世の中の平均的中学二年生がどんな一日を過ごすのか。
 兄弟姉妹、同世代の同居人がいない僕にはわかりかねる問いだけど、少なくとも僕はその『平均』から大きく逸脱していない自負があった。
 朝起きるのは六時半。
 携帯の目覚まし機能で覚醒して、しばらくまどろみの中でのんびりと天井を見上げる。
 二〇分ほどぼんやり過ごした後、一応、携帯にメッセージが届いていないかをチェックしてみる。
〈LINE〉を起動……何もなし、と。
 ここまでも、ここから先も、登校するまでは基本ルーティンワークだ。
「おはよう、解理」
 カイリ。その僕の名前を呼ぶのは、その名を付けた父親。
 数学が得意だったらしく、自分の好きな単語を組み合わせて付けたらしい。
 自分の名前は好きでも嫌いでもないけど、命名の理由が明確なのはありがたい。
 何事もわかりやすい方がいい。
 説明するのが面倒なことは、『顔を覚えられない』という体質だけでいい。
 他人の顔を覚えられない――――というと、単に覚えるのが苦手、という捉えられ方をしそうだけど、実際にはそうじゃなく、本当に全く覚えられない。
 だから僕は、今目の前にいる父の顔もわからない。
 もし父が普段と違う格好と髪型をして街を歩いていたら、まず誰かはわからないだろう。
 当然、母も同じだ。
「お父さん! 洗濯物出す時はポケットの中の物を出しといてっていつも言ってるでしょ!」
「朝からそんなに怒鳴るなよ。働く気がなくなるだろ?」
「全く……」
 どこにでもいる専業主婦と、どこにでもいるサラリーマン。
 そんな彼らの元に生まれ落ちた僕は、どこにでもいる中学生であるべきだ。
 だから僕は自分のこの体質を親にも、誰にも話していない。
 驚いた事に、こういう体質の人間は他にもいるみたいだ。
 調べてみたところ、それっぽい診断名もあった。

 治療方法は――――特にないらしい。

 なら話す意味もない。僕の中だけで処理すればいい問題だ。
 だから僕は今日も普通の会話を親とこなし、朝食を黙々と食べ、顔を洗い制服に着替え、髪を整える為に鏡を見る。
 例え、目の前にいる人物が何者なのかわからなくても。
 そう。
 僕は“僕自身”の顔もわからない。
 いや、鏡を見た瞬間に視界へ飛び込んでくるのが自分の顔だとはわかる。
 だから自分の顔なんだと理解は出来る。
 でもこの顔を、今鏡に映っているこの顔と全く同じ顔を写真で見ても、それが僕の顔だとはわからない。
 来ている服が自分の物だとか、髪型だとか、風景が自分の行った場所、日時と一致しているとか、そういう手がかりがあって初めて自分だとわかる。
 それも特に不自由はない。
 自分の写真を見て『さて問題、これは誰でしょうか?』なんてクイズがある訳でもないし。
『身長から目の色まで、好きに変えられる時代がやってきました! 次の特集は女性必見! 最近の美容整形事情について詳しく――――』
 テレビから聞こえてくる話題に母親が聞き入る中、僕は誰より早く朝食を済ませ、食卓から離れる。
 後は歯磨き、洗顔、着替え、そして登校。
 これらも当然、毎日の繰り返し。
「行ってきます」
 僕の一日は、二つ――――
「アオッ! アオッ!」
 いや、三つの見知らぬ顔をやり過ごす事で始まる。
 それ以外は、到って普通の朝だ。

