今年の夏は冷夏だという話を、ニュースで何度も聞いていた。だけど実際にはいつもと何も変わらない、凶器にも似た気怠い空気が空から押し寄せてくる――――そんな感覚を背に、僕は市営野球場の外野という慣れない場所で、野球なんて見ていた。
正式な大会名は知らないけど、とにかくウチの学校の野球部が出場している大会の一回戦。
その試合は、思ったよりずっと熱く、そして拙いものだった。
お互い何度もミスやエラーをしながら、九回じゃなく七回を闘い抜き、そして最終的には
四対三というスコアでウチの学校が勝利した。
それを見届けた帰り道――――
「来てくれたんですね」
試合後、僕は野球部マネージャーの衣原さんに発見して貰い、少しだけ会話をした。
「シュウちゃんのお別れ会には参加しなかったから、その埋め合わせに……ね。おめでとう。いい試合だったよ」
「そう言って貰えると嬉しいです。みんな頑張ってましたから」
衣原さんは心から嬉しそうだった。マネージャーに生き甲斐を感じているんだろう。
そういうものを持って生きている人は、素直に羨ましい。
「シュウちゃんにも伝えておくよ。大激戦の末に勝ったって」
「お願いします。きっと喜んでくれると思います」
「あれ。てっきり『連絡なら私がもうしました』って返ってくると思ってたのに」
冗談っぽくそう突いてみると、衣原さんは若干声のトーンと落として――――
「連絡先、知らないんです……」
と、意外な答えを返した。
「え? だってマネージャーでしょ? 部活の連絡とか……」
「そういうのは顧問の先生が一括送信でメールを送るか、連絡網で回すかなんです」
「だったら、普通に聞けばよかったのに。僕とすら連絡先交換してるんだし」
「既読無視とか着信拒否が怖いんです……」
……ああ、そういう事か。
初対面の僕に結構グイグイきたり、土下座したりと、積極的な印象が強いけど、慕っている相手に対しては攻めきれないらしい。
普通の人生を歩んでいると思しきこの後輩でも、僕と同じような過ちを犯している。
僕は……僕らは、普通である事を美化し過ぎていたのかもしれない。
「シュウちゃんに、君の携帯か〈LINE〉に連絡入れるよう言っておくよ」
「い、いいです! そんな……」
「で、もしシュウちゃんが既読無視したら僕に言って」
僕はいたずらっぽく笑うという、中々難しい表情にチャレンジしてみた。
客観的にそれを確認出来ないから、意識的に試した事はないし、正解かどうかもわからない。
「そんな口実でもないと、中々連絡する機会もないからさ」
「え……えーっ?」
でも、余りにも場違いな顔にはならなかったらしい。衣原さんは笑みを含む声で、若干引き気味の反応を示した。
「男子同士でも、そういうの気にするんですか?」
「シュウちゃん、クールっぽいように見えて意外と話好きだから。こっちに目的がないと、向こうが延々と動物か甘いモノの話ばっかりしてきて、切るタイミングが難しくなるんだ」
「ああ、そういう事ですか」
「それでも、偶には話したいからさ。今までみたいに、直接会う事は暫くないんだし」
「そうですね……それじゃ、お願いします」
衣原さんは一歩、勇気をもって前に踏み出した。
出来ればシュウちゃん、この後輩をいい方に導いてくれ。
「ところで、更科先輩ってもしかして、人の顔を覚えるのが苦手だったりします?」
「……え?」
「あ、間違ってたらごめんなさい。さっき、先輩の方が先に私を見つけた気がしたんですけど、気付いてなかったみたいだったから」
――――こういう事故は、きっとこれから先も起こるんだろう。
他人との関わりを増やしていけば行くほど。
「あー……実はそうなんだ。人の顔って、中々覚えられないんだよね」
「わかります。私もそうなんですよね」
……その度に、こう上手くいくかどうかはわからない。
それでも僕は、自分の体質を、一ドットの異分子を、過剰に隠すのを止めてみた。
これも一つの検証だ。失敗したら、また別の方法を模索すればいい。
大人になるまでに正解を見つければいいんだ、きっと。
「それじゃ、二回戦も頑張って。応援するから」
「はい! 彼女さんにもよろしくお伝え下さい」
……彼女?
