雨は静かに街を包んだ。
雨粒が木々を梳き、標識を叩き、瓦をなぞり、そして――――土と混凝土を浸して行く。
その光景を窓から眺めて、俺はただ静かに目を擦った。
雨の日は、少し昔を思い出す。
初めて東雲先輩と話をした日も、雨だった。
あの日――――俺は傘を持って来なかった。
雨が降ったのは、5時間目が始まる直前だった。
1時間降水量25mm。
日本の歴代最高が153mmらしいから、それと比べれば大した事はない。
ただ、降水量と雨の強さの関係で言うと、20mmを越えると土砂降りと言っていい
くらいだそうで、実際その日の午後は空が割れたように雷が鳴っていた。
放課後になっても、その勢いは衰えず。
俺は玄関前で、数人の同じ境遇の生徒と一緒に暫く外を眺めていた。
傘を差しても、10分も歩けばズブ濡れになりそうな雨足。
それなら、学校の玄関なんかでじっとしてるより、覚悟を決めて飛び出して、
家でシャワーを浴びて着替えた方がずっと有意義かもしれない。
実際、一人、また一人と、雨の中に生徒が飛び込んでいく。
そして、気が付けば一人になっていた。
どれくらい、そこにいたのか。
俺は、待つのが嫌いじゃなかった。
だから、止むのをずっと待っていた。
その結果――――少しだけ雨は弱まった。
勿論、濡れて帰ると言う結果に変化はなかったし、時間を無駄に浪費したと
言われても反論の使用はなかったけど、俺はなんとなくちょっとした満足感を得ていた。
待った結果、変化が現れた。
何も変わらないよりはマシだ。
その結果を見届けて、ようやく飛び出そうとしたその時。
「良かったら、これを使って下さい」
聞き覚えのない声が、雨音にかき消される寸前の音量で、俺の耳に届いた。
生徒会副会長、東雲紫苑。
でも俺は、その時はまだ彼女が何者かは知らない。
年上とも知らない。
見知らぬ女子が話しかけてきた事に驚いただけだった。
「や、大丈夫……です」
ネクタイの色で上級生だと知り、慌てて丁寧の欠片を引っ付けた。
そんな俺の小さな動揺がおかしかったのか、それとも笑顔を作る事で警戒心を
弱めようと思ったのかは定かじゃないが、その時東雲先輩はクスリと笑った。
そして――――
「折角最後まで待っていたんですから、報われたって良いと思いますよ」
何処か楽しげに、そう言葉を紡いでいた。
それが、初めて東雲先輩と話した日の出来事。
それから生徒会に入会するまでに、そう時間はかからなかった。
ただ、それはその出来事とは直結しない。
俺が入会した大きな理由は、単に担任から薦められたから、と言うだけの事。
強く断る材料もなかったから、話の中ではぐらかす前に半ば強引に決められてしまった。
傘を貸して貰った事にそこまで恩義は感じてなかったし、生徒会の仕事に
興味があった訳でもなかったし、ましてあの一件で東雲先輩に恋した、なんて
事もなかったんだけど、今にして思えば――――あの人がいたから断らなかった
って言うのも、あったのかもしれない。
その後は、生徒会ってのが意外と面倒なボランティア活動が多いところなんだって事を
知りつつ、ひたすら自分の役割をこなしていた。
適度にゆったりしながら。
その中で、俺は東雲先輩の背中を、気付けば視線に入れていた。
その行動を目で追っていた。
追いかける事はなく、ただ見ているだけ。
彼女は本当に、優秀だった。
スピーチの文は、聞く相手の年齢をしっかり考慮して、言葉をチョイスしていた。
話し合いの場ではいつも、停滞した流れを断ち切り、こじれた話を解きほぐし、
浮ついた空気を汚す事なく張り詰めさせた。
俺以外の生徒会役員も、彼女のそんな縁の下からの支援力はちゃんとわかってた筈。
副会長と言う、生徒会長を支える立場として、東雲先輩は最大限の努力をしていた。
俺には、あんな事は出来ない。
だから俺が狙うのは、生徒会長。
きっかけは、実は内海の何気ない一言だった。
生徒会長の如月先輩が引退後の事を語っていた席で、あいつが俺の方を見て、
拳をグッと握って言った言葉。
「次の生徒会長は、せんぱいが良いと思います!」
勿論、冗談だと思った。