 ――――事あるごとに普通、普通。

 僕はそれを呼吸のように繰り返す事で、自分は普通だと擦り込んできた。
 そしてそれも、よくある思春期の精神構造の一つに過ぎない事を、ちゃんとわかっている。
 一ドットの異端な因子を持つだけの、ごく普通の一四歳。働かない働きアリが意外とありふれているように、僕も全体の中に幾つかある、大きな母集団の一員だ。
 住んでいる場所もそう。
 都会とは遠く離れた田舎の住宅街だけど、市の人口は一〇万人を超えているし、大手スーパーセンターもある、全国の何処にでも散見される自治体の一つだ。
 きっと『通学路』というキーワードでネット検索すれば、今僕の見ている登校風景と殆ど同じ景色が幾つもヒットするだろう。
「おう」
 その景色に映り込む無数の電柱の一つを背に、友人が声をかけてくる。
 彼は今宮修一、通称〈シュウちゃん〉。
 クラスメートであり、小学生時代からの付き合いだ。
 そんな彼に関しても、制服を着て校内を歩いていると、僕はそれが誰なのかわからない。
 彼が自分の席に座っているか、声を掛けてくるかして、ようやくシュウちゃんだとわかる。
 それ自体は特に困る要素にはならない。
 彼の方から僕に話しかけてくれるからだ。
 別に顔を認識出来ようと出来まいと、どちらかが一方的に声を掛ける関係なんてこの世にはごまんとある。
 僕も彼も、特別な事は何一つしていない。 
「おはよう。眠そうだね」
「ああ……変わった色した目の動物がいてな。見はまっちまった。ネットはダメだ。人間をダメにするよ、あれ」
 シュウちゃんは近付く僕を先導するように歩き出す。
 でも、その足取りは普段より少し緩やか。
 あんまり登校に対して気乗りしていない様子だ。
 きっと猫の動画でも漁っていたんだろう。
 シュウちゃんは大の動物好きだ。
 ところで、顔を認識出来ない僕は、表情というものが今ひとつわからない。
 眼球の動き、筋肉の伸縮、口の開き方など、パーツパーツでそれを確認する事は出来るけど、それらが合わさった『表情』は、どうしてもまとまったものとして捉えられない。
 目の前に夕食の献立が並んでいるとしよう。
 テーブルの上にご飯、味噌汁、ハンバーグ、サラダ、酢の物といった料理が、僕の分、父の分、母の分と置かれている。
 その一つ一つは見ればなんという料理なのか、誰の分かはわかる。
 だけど数分が経過して、それぞれの料理が少しずつ減っている状態を写真に撮って、その写真だけを見て『この食卓の空気は良いか悪いか、暗いのか明るいのか、穏やかなのか剣呑としているのか』それを直ぐに答えよ――――と問われても、答えるのは難しい。
 僕にとって表情とは、そんな感覚に似ている。
 それでも、今シュウちゃんが眠そうにしているとわかるのは、最初の『おう』が間延びしていたからだ。
 欠伸とは違うニュアンスだけど、若干上ずった感じで、意識の一部がまだフワフワしているような時の声。
 そういう時は、決まって眠そうにしている。
「シュウちゃん、確かガラケーだよね。ガラケーで動画見てるの?」
「いや、親父のパソコン貰ったんだよ。もう使わないからって」
「随分と気前いいね」
 特に実のない、会話する行為そのものが目的の雑談に興じながら、校門を目指す。
 シュウちゃんは今の僕にとって、唯一といえる友達だ。
 小学生の頃はあと数人、毎日話をする同級生がいたんだけど、ある子とは中学が別になり、ある子とはクラスが別れた事で疎遠になった。
 その中で、シュウちゃんだけは一年、二年と同じクラスになれた。
 一年の時はともかく今年もクラスメートになれたのは、他に友達のいない僕が孤立しないよう、先生達が意図的にシュウちゃんのいるクラスにしてくれたのかもしれない。
「そんな夜更かしして、宿題はちゃんとやってきたの? 中村先生、嫌がらせみたいな範囲のお土産くれたけど」
「数学は五時間目だろ? 昼休みにやるさ」
「間に合いそうになかったら言ってよ。一応、全部やってるから」
「悪いな。多分大丈夫だけど、ヤバい時は頼む」
 宿題を見せる事もあれば、見せて貰う事もある。
 僕の方が見せる頻度は高い。
 ただし、班決めの時なんかはシュウちゃんに声をかけるグループに僕もお邪魔させて貰う。
 ある意味、友達の存在を一番頼もしく感じる瞬間だ。
 僕にとって、シュウちゃんはある意味“命綱”と言えるのかもしれない。
 彼がいるのといないのとでは、学校生活の摩擦係数が大きく異なるだろう。
 だけど、僕の体質については話していない。
 きっと今後話す事もないだろう。
 それはシュウちゃんがどうこうって問題じゃなく、僕自身の問題だ。
 この件に関しては、彼を拠り所には出来ない。
 それは見得でもあり、意地でもあり、弱さでもある。
「そういやカイリ、知ってるか? 隣のクラスに転校生が来るみたいだぞ」
「……転校生?」
 季節は夏。
 あと十日もすれば夏休みに入るこの時期に転校するくらいなら、二学期からでもよさそうなものだけど。
「転校って、どんな気分なんだろうな」
「あんまり、いいものじゃないと思うよ」
 恐らく声を交わす事もない、隣のクラスの転校生に気を使う必要はない。
 僕は素直な意見を口にした。
「かもな」
 それは二重の意味で誤りだったんだけど――――

