例えば、液晶ディスプレイがほんの僅か、ほんの一粒のドット落ちで欠陥品だと言われるように、人間も他人と著しく異なる部分が少しでもあれば、たちまち“欠陥人”となる。
 何色かの色が見極められない。
 甘みだけがわからない。
 一本だけ指が動かない。
 そういう不具合があるだけで、存在そのものにまで不十分の烙印を押す。
 そしてその烙印は、他人だけでなく、自分自身で焼き付ける事も珍しくない。
 自分は不完全だと、特殊な人間だと、自分自身を決めつけてしまう。
 それはとても悲しい事だ。
 だから僕は、、自分をマイノリティの枠組みの中に入れるのを拒否した。
 僕は生まれつき『人の顔を覚えられない』体質らしい。
 きっと病院に行けば、珍しい病名が付くんだろう。
 でも僕はこの体質に関して一度も診察を受けた事がないし、受ける機会を設けようと思った事もない。
 それには相応の理由がある。
 僕は先月、一四歳の誕生日を迎えたばかり。
 その一四年間、特に何も困らずに生きてこられた。
 だから病院に行く必要がなかったんだ。
 僕の症状を正確に言い表すならば、人の顔を覚えられない……というより、人の顔が“見えない”と言った方がいいのかもしれない。
 人間の身体の上に顔と呼ばれる部位があって、そこには目と鼻と口と耳がついている、そしてそれらは人それぞれ微妙に異なる配置で、異なる形、大きさをしている。
 それはわかってる。
 だけど、僕はどうしてもその個性を認識する事が出来ないでいる。
 自動車に興味がない人が、何種類もの車が並ぶ駐車場で自家用車を見つけられないのと同じように、僕は顔の差異がわからない。
 わからないまま――――何不自由なく一四年間、生きる事が出来た。
 顔で区別出来なくても、他人を見分ける方法はある。
 例えば髪型。
 他にも声、喋り方、身長や体型もそう。
 顔は無理でも、それ以外の区別は常人と同じように出来る。
 だから取り立てて困る事はない。
 何十人も並んで歌っているアイドルグループの一人一人が区別出来ないからといって、僕に危機が訪れる訳じゃない。
 他人の容姿について興味を抱いた事もないし、どうしても顔を覚えなくちゃいけないような事態に遭遇した試しもない。
 だから僕は、少なくとも表層上はごくありふれた中学二年生として生きているし、両親も、友達も、担任の教師も、正月くらいしか顔を合わせない親戚も、みんな僕を普通の人間だと見なして接してくる。
 それでいいと思っていたし、そのまま生きていけると思っていた。
 一四の夏までは。
 
 僕を“普通である為の特別な存在”と見なした、彼女と出会うまでは。






                    - やさしいおくりもの -









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