だから俺は、折角後輩が頑張って作った朗らかな空気を壊さないよう、一生懸命
生徒会長としての自分を想像して、理想を語った。
冗談に乗っかった――――ただそれだけの事。
気付けば、正式な候補者になっていた。
いつだって、そう言う流れで大事な事が決まっていく。
でも、実際にそうなった後は、ただ流されるだけじゃない。
今はただ、自分を支援してくれる人達の為に結果を出したい。
成果を皆で祝いたい。
それだけだ。
選挙戦まで後二日。
後二回寝たその次の日、全てが決まる。
笑うか。
沈むか。
勿論、笑う未来しか想像しない。
俺にはその責任がある――――
「ぴギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
雨音を蹂躙するかのような悲鳴が、決意を新たにした俺の後ろから上がった。
廊下からだ。
そして直ぐに、俺の部屋の扉の少し開いた隙間から、ラミナが飛び込んで来る。
昨日、出入りの為にちょっとだけ開けとけと言われてたんだ。
「やっかましいなあっ! 折角シリアス決め込んで、これからやる悪行三昧を
ちょっとでも正当化しようって時に、邪魔すんじゃねーよっ!」
「言ってる意味全然わかんないから! それより妹! アンタの妹!
私、アンタの妹に見られた!」
「何ィ? 一般人にゃ見えないんじゃなかったのかよ……あ、雨か」
昨日、そんな事言ってた気がする。
つまり、今日の妖精は少なくとも妹には見えるらしい。
「にしても、見られたくらいで大げさな……」
「兄貴」
「うどわっ!?」
ドアの前のラミナ相手に話してたところで、突如視界に妹の顔が現れる。
朝っぱらから心臓に悪い奴だ……
「私の部屋にデカイ人面蝶がいた」
「き、気の所為だろ」
「捕まえてベヘリットにしたい」
「いや、出来ないから止めとけって」
ちなみに、ベヘリットっていうのは漫画『ベルセルク』に登場する
アクセサリーっぽい重要アイテムで、タマゴみたいな形の物に
目とか鼻と口とかがテキトーにくっついた感じのモンだ。
小学生女子がベルセルクを読んでるってのも、どうかと思うんだけど。
「じゃあ、程よく溶かしてゲル状にしたい」
「いや、溶かすと臭そうだから止めとけって」
「指図するなヘド兄貴」
ヘド呼ばわりされた俺が呆然とする中、妹はつったかたーと
人面蝶を探しにいった。
ちなみに、その人面蝶は俺の真後ろに張り付いている。
ゼーハーと息を乱して。
「ア、アンタの妹、悪魔の申し子?」
「かも知れないなあ。ヘドって普通、人の事指す言葉に使うか?」
大分歳が離れてる兄妹って、結構仲良くなる事が多いって言われてるんだけど。
あいつはどうも、俺を煙たがってる感がある。
「にしても、妹に見えるって事は、他の連中にも見える可能性が高いってことだよな」
「そうかもね……ハァ、何で妖精がゲルにされる心配しなくちゃなんないんだか……」
ラミナは腕二本をダランと下げ、脱力していた。
流石の毒舌妖精も、ウチの毒舌魔王には手も足も出ないらしい。
「で、今日の俺への嫌がらせは?」
「フフン。普通ならここで『もう何か疲れたし、今日はいーわ』とか言って
なあなあな関係を築いていく予定調和が待ってるところだけど、私ゃそんなに
甘くないのよ。今日は特別企画、三本立てで行くから覚悟なさい!」
ビシィ〜〜〜〜〜ッ! と指をさしてくるが、小さくて余り映えない。
「どうやら昨日の馴れ合いがアンタの中に私の存在を軽んじる原因を作ったみたいだけど、
それもここまでよ。この錬金術の本当の恐ろしさを味わってもらいましょ。
さあ、まずは一本目!」
朝っぱらから元気な妖精は、くるくる回りながら部屋を物色し、
ベッドの上にある枕にボフッ、っと突っ込んだ。
「この枕……昨日はあえて見逃してやったけど、今日は容赦なく練成してあげる。
フフッ、使い慣れた枕が別物に変わると眠れないって人は多いらしいから、
今日からアンタは毎日が睡眠睡眠睡眠睡眠睡眠不足よ!」
「睡眠睡眠うるせーよブタゴリラ」
「100歩譲ってコロ助でしょーがよ! 何でジャイアンポジションなのよ私が!
