」
「?」
 有働の視線の先には、さっき俺が買ったサンドイッチがある――――筈だった。
「あれ……これって」
 プレミアムクラブサンド。
 そして、ミルク抹茶オレ。
 何故か、それ等が俺の手の中にあった。
「……いや、これだ。うっかり忘れてた。ほれ」
「あんま思い詰めるなよ。はい、確かに」
 俺がまだ動揺してる、と思ったんだろう。
 有働は慰めの言葉を残して、報酬を受け取り、手を上げて教室から出て行った。
 こんどこそ一人。
 本当は、生徒会室へ行かなくちゃならない。
 選挙結果の報告を行う必要がある。
 現在の生徒会長は、依然として如月先輩。
 桐谷が生徒会長になるのはもう少し先だ。
 一月後、任命式と引継式が行われ、そこで旧生徒会と新生徒会が引継を行う。
 それまでは、俺もまだ生徒会の一員でなくちゃならない。
 ただ、俺に居場所がないのは明白。
 来年、桐谷が俺を信任するか不信任とするかはわからないけど、いずれにしても
 敗戦の将がその場にいて良い筈がない。
 恐らく、生徒会のスタッフは全員、奴の取り巻きで固められるだろう。
 内海――――あいつも、捨てられるかもしれない。
「やあ、こんな所にいたんだね」
 教室で一人佇んでいた俺に、勝者が声を掛けてきた。
 恐らく、敗者を探していたんだろう。
 如月と言う男は、そう言う性格だ。
「君には本当に済まないと思ってるよ。でも、選挙にはどうしても勝者と敗者が
 出てしまう。偶々勝者は僕になったけど、良い選挙だった。マニフェストをこれだけ
 ぶつけ合った選挙は初めてだってと、校長先生も仰っていた。君と正々堂々戦えた事は、
 僕の誇りだ」
 嬉しそうに、そして心から愉快そうに、桐谷は捲くし立てた。
 俺は何も言い返せない。
 勝者の言葉を、敗者は覆す事が出来ない。
「一ヶ月後、僕は生徒会長の最初の仕事として、生徒会役員の選出及び信任不信任案の
 提出を行う事になるけど、当然君には残って貰う。同じ役職が良いよね。
 僕の下で一年、僕の為に頑張ってくれ」
 その申し出は、決して意外じゃなかった。
 寧ろ、そう言うだろうと思っていた。
 針のむしろ。
 その中で、優越感に浸るこの男に命令を受け続ける事になる。
 でも、それを回避する方法はある。
 辞めれば良い。
 もし生徒全員に信任を取るタイプの生徒会なら、それは難しい。
 でもこの学校における生徒会の人事権は、生徒会長が持っている。
 今の生徒会長――――如月先輩にそれを認められれば、辞める事は可能だ。
「……一つ、頼みがある」
 でも、俺はその選択肢を消して、桐谷に頭を下げた。
 悔しい。
 苦しい。
 こんな奴に、こんな……こんな、これまでの生徒会を、俺らの生徒会を
 乗っ取った奴に頭を下げるなんて。
「一年の内海も、置いてやって欲しい」
 でも、必要だ。
 俺にはその責任がある。
 俺がこの男に負けた所為で、折角希望を持って入った生徒会を追い出されるなんて、
 そんなのは内海に申し訳がない。
「……それはちょっと、わきまえてないね。人事は生徒会長の僕にしか
 権利がないんだよ?」
「だから、頭を下げてる」
「そう言う事じゃない。僕が言っている事は、そう言う事じゃないんだよ。
 藤沢君、君が最初に僕と目が合った日の事、僕はまだ覚えてるよ。僕の立候補を受けて
 君が正式に立候補を表明した日だ。君は僕に、どんな目つきをしていたか……
 覚えてるかな?」
 わかってる。
 言いたい事はわかってる。
 忠誠を誓えと。
 あの時の敵意を捨てて、負け犬の目になれと。
 そう言いたいんだろう。
 良いさ。
 確かに俺は負け犬だ。
 こんなプライド、くれてやる。
「お願いします。内海を……残してやって下さい」
「悪くはないね。でも、もう少しちゃんとしようか。日本人がお願いをする時の……
 ほら、良く下らない三流バラエティでのお約束さ。君はテレビは見ないかい?」
 ……そこまでさせるか。
 土下座。
 俺はそれをした時、冷静でいられるだろうか。
 正気でいられるだろうか。
 でも、やらなきゃならない。
 それが、生徒会長として立候補した俺に全力でサポートしてくれた内海への
 責任であり、それを守る事が俺の誇りだ。
 やってやる……!
「桐谷君……」
 意を決した俺の耳に、今一番入れたくなかった声が、それでも自然に、染み入るように
 入って来た。
 俺はこの声を聞く度に、その日の幸運を喜んでいた気がする。
 東雲先輩――――
「なんだ、お前か。待ってろって言ってた筈だろ?」
 そんな先輩に対して、桐谷は『お前』と言う言葉を使った。
 一つ上の学年に対して。
 それが何を意味するか――――わかりたくもなかった。
「会長……如月君が呼んでいます。至急、来るようにと」
「……わかったよ。次期生徒会長も辛いな。忙しくて困る」
 わざとらしく頭を抱え、そして俺の方を一瞥して、桐谷は教室を出て行った。
 俺の視界に入ってるのは、俺の足と床。
 まともに東雲先輩の顔を見る事が出来ない。
 前に思った事――――この人が裏切ったのなら仕方がないと納得出来る
 って言う綺麗事が、不意に頭を過ぎった。
 やっぱり綺麗事だったみたいだ。
 いざ、それが現実のものになると、感情が抑えられない。
 叫びたい。
 今この教室にある机や椅子を全部、窓ガラスに投げつけて粉々にしてやりたい。
 そんな衝動が、直ぐそこまで来ていた。
「……いつから?」
 俺は、臆病者だ。
 それでも、その衝動を解き放つ事も、押し殺す事も出来ず、女々しくそんな事を口にした。
 いつから――――桐谷と繋がっていたのか。
「ごめんなさい……」
 でも、東雲先輩は答えてはくれなかった。
 どうして、妖精に俺の不幸を要請したのか。
 どうして、生徒会の敵とも言える桐谷と繋がっているのか
 どうして、それなのに俺に優しくしてくれたのか。
 正直、どれも想像に難くない。
 そして、それを東雲先輩の口から聞く事も――――いたたまれない。
 だから俺はそれ以上何も聞く事が出来ず、東雲先輩が何も言わずに去っていくまで、
 ずっと黙ったままでいた。
 