ああ、隼瀬さんの事か。
僕はもう彼女とは接点がない事を伝えようかどうか迷ったけど、結局衣原さんが走り去って行くまで黙ったままでいた。隼瀬さんとはもう面と向かって話をする機会もないだろうけど、敢えてそれを公言しなくたっていい。
さ、帰るか。家に行けば冷房も冷えた麦茶もある。夏は家で過ごすに限る。
うだるような暑さの中、急ぐでもなく家路につく。
あの廃ビルに行かなくなって、二週間が経過していた。
遠い昔の事のような気もするし、つい昨日の事のようにも思える。
彼女は今日も苦しんでいるだろうか。
外出する度に注目を集めて、でもその注目は本来の自分の姿じゃないという葛藤にまた苦しんで――――
「……」
球場を出て直ぐ、その苦しみ抜いた姿がそこにはあった。
サングラスもマスクも着用していない。でも、周囲の反応が余りに特殊だから、簡単にわかってしまう。
黒のTシャツと灰色のスカート、黒のハイソックスという、決して異様ではないけど、女子が夏場にする格好としては個性的な部類に入る格好。それは、彼女が初めて僕に話しかけてきた時の格好と全く同じだった。
それが何を意図しているか、僕には痛すぎるほどわかった。
「……暇?」
声の聞こえる距離に差しかかったところで、先に彼女から話しかけてくる。有無を言わさず連行した初対面時よりは進歩したみたいだ。
「さっさと答えて。私、同じ場所に突っ立ってると色々大変なのよ」
「そんな紫外線を吸収しやすい服着てるから……」
「違うの! もう、私がどんな思いでここにいるか……」
それは是非、聞いてみたい。
検証も終わって、結構酷い事も言った僕に、今更なんの用があるのか。
「……最近の美容整形の技術ってすごく進歩しててね」
「は?」
「黒目……虹彩って言うんだけど、その虹彩の色を簡単な手術で変えられるらしいの。でも、日本にはまだその技術が入ってないみたい。日本で手術出来れば、それが一番なんだけど」
幾らなんでも唐突、そして脈絡のなさ過ぎる彼女の――――隼瀬牡丹の話を黙って聞いていた僕は、ここでようやくその内容の意図するところに気付いた。
「もしかして……最初に会った時、クリニックの前に立ってた釈明?」
「釈明じゃなくて説明。どうせ、私が顔そのものを整形しようかどうか悩んでたって誤解してたでしょ? そんなふうに思われるの、不本意だから」
そっぽを向きながら、隼瀬さんは答える。頬には汗が滲んでいた。
「その為に、ここまで来たの? 僕が野球部を応援しに来るなんて保証ないのに?」
「……」
答えない。
そこは答えて貰わないと……こっちの出方にも影響するよ。
「そろそろ限界ね」
隼瀬さんが呟いたように、周囲の空気、特にどこぞの野球部と思しき男子達は、確実に隼瀬さんの顔を集団で凝視している。
面倒な事になりそうな雰囲気は、僕にも伝わってきていた。
「場所を変えましょ。人気のない場所。あ、でもあの廃ビルは却下よ? いい思い出ないもの。『僕達、もう会わない方がいいと思うんだ』みたいな、まるで私がフラれたみたいになってたし」
「いや、全く言ってないけど、そんな事」
「ほぼ正解でしょ。同じようなもんよ」
隼瀬さんに恨まれているのは覚悟していた。でもそれは、オッドアイに対する感想への不満、憎しみだとばかり思っていた。
「とにかく、そんなニュアンスで言ったつもりは一切ないよ。僕の名誉に賭けて」
「なら、検証が必要ね。貴方がどんなつもりで言ったのか、その検証をこれからしましょう。時間をかけてじっくりと……ね」
どうやら、僕が思っている以上に厄介だと思ったこの女子は、その更に上を行く厄介さだったらしい。強いのか、弱いのか。確かに彼女の内面は中々どうして、単純に推し量れそうにない。他人に検証して欲しい気持ちはよくわかる。
斯くして、延長戦……ともちょっと違う、全く新しい別の日常が始まろうとしていた。
「あ、でも〈LINE〉のIDは教えないからね? だから、また待ち合わせ場所を決めて、そこで面と向かって話し合う。そのスタイルを厳守する事。いい?」
「……もしかして、既読無視や着信拒否が怖いの?」
「だっ! 誰がそんなの怖がるのよ! バカじゃないの!?」
明らかに図星だった。
それなのに、ひた隠しにしようとするように両手をブンブン振るその仕草は――――
「なんか、可愛いね」
「……!」
思わず素直にそう口に出してしまった自分にも驚いたけど、それ以上に彼女のやけに過敏なリアクションにも驚いた。なんか全身ブルって震えてたよ、今。
「そんなに驚かなくても……死ぬほど言われ慣れてるでしょ?」
「そりゃ、言われ慣れてるけど……あーもう!」
慣れてるけど、なんだと言うのだろう。
隼瀬さんは落ち着かない様子で頭を掻き毟り、僕から逃げるように先へと急ぐ、
僕はその背中を、なんとなく眺めていたい気分に駆られていた。
一ドットの非日常を交えた僕達の日々は――――廃棄処分される事なく、これからも続いていくのだろう。
いつの日か、プツンと画面が消えて真っ黒になる、その時まで。
「ほら! 下らない事言ってないで、早く!」
一体、どこを待ち合わせ場所にするのだろう。僕は少しワクワクする自分を隠しつつ、結局は隠し事を積み重ねている自分に苦笑して、隼瀬さんの背中を追った。
もう二度と交わらないと、そう思っていた。
彼女と僕は考えが根本的に違う。僕が読んだエッセイや啓蒙書の中に、彼女の母親が書いた本はきっとなかったんだろう。
方向性が違う二人。一緒にいればいつか深く傷付くかもしれない。僕以上に彼女が強く感じていたように見えた。だから僕は身を引いた。名残惜しかったけど、それがお互いの為だと思って。
だけど、隼瀬さんは再度、こうして僕の前に現れた。きっと、彼女なりに覚悟を持って。
今は戸惑いもあるけど、素直にこう思う。
ありがたい――――と。
〜私からあなたへ
遠くから鼻歌が聞こえる。
誰が歌っているのかはわからない。
昨日の僕かもしれない。明日の彼女かもしれない。
見知らぬ他人かもしれない。有名な歌手かもしれない。
〜この歌を届けよう
その歌声は、風だった。
日常に吹く、ごく普通の風。
そして隼瀬さんの後ろ姿は、周囲を歩くどの通行人とも違っていた。
「なーにトロトロしてるの!」
――――振り向いた今も、なお。
それは魔法じかけなのか、それとも顔に名前が書いてあるからなのか。
理由はどうあれ、今は歓迎しよう。
この広い広い世界で、なんの因果か受け取ってしまった、残酷なほどに美しい……
優しい贈り物を。
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