へーん、強がってられるのも今だけよ。愛用の枕がこの世からなくなるのが
どれだけ辛いか、思い知りなさい!」
ラミナは、錬金術を施行した。
俺の枕は標準サイズ(43cm×63cm)のごく普通のもの。
中にはポリエステル綿が入ってる。
まあ、安物だ。
思い入れもない。
つい最近買ったばっかだしな。
「じゃーん! そばがら枕にしてやったわ。今時! ププッ……アンタは今日から
そばがら睡眠よ!」
嬉しそうに頭の上で騒ぎ立てる妖精を引き連れつつ、触ってみる。
硬い。
ジャリっとした手応えがあって、気持ちが良い。
頭を乗せてみると、ちょうど首の辺りが圧迫されて気持ちよかった。
「俺って硬い枕の方が合ってたのか」
「ははは! 強がり言っちゃって! 全く! 本当に! 意地っ張りなんだからもう……
ねえ、あの、意地、なんでしょ? 私の一晩考えた最上の嫌がらせに屈したくないだけよね?」
「くー」
「うわ寝やがった! こんなインターバルで二度寝しやがった! 完全に
リラックスして寝てるし! むきーっ! くやしーっ!」
耳元がうるさいから直ぐ起きてしまった。
「い、今のは序の口よ! 二本目!」
騒ぎ立てる妖精を尻目に、時計を見る。
そろそろ登校時間だ。
「一日の始まりと言えば、歯磨き! と言う訳で、歯ブラシを真鍮ブラシに
変えてやったさ! ああ変えてやったさ! これで歯でも磨いてみなさいな、
たちまち歯が磨り減ってイヤミみたいな前歯になるってなものよ!」
「何歳だよお前……」
当然、磨かない。
「フフフ、磨かない。そう、その選択肢は当然あるさねー。それくらい
にゅるっとお見通しよ。つまりアンタは今日、歯を磨かずに登校する事になるのよ。
これがどう言う意味かわかる? そう、アンタは今日人前で演説すら出来ずに
口臭を気にしながらの選挙活動に終始するのよ! にゃーははは、にゃーははは」
まるで猫にとり憑かれたかのように笑う。
そもそも、それが目的なら歯ブラシを隠せばいいだけの事で。
そして、ついでに言えば――――たかが100円で買える歯ブラシ、予備がない訳もなく。
「す、スペアとなーーーーーーーっ!?」
体中に電撃が入る演出で驚きを露にするラミナを他所に、俺は淡々と登校準備を終えた。
「お、おにょれ……だけど最後はそうはイカんでゲソ。必ずやっつけてやるゲソ」
「今度はイカに憑かれたのか」
「うるっさーい! 妖精の名に賭けてアンタだけは特上のイタズラで
ニャフンって言わせてやるーーーっ!」
登校しようと傘を差した俺に対し、ラミナは空中を泳ぐように、にじり寄ってくる。
「その傘……三度笠に変えてみっともなく……うっ、ダメよ落ち着けラミナ。
それじゃこれまでの失敗と同じよ、ラミナ。学ぶのよラミナ」
自分を客観視したいのか、一人称を名前にし始めた。
末期だと思った。
「ああうう……そ、その傘! 私の錬金術で! 砂日傘にしてやるうっ!」
しかし、殆ど自棄気味に言い放ったその宣告は、何気に怖いものだった。
砂日傘――――要はビーチパラソル。
登校中にそんな物に変えられてみろ。
俺はレジャー大好き遊び人として、と言うか変態として名を馳せてしまう。
生徒会長立候補者としてあるまじき状況だ。
「フ、フフッ?! フフフッ?! 意外と嫌がってるようね! あ、意外って
言っちゃった今のナシ! ……ん、ざまー見なさいな。私は何時だって三度目の正直よ!」
自分で編集点を作って、ラミナは笑いに笑った。
俺が登校している間は何処かに潜んで、突然現れて傘を変化させる。
恐らく、人が多いところで。
これを阻止するのは難しい。
と、なると……
「仕方ない。今日は合羽を着ていこう」
「待って! 後生だから! ここは傘で行って、そこからの攻防にして!