 その後。
 俺は、生徒会の面々に選挙の結果を告げ、苦笑を浮かべながら頭を下げた。
 その場に、内海はいなかった。
 ショックだったんだろう。
 俺も、顔を合わせてなんて言っていいかわからなかったから、良かったのかもしれない。
 東雲先輩は――――その場にいた。
 副会長として、俺の謝罪を聞き、そして静かに一つ頷いた。
「仕方ねーよ、な」
「ああ。お前は良くやったよ」
 豊臣先輩と川島先輩は、余り失望の色は見せず、俺に気を使ってか笑顔も見せていた。
 一方、三井さんは特に何も語らず。
 彼女も、もしかしたら追い出されるかもしれない。 
 悪い事をした。
「……力及ばず、申し訳ない」
 俺は、気の利く言葉も思い浮かばず、道化を演じる余裕もなく、ただそう
 謝るしかなかった。
 そして、一人、また一人と生徒会室を後にする。
 最後に、俺と東雲先輩だけが残った。
 もう、話す事はない。
「それじゃ、失礼します」
 俺は先輩より一足先に、部室を――――
「……あ」
 出ようとした刹那、袖に突っ張った感触が生まれ、足が止まる。
 東雲先輩は動いていない。
 でも、凄く驚いた顔をしていた。
 袖を引っ張ったのは、ラミナだった。
「本当は、ダメなんだけど……」
 そう言って、妖精は踵を返す。 
 視線の先には、東雲先輩。
「今回の要請、破棄させて貰います。だから、金平糖は……もういいです」
 一瞬、俺はラミナが何を言っているか、わからなかった。
 だってこいつは、立派に勤めを果たした。
 俺は不幸になったし、イタズラも成功した。
 だから、もう要請は無事果たされたんだ。
 後は、その成果を手に、スウェーデンに帰るだけ。
 それなのに、今更破棄してどうなるんだ?
「だから、本当の事……言うね。私、シノちゃんの事、副会長だって知ってた。
 他の事も、いろんな事知ってる。ずっと、もう何ヶ月もずっと、
 傍にいたから」
「……何?」
 どう言う事か、理解するのに暫し時間が掛かった。
 確か昨日、ラミナは東雲先輩が副会長だって事を知らない風に話してた。
 それが嘘と言う事らしい。
 そりゃ、そうだろう。
 依頼主の事はちゃんと調べる。
 当たり前の事じゃないか。
 その嘘に何の意味があるんだ?
「……そう、だったんだ」
 でも、俺は間違っていた。
 ラミナは、俺に言ったんじゃない。
 東雲先輩に言ったんだ。
 東雲先輩に、『貴女の事は余り調べない』って言う嘘を吐いてたんだ。
 きっと、妖精界ではそう言う決まりなんだろう。
 それもまた、イタズラなのかもしれない。
「だから、シノちゃんの事は良く知ってるよ。どうして、私に不幸要請したのかも」
 ラミナは、静かに語り出した。
 どうして自分に要請が来たのか。
 それは、とても切実な、そして悲しい事実だった。
 東雲先輩は、桐谷に協力しなければならない理由があった。
 桐谷とこの学校の理事長は親族関係にある。
 理事長にしてみれば、血縁関係のある親族が生徒会長になると言うのは、
 一つの誇りであり、好ましい事。
 それは誰でもわかる。
 当人が言っても言わなくても。
 当然、理事長に気に入られたい教師達は、この学校の生徒会長に誰が
 相応しいか、理解する。
 そして、教師達としばしば対面する、生徒会における頭脳の役割を
 果たしていた副会長に――――その旨が伝えられた。
「そう言う、事か」
 なんの事はない。
 この選挙は、最初からデキレースだったんだ。
 教師達の介入による。
「……私が、悪いんです。全部私が」
 でも、東雲先輩は、この世のすべての悲しみを背負ったような顔で、そう漏らした。