 僕がそれを知ったのは、随分後になってからだった。

 


 その日の昼休み、僕達の教室は隣のクラスの転校生の話題で持ちきりだった。
 なんでも、とびきりの美少女、それも信じられないほど美形の女子だったらしい。
「そういや、昨日食べてみた。セブンのドーナツ」
「どうだった?」
「ミスドがヨークシャーテリアなら、こっちはトイプードルって感じだな」
「……犬で例える意味ある?」
 だけど、僕とシュウちゃんはその件については一切話さず、ただ日常の出来事について無意味に垂れ流し合っていた。
 僕は基本、異性について語らない。
 容姿を語れないからだ。
 あのアイドルが可愛いとか、ウチのクラスで誰が一番好みだとか、そういう話題は全く出来ない。
 親しい女子もいない。
 だから必然的に、異性に関する話をする機会が生まれない。
 正直なところ、自分に恋愛感情というものが備わっているのかどうか、性欲があるのかどうか、それすらもわからない。
 だけど、シュウちゃんと話をする分には、それでも一切困らない。
 シュウちゃんは動物と甘いモノが好きだからその話ばかりだし、僕はその話を聞きながら僕なりの意見を述べる。
 基本受け身の姿勢だから、自分から話を振る事はない。
 それで何の問題もなく、楽しい日常が送れている。
 世の中の中学生がみんな女子やアイドルや恋愛の話をしている訳じゃない。
 だから容姿について語れなくても、僕は普通でいられる。
 休み時間、そして昼休みの間、クラスメートの多くが隣の教室にいる転校生を眺めに行く中、僕達はいつもと変わらず、とりとめのない雑談に終始した。
 そして放課後。
「そんじゃな」
 一足先にシュウちゃんが教室を出て行き、野球部の部室へと向かう。
 帰宅部の僕は、シュウちゃんが同じ部活の仲間と話をしているところは殆ど見かけない。
 普通は、同じ部活に入っているクラスメートと仲良くしそうなものだけど。
 その点、僕にとってはありがたくもあり、不思議でもあった。
 僕はシュウちゃんの顔を知らない。
 他の人と比べてどうなのかはわからない。
 だけどシュウちゃんはなんとなくモテそうな気がする。
 僕は顔の認識が出来ないから、“モテる顔“ってのがどんな顔なのかもわからないし、シュウちゃんが誰かに告白されたなんて話も聞かないけど、なんとなくそんな気がする。
 モテそうな顔と言えば……転校生。
 放課後になった今でも、クラスはその話ばかりが到る所で語られている。
 隣のクラスの生徒なのに。
 ここまで話題になっていると、興味がないとは言えなくなる。
 でも、仮にその転校生を見に行ったとしても、僕は彼女がどれだけ可愛いのか、美しいのかがわからない。
 久々に、顔を視認出来ない体質を残念に思った僕は、喧噪に満ちた教室から逃げ出すように飛び出し、学校を後にした。

 僕が“彼女”と遭遇したのは、その下校の後――――夜の八時を回った頃だった。









  前へ                                                      次へ