だって盛り上がらないからーっ! もーっ!」
妖精は展開に関してのダメ出しをしてきたが、そんな余裕はない。
黙々とレインコートに着替える。
「もーっ! いいもん! また別のイタズラ考えるもん! ばーか! ばーか!
アンタの妹でーべそーっ!」
「そこにいたのね人面蝶。毒を注入して皮以外ズブズブにしてやる」
「ひにゃーーーーーっ! 怖いーーーーーーっ!」
斯くして、ラミナは妹に追いかけられながら、雨の中を外へ飛んで行った。
何はともあれ、俺も登校。
ちなみに、やっぱりレインコートは止めて傘にした。
あの様子じゃ、当分ラミナは戻って来ないだろう。
傘の群れに紛れるように、直線をひたすらに歩く。
その途中――――
「運命の選挙戦まで後二日。首尾はどうだい?」
まるで待ち構えていたかのように、俺の通行ルートに宿敵・桐谷正也がいた。
その両隣には、右大臣と左大臣のように、或いは助さん・格さんのように
取り巻きが二名、傘を指している。
幾ら大きめの傘を差しても、風向きによっては嫌でも肩や背中、腕は濡れるもの。
しかしその二人の傘によって、桐谷は殆ど濡れていない。
自らは決して、手を汚さない。
そう言わんばかりに。
「さあな。お前に話す事じゃない」
「つれない事を言う。僕は君ともっと話をしたいんだよ。生徒会長立候補者同士、
理想を追求する点においては共通している。君がどんな理想を持って選挙に
臨んでいるのか、聞いてみたいと思うこの心、君なら理解出来るだろう?」
出来る筈もない。
ちなみにコイツ、立候補者が決定して以降、ほぼ毎日こうやってちょっとずつ
絡んで来ている。
表面的には友好的に。
敵同士の馴れ合いや仲良しごっこが好きな日本人は多いから、こうやって
アピールしとけば自分に票が集まる――――ってところだろう。
「ま、余りピリピリしないでくれよ。僕は君を認めてるんだ。だから、
もっと穏和に対峙しようじゃないか」
そして、近付いてくると同時に、俺の肩に手を――――
「二人して、こんな所で立ち話か?」
伸ばした刹那、それが止まる。
桐谷の腕を包む制服が少し濡れる中、その声の主は雨の日特有のノイズを
切り裂くように、俺達の目の前まで近付いて来た。
如月先輩。
現生徒会会長だ。
「……これはこれは、如月先輩。お久し振りです。この度は任期満了、お疲れ様でした」
「まだ引継ぎ式までは間がある。この時点で労われるいわれはないが?」
「それは失礼しました。ではその場で改めて挨拶させて頂きますよ、元会長」
長い口を極限まで横に広げるようにして笑い、桐谷は取り巻きに囲まれて
学校へと足を進めていった。
助けられた格好だ。
「お手数をおかけします」
「オレは何もしていない。これまでも、今も、な」
自嘲気味にそう告げる会長の顔は、何処か愁いを帯びていた。
この人は、無能って訳じゃ決してない。
生徒会長になるくらいだ。
確かテストでは毎回、学年でも20位前後の成績だったと聞いてる。
でも、逆に言えば――――20位前後に甘んじていた、とも言える。
なまじ能力も理解力もそこそこあるだけに、自分が何をするにしても、副会長の
東雲先輩のほうが優秀だった事に対して、コンプレックスがあるんだろう。
「お前はオレみたいにならないと思うが、まあ……頑張るんだな」
「はい」
言葉少なに応え、俺は如月先輩と離れた。
この一年間、生徒会の一員としてこの人を見てきた率直な感想。
気の毒な人。
悪い人じゃないんだけど、生徒会長の器じゃなかった。
殆どは、東雲先輩の成果物を読み上げるだけの仕事だっただろう。
それでも、彼なりに懸命に勤めた筈。
決して俺はあの人とは仲良くはなかったけど、その点に関しては
立候補者として見習わなくちゃならない。
プライドを捨ててでも、より良い案、より良い意見を読み上げて来た、
その事に関しては。
気がつくと、雨足が強くなっていた。