「私が断らなくちゃ、いけなかったんです。私が守らなきゃいけなかったんです。
 教師の生徒会への介入は、認められていません。私は、そう主張しなくちゃ……」
 そして、蹲る。
 無論責められる訳もない。
 副会長と言えば聞こえはいいけど、所詮は一介の生徒。
 教師に楯突けば、内申に響く。
 いや、東雲先輩はきっと、そんな事は考えてなかっただろう。
 きっと――――俺や内海、他の生徒会の面々に圧力が飛び火する事を恐れたんだ。
 俺は納得した。
 すんなり受け入れられた。
 俺が今まで見てきた東雲先輩の性格と、ラミナの話した事は、ピッタリ一致する。
 気持ちがいい。
 清々しい。
 選挙に負けて、生徒会長になれなかったけど。
 俺の心は晴れ渡っていた。
 でも、気になる事がある。 
 俺はラミナに視線を向けた。
 その顔は、鏡のように、俺と良く似た表情だった。
 何処か清々しく。
 そして、舌を出して口角を上げる。
「お前、いいのか? 契約破棄して、スウェーデンに帰って怒られないのか?」
「へっへー、実はスウェーデン出身ってのは嘘なんだよねー」
 何っ!
 それに関してはぶっちゃけ騙された!
「私達妖精はね、いつも貴方達人間の傍にいるから。見えてないだけで、
 いつも近くで飛んでるんだから」
 ラミナは、その言葉と共に――――少しずつ、空気に溶け始めた。
 正確には、俺にはそう見えた。
 もう時間だ。
 要請を破棄した妖精は、見えなくなる。
 帰るんじゃなく、認識出来なくなるんだ。
 そこにいたとしても。
「……もう、見えなくなるのか?」
 俺は少し情けない声で、ラミナに呼びかける。
 東雲先輩の真実を知った安堵感は、今は何処かに消えていた。
 たった三日間。
 ほんの三日間だけ一緒に過ごした妖精。
 今は、その別れが惜しい。
 だって……楽しかったから。
 口の悪いこいつの言葉はいつでも、一生懸命で。
 俺はそんな姿を見ているのが、楽しかった。
 愛おしかった。
「ま、私と会いたかったら誰かの不幸を願うか、誰かに不幸を願われる事ね。
 って言っても、多分担当は私じゃなくなると思うけど」
 言葉の後半、薄れ行くラミナの顔に陰りが見えた。
 結果的に、今回もラミナは失敗した事になる。
 落第。
 オチコボレ。
 その評価を覆す事は、出来なかった。
 だから、居場所をなくすのかもしれない。
 俺に真実を伝える為に。
 俺を立ち直らせる為に――――
「待てよ! 勝手に消えんな! ってか、勝手に破棄すんなよ。
 言っとくけどな、俺はお前に言われる前から全部お見通しだったんだよ。
 なーに『私の語る真実に驚け』みたいな事言って一人しんみりしてんだ。
 お前の要請破棄なんか、受理される訳ないだろ! だろ、東雲先輩!」
 苦しい。
 本当に苦しい言い訳。 
 誰に対してかと言えば、ここにはいない、いても見えないラミナの上司とか
 教師とか、そう言う存在。
 それでも、どうか聞き入れろ。
 こいつは俺に色んなイタズラを仕掛けて、そして今朝それは実を結んだ。
 だから――――
「ああもう! 勝手に周囲がバタバタしやがって! 俺はなんて不幸なんだーーーーーっ!」
 叫ぶ。
 心の限り。
 確か、これが契約満了の証だっただろ?
「バーカ。今更遅いって」
 でも、ラミナは喜ぶ事なく。
「おい、待てよ! まだ話は終わってないぞ!」
 それでも、笑顔で。
「……ありがと。この三日間、楽しかった」
 悲しいほど、クシャクシャな笑顔で。
「さよなら……せんぱい」
 確かにそう言って。
 俺の目の中から――――消えた。 
 


 生徒会長選挙が終わり、俺の周囲には日常が帰ってきた。
 折り畳み式のパイプベッドの上で朝起きると同時に、目覚まし時計を止める。
 ノートパソコンを開いて、ニュースサイトを眺める。
 薄い青の絨毯を踏みしめ、洗面所へ向かい、愛用の歯ブラシで歯を磨く。
 毎日、この繰り返し。
 それもまた、一つの積み重ねだ。
「兄貴。人面蝶が見つからない」
 歯磨き中、妹が背後から話しかけてくる。
 当然、言葉を発する事は出来ない。
 まあ、出来たところでなんて答えりゃいいのかもわからないけど……
「そう言えば、選挙、負けたんだってね」
 うぐ。
 これはまた、特上の中傷を受けてしまいそうだ。
『無様なものね。所詮は下民なのに調子に乗るからよ』
 くらいならいいけど、こいつがこの程度で済ますとは思えない――――
「五年後、仇は討ってやる」
 ……ん?
 耳が悪くなったのか、妙な言葉が聞こえて来た。
 思わず振り向いたら、もうそこに妹の姿はなかった。
 苦笑しつつ、自室へ戻る。
 そこは、いつもの部屋。
 もう何年も暮らしている部屋。 
 そこにある品々も、全て愛用品。
 使い慣れた物ばかりだ。
「……」
 その中で、俺は一つ、違う物を拾う。
 使用感は十分あるけど、見慣れた物じゃない。
 奇妙なその矛盾が、確かにあいつがここにいた事を物語ってくれる。
 それは、とても大切な物だった。
 俺にとってはかけがえのない物。
 これに目をつけたあいつの判断は、褒めざるを得ない。
 このイタズラは堪えた。
 参ったよ。
 でも、あいつがやったのは、等価交換。
 価値に変化はない。
 そう。
 これも、変化前の物も、俺の中では同じくらい価値のある物だ。
 今は何の躊躇いもなく、そう思う。
「洋! 後輩の女の子が来てるわよーっ!」
 オフクロの声が聞こえて来る。
 俺は苦笑しながら、それに応えて、もう一度手の中の物を眺める。
 それは、写真立て。
 そこには、生徒会就任式の集合写真が入っている。
 俺の隣には、東雲先輩。
 ――――それが、昨日の朝までの風景だった。
「早くしなさい! こんな可愛い子を待たせるなんて母さん許しませんからね!」
「うるさいな! わかってるよ!」
 大声で返事し、俺は慌てて制服に着替え、鞄を抱え、部屋を後にした。
 ……あ。
 写真立て、床に放ったままだ。
「おい、いるんだろ? 写真、元に戻しといてくれよ」
 誰もいない廊下で、俺は懇願する。
 そして、その発言に誤解が生じるかもしれない事を配慮し、言い直した。
「戻すってのは、前の状態の写真に戻すって意味じゃないぞ。
 机の上に置いておいてくれ、って意味だ。聞こえてるか? ラミナ!
 そうだよ、お前に言ってんだよ。お前の映ってる写真なんだから他人事じゃないだろ!」

 


 日常と、非日常。

 その隔たりが見えなくても。

 いつだって交換しよう。

 きっと、価値は同じだから――――







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