傘を叩く水滴の重さを感じながら、俺は学校へと足を進めた。
昔、ラブレターって物があったってのを、オフクロから聞いた事がある。
今では殆ど見かけなくなったらしいが、手書きの手紙で好きな相手に
思いの丈を綴るというものらしい。
いや、今も全くなくなった訳じゃないらしいけど、少なくとも俺には
一切縁がないシロモノだ。
そして、そのラブレターが一番多く投函されるのは、ポストじゃなくて
ゲタ箱だという。
俺は一瞬、そのラブレターが下駄箱に入ってるんじゃないかと思って、胸を躍らせた。
シューズの上に置かれた便箋。
それを目にしたら、誰だってそう思うだろう。
でも、直ぐにその可能性は別の可能性によって潰される。
昨日の靴の落書きを思い出したからだ。
そして、便箋を丁寧に開けて中身を確認し、それが正解だと確信した。
中にはワープロソフトで書いてプリントアウトしたと思われる紙が入っていた。
『立候補を辞退しろ。さもなくばオマエの大切な人がひどい目にあうぞ』
思わず、ほくそ笑んでしまう。
具体名を書かないのは、俺の交友関係を把握できていない証拠。
そして、これまでは嫌がらせだったものが脅迫へとシフトしたのは、
この選挙戦において俺が思ってる以上に有利な状況にあると向こう陣営が
判断していると言う事。
この短い文には、それだけの情報が詰まっている。
ある意味ラブレターと言ってもいいかもしれない。
俺の未来への愛が詰まっていた。
「せんぱい? クレヨンしんちゃんみたいにニヤーってしてますけど、
何か良い事あったんですか?」
「その例えで俺の今の顔が自分でもわかっちゃう辺り、クレしん凄いなって
心から思うよ」
顔を引き締めて振り向く。
そこには、今日も微笑ましい空気感をまとった内海の姿があった。
当然、この脅迫状に関しては伏せておく。
この無垢な女子の目に入れる物じゃない。
「おはようございます、せんぱい。いよいよあと二日ですね」
「あー。ここまできたら頑張るしかないよな」
「はい! 今日はどうされます? 私に出来る事があれば、太鼓持ちでも
男装でもMCでも何でもやりますですよ!」
何故、男装?
いやまあ、それは兎も角としてだ。
本当、嬉しい事を言ってくれるよ。
この子はいつも、俺の味方をしてくれる。
俺と内海が初めて会ったのは――――生徒会室にこの子が初めて
足を踏み入れた日。
その日は確か、晴れてたっけ。
「あの、すいませーん! 生徒会室はこちらでしょーか!」
生徒会室と思いっきり教室札に書いてるんだけど、それも見ずに
笑顔で手を上げながら入って来たこいつを見て、俺は最初、どこの
中学生が迷い込んできたのかと思ったもんだ。
何しろ幼い。
顔の作り以上に、表情と仕草が幼い。
あと、声も雰囲気も。
だから、こいつが生徒会に入りたいと言い出した時には、正直頼りないやっちゃなー、
と思ったもんだ。
で、俺はそれを包み隠さず伝えた。
傷付けるかもしれないけど、どうせいずれ態度に出ちゃうし、それなら
予め言っといて、反応を見た方がお互いにとって有意義だ。
そしたら、この子は力なくえへへー、と笑って――――
「でも、情熱はありますですよ!」
と、力強く宣言した。
やる気があれば良い、って訳でもない。
でも、ないよりある方が圧倒的に良いのも事実。
そして、内海は実際に何事にも一生懸命だった。
少し前、ボランティア活動の一環で、クリーン活動って言う花植え作業が
あったんだけど、俺も含めて生徒会の面々と町内のボランティア活動家の皆様が
淡々と作業をしていく中、こいつは一人、近くで遊んでるまだ小さな子供に
声を掛けて、一生懸命一緒に植えようと呼びかけていた。
当然、そんな面倒臭い事を子供がやりたがる訳もない。
それでも、内海は粘り強く、子供達を誘っていた。
結局、子供達が応じる事はなく、内海は残念そうに微笑みながら戻ってきた。
何故、こいつがクリーン活動に子供を誘ったのか?
幾つかの答えの想像が浮かぶ中、聞いてみた。
「あの子供達が小学生になって、この通学路を毎日登校する時に、自分で
植えたお花があったら、楽しく登校できるかな、って思いまして」
その答えは、俺を『内海びいき』にするのに十分な内容だった。
例えば、これが子供達に生命の芽生えや根付きを教える為、なんて答えだったら、
俺はそこまで感情を動かされなかっただろう。
そう言うのは、年配者が押し付けるもんじゃない。
自分で見た物の中から学ぶ事だ。
内海はそこまで考えていた訳じゃないかもしれないけど、俺はこいつの
ナチュラルな優しさに感銘を覚えた。
偽善者、と思うヤツもいそうだけど、そんなのは毎日顔を合わせてれば
簡単に判断がつく。
こいつは、可愛いヤツだ。
「せんぱい?」
「あ、ああ。悪い。今日は一人で最終弁論のまとめをするんだ。
お前には明日と当日、色々手伝って貰うから覚悟しとけ」
「はい! であれば、今日はパワーをチャージしておきます!」
ニッコリ笑って、内海はそれではー、と言う言葉と共に一年の教室へ向かって行った。
さて。
確かに最終弁論のまとめもやるんだけど、それは夜だ。
今日学校ですることは、それじゃない。
まずは、それをやるとしよう。
一時間目、俺は途中で挙手し、保健室へ行きたいと訴えた。
当然、具合が悪いと言う理由だけど、実際はピンピンしてる。
本来の目的は――――
「やあ、サボりご苦労さん」
一階の男子用トイレで、こいつと会う為だ。
同級生だけどクラスの違うこの男の名前は有働。
この学校の様々な情報を収集して、それを売り捌いている。
最近、よく各学校に『裏サイト』なんて物が作られてると言うけど、
こいつの場合はそれを頭の中に全部詰め込んでる感じだ。
表面上には決して現れない、各クラスにおけるイジメの実態や、
グループの力関係、そして非社会的な行為。
教師が見て見ぬフリをしてる問題の殆どを、コイツは知っている。
それを票集めの為に利用しない手はない。
何しろ、俺は友達が多い方じゃない。
生徒会に入った代償として、放課後に駄弁るとか、昼休みに一緒に遊ぶとか、
そう言うクラスメートとのふれあいが出来なかった為だ。
決して俺の社交性が低いから、って訳じゃない。
ないってば。
だから、票集めに関して、交友関係を頼る事ができない。
となれば、当然やる事は決まってる。
「予想通り、三組の岸田さんはアルバイトやってたよ。校則の禁止事項って
殆ど守られてないよねー。何の為にあるんだか」
「お前の感想は良いから、結果だけ報告してくれよ」
「へーへー。OKだって。バラさない代わりに、自分と友達三人の票ゲット成功」
と、まあ、こう言う事だ。
やってる事は、あの脅迫文を送った連中と代わり映えしない。
違うのは、成果があるって所だけ。
構いやしないさ。
正々堂々闘って、負けて、爽やかに敵を称える――――それで満足出来るなら、
そうする。
でも、俺は満足出来ない。
東雲先輩が支えてきた生徒会。
そして、俺なりに奮闘してきた日々。
無駄にしたくないからな。
正当化なんてしない。
ド汚い手を使ってでも勝つ。
それだけだ。
「これで、一応54票は確保したけど、まだ足りないね。本当にネガティブキャンペーン
やらなくて良かったの? 結構黒い噂多いよ、あの桐谷君は」
「いや、それは良い。それをやると、実際に会長になった後に余計な噂が立つ」
「勝った後の事も考えて、ね。悪くはないけど、勝たなきゃ意味がないよ?」
有働の言う事は尤もだ。
でも、ネガティブキャンペーン――――つまり敵陣営の悪口や政策批判を
行うのは、はっきり言ってリスクが大きい。
特に、俺ら日本人はそう言うのを嫌う。
やらん方がいいだろう。
「ま、その判断は間違っちゃいないと思うけどね……ところで、ゲタ箱に
脅迫状とか届かなかった? 今日の朝当たり」
「届いたよ。毎日嫌がらせもされてるし。ポスターとか見たろ?」
「ま、ね。あんなのは可愛いものだけど、この脅迫状はちょっと良くないんだよね……」
この有働って男は、情報収集家特有のねっとりとした感じはなく、
常にアッサリした話し方をする。
それだけに、今の言い方は気になった。
「実は今日、かなり早朝くに岸田さんを呼び出して交渉したんだけど、登校して直ぐに
君のゲタ箱の前で誰かが立ってたのを見たんだよね。玄関のガラス越しだったから
顔はハッキリは確認出来なかったけど、制服はキッパリ女子だったよ」
「じゃ、そいつが犯人だな。まあ顔がわからないんじゃ意味が……」
「まあまあ、最後まで聞いてよ。そこで何してたのかも気になったけど、
やっぱり正体の確認が先だから、後をつけたんだよ。そしたらさ……」
有働は勿体ぶるように、言葉を留める。
この辺りは、情報を扱ってる男らしい駆け引きだ。
「わかったよ。プレミアムクラブサンドにミルク抹茶オレも付けるから」
「OK。話が早いね」
ま、学生同士の交渉なんて、こんなもんだ。
可愛げがあって宜しいと思う。
ただ、今俺が言った学食のメニューはどっちも1日限定3つの超レア商品。
普通はまず手に入らない。
勢いで約束したものの、どうしたもんかな……
「そしたらその子、三階に上がって……生徒会室に入って行ったんだよ」
「……笑えない冗談だな」
「僕も自分の目を疑ったさ。でも事実だよ。なにせ、ご丁寧にニット帽まで被って
ちょっとした変装してたからね。見えなかったけど、多分サングラスとか
掛けてたんじゃない?」
淡々と、あくまでも他人事である事を隠そうとせず、有働はそう告げた。
その後は、交渉があったからその場に長居は出来なかったらしい。
だから、人物の特定は出来なかった、との事。
わかっている事は――――まだ登校してる生徒が殆どいないような早朝に、
俺のゲタ箱の前に立っていた女子が、その後に生徒会室に入って行った、
という事だけ。
それだけだ。
「ま、色々タイヘンそうだけど、頑張ってよ。君が生徒会長になったら
もっと充実した昼食が楽しめそうだしね……じゃ」
有働は肩を竦めながら、トイレから出て行った。
ったく……流し忘れ以上の、とんだ置き土産だ。
話だけを聞けば、生徒会の誰か、それも女子が俺に脅迫状を出した
って事になる。
流石に変装の為に女子の制服を着るなんて事はないだろうし、
一般生徒がわざわざ生徒会室へ入っていく事もないだろう。
冷静に考えれば、残念ながら、そう言う結論になる。
正直、凄く嫌な感じだ。
心の奥から胃液みたいなものがドロドロ溢れてきてるような気分。
これで心を乱すなと言われても、無理な相談だ。
生徒会の誰かが、俺を拒絶している。
それくらいならまだ良いが、脅迫までしてくるって事は、よっぽど
恨みを持ってるか、桐谷と繋がっているかのどっちかって算段がついちまう。
生徒会の中に、女子は三人。
副会長の東雲先輩、庶務の内海、そして――――会計の三井さん。
書記と会計は二人ずつ、庶務は内海以外に二人いるけど、残りは男子だ。
つまり、この三人の中の誰かが――――って事になる。
「聞ーちゃった、聞ーちゃった♪」
頭を抱えていた俺の頭上に、陽気な妖精の歌声が響き渡った。
ここは男子トイレ。
何故妖精がこんな場所にいるんだ。
考えられるのは一つ。
「お前、トイレの妖精だったのか」
「ンなワケないでしょ!? 見なさいよこの激カワユーな姿!
何処がトイレの象徴的存在よ!」
遺憾そうにラミナが叫ぶ姿を見て、俺は少し落ち着きを取り戻した。
冷静に考えれば、なんて心中で言ってはみたけど、実際には
相当動揺していたみたいだ。
「そんな事より! にゅふふ、裏切りにあったみたいじゃない。やっぱり日頃の行いって
大事よねー。性格の悪い人間には、性格の悪い人間が集うものよ。それとも、
私の呪いのパワーの所為かも? だとしたらメンゴー」
「お前……それ自分で自分の事を呪いの人形と同類って言ってるようなもんだぞ」
「あ、あれ? 確かに……」
妖精は頭がよくなかった。
まあ、これだけちっこけりゃ脳ミソも小さい訳だし、仕方ない事だけど。
「ってか、私の事はこの際良いのよ。私の高度なイタズラをことごとく回避して
調子に乗ってたみたいだけど、いよいよ年貢の納め時ね。さあ、私に向かって
一言、『俺はなんて不幸なんだ』って言いなさい。それが敗北宣言になって、
私の契約も無事満了って事になるんだから」
「いや、お前は何もしてないだろ」
「この際誰の仕業とかどうでも良いのよ! 依頼者の希望はアンタが
不幸になる事なんだから! さあ言え、言って私に早く金平糖祭りをさせろ!」
ラミナは小さい身体でパタパタ近寄って来て、目の前で脅しを掛けてくる。
まあ、脅し文句自体がしょーもないから迫力なんて全然ないけど。
脅し文句――――脅し文句?
「……」
「お、迷ってるね。そうだ、この際だから私がトドメを刺してあげよう。
その制服を昨日みたいに女子のに変えてやっから、覚悟しな。
昨日はちょっと耐性がなくて不覚を取ったけど、もう慣れたもんよ。
さあ、男子トイレで女装した男子になるが良い!」
あの脅し文句。
俺のゲタ箱に入っていた手紙の脅し文句を、もう一度思い返してみる。
『立候補を辞退しろ。さもなくばオマエの大切な人がひどい目にあうぞ』
てっきり、俺の交友関係を知らないから、こんな抽象的な文章に
なったんだと思ってたけど……もう一つ解釈ができる。
特定させない為。
俺が大切に思っている人。
それはやっぱり、東雲先輩だ。
異性への好意……かどうかはさておき、尊敬してる先輩だからな。
その事を知ってる人間は限られる。
生徒会の面々だ。
俺がどれだけ、東雲先輩の事を見てきたかを知っているのは、
同じ生徒会で活動してきた奴等だけだ。
と、なると――――もしここで東雲先輩の名前を出せば、
犯人が簡単に特定出来てしまう。
それを恐れて……?
考えすぎかもしれないけど、その可能性もある以上、考慮に入れざるを得ない。
当然、東雲先輩自身は消える。
まだ付き合いの浅い内海も。
そもそも、俺はこの二人に関しては一切疑ってはいない。
いや、実際にはそこまで聖人君子にはなれていない。
正確に言っとこう。
この二人のどっちかが犯人であるならば、俺が自分の人を見る目と
自分自身の生徒会長としての資質を諦めるしかない。
彼女達が犯人なら、仕方ないって諦められる。
となれば、当然疑うべきは――――
「おーい、男子トイレで女装した男子。少しは感想を言ってよ。ホラ、鏡もあるし、
自分の女装した姿を見て何かリアクションとってよ」
「そんな事よりラミナ」
「そんな事より……そんな事よりーーーーーっ!? 私の渾身のイタズラを
そんな事よりってどう言う事よ!? 訂正と謝罪を……」
「お前の錬金術は、同価値間内での変化が条件だったな。他に何か制限あるのか?」
「……まあ、同価値って言うのは金銭的なものだけじゃなくて、殆ど同ジャンルの
物しかダメって言う意味合いもあるから、例えば服なら『着られる物』に
限定されるとか、そんな感じだけど。後、自分で使う物には原則使用禁止」
「そっか。ならこの手紙の文章を俺の言う通りに変換しろ」
「ちょ、ちょっと! 何言ってんのよ唐突に。私はアンタの敵よ? アンタを
不幸にする為に召喚された妖精よ? 何でアンタの言う事なんて……」
「昨日とは違う金平糖を買ってやる」
「で、どの言葉を変えればいいのよ」
単純だった。
まあ、パソコン使えばわざわざ錬金術を使わなくても改変は可能だけど、
ウチの学校、基本的に印刷は禁止にしてるからな……
それに、仕掛けるなら可能な限り早い方が良い。
「はい、完了。で、どのお店の金平糖が高級なの?」
高級品を買うと言った覚えは全くこれっぽっちもないけど、まあ良い。
今はそれどころじゃない。
一時間目の終わりを告げるチャイムの音が聞こえてくる。
サボりの口実は、下痢でずっとトイレに篭ってた事にでもしよう。
俺は昼休みに生徒会の面々を集めるべく、放送室に足を運んだ。
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