『……すまん。意味がわからん』
「だよね。簡単に説明すると、僕はシュウちゃんの顔を覚えられないんだ。他の人と区別がつかない。あ、髪型とか服装の違いはわかるよ。でも、同じ髪型で制服も一緒だと無理かな」
 そんな僕の解説を聞いたシュウちゃんは、暫く沈黙したのち、大きな息を受話器越しに落とした。
『……いつからだ?』 
「ずっと」
 電話で話しながら、隼瀬さんの様子を窺ってみる。
 固まっていた。
 その反応だけで、試みに価値はあった。
『毎日顔をつき合わせてるのに、わからないのか?』
「うん。ごめん」
『俺を覚えられないんじゃなく、誰も覚えられないんだな?』
「そう」
 極力、短い言葉で答えるのには意味はなかった。強いて言えば、僕は緊張していた。
『どうして話してくれなかったんだよ? ……いや、それはもういい。どうして今、それを話してくれたんだ?』
「もし何年かぶりに街でバッタリ会っても、声を聞くまでシュウちゃんだってわからないと思うんだ。だから、その時はよろしくね」
『……その断りを入れるために、か?』
「うん」
 だって、もしシュウちゃんが僕の体質を知らないままで、『確かにシュウちゃんを見かけた筈なのに気付いていない僕』を見てしまったら、わざと気付かないフリをしたと思われるかもしれない。会いたくないという意思表示と取られかねない。
 異端な部分を話すリスクは多々ある。隼瀬さんに言われるまでもなく、僕も幾度となく考えてきた。
 でも、話さないリスクもある。一ドットの不具合から生じる、それはそれで厄介なリスクだ。
 それでも、普通に生きるのなら無視すべき不具合でありリスク。
 だけど僕は、それをより強く恐れた。
「友達だからね」
『……電話だと饒舌なんだな、お前』
 シュウちゃんは呆れたように、溜息を伝えてくる。
『わかった。もし偶々お前を見かけたら、確実に俺の方から話しかける。今までと同じように』
「そうしてくれると助かるよ。用件はそれだけ」
『そうか』
 引っ越しの準備で忙しい筈のシュウちゃんは、最後までそれをおくびにも出さず、僕の唐突過ぎる告白を最後まで静かに聞いてくれた。
『やっと、深い話が出来たな。これでようやく親友か?』
「それは難しいかもね。シュウちゃん、猫派でしょ?」
『兼任だ』
 ……聞いてみるもんだと、そう思いながら電話を切る。
 僕なりのお別れ会は、こうして幕を閉じた。激励や別れの言葉がないのは仕様だ。
「これで僕も茨の道かな」
 隼瀬さんの方を見ながら、僕は微笑んでみる。実際に笑った顔になっているかどうかは微妙なところだけど。
 返ってきた反応は――――
「……貴方、もしかしてバカなの?」
 心底呆れたような口調と、ミステリアスの燃料切れ。さっきまでの取っつきやすい彼女に雰囲気が戻っていた。
「そういう事は、思っていても口にしない」
「でも、実際バカじゃない。私への反論の為に、今までずっと隠してきた事を話したんでしょ?」
「それだけじゃないよ」
 新しい環境への順応を阻害するマイナス要因はあっても、転校前の心残りやモヤモヤを晴らして次のステップへ進みやすくするプラス要因だってある。要はそのどっちが上かだ。
 僕は後者が上だと思った。だからお別れの会はすべき。ここまでは確かに、隼瀬さんへの反論を実証した形。
 だけど、もっと大事な事がある。
「僕は、シュウちゃんを、たった一人の友達を信頼出来ない自分に腹が立ってたんだ。その憂さ晴らしだよ」
 本当は、シュウちゃんが転校すると教えてくれた時、明かせばよかったんだ。
 なのに、それが出来なかったのが本当に情けなかった。
 だからこの暴露はリベンジだ。
「今更遅いかも知れないけど、ここでこうしてシュウちゃんにバラして、少しだけ溜飲が下がったような気がする」
「貴方はわかってない」
 だけど、そんな僕の抵抗を隼瀬さんは支持しなかった。
「普通を逸脱した外見や体質を他人に知られる弊害を甘く見過ぎよ。私と違って、貴方の異端は内面だから、これまでは比較的隠しやすかったんだろうけど……」
 自分の異端が露見する経験を、彼女は子供の頃からしてきた。
 その彼女の見解は――――
「これから待ってるのは、地獄かもしれないのよ?」
 きっと正しい。その可能性はある。
 そして実際にその地獄を経験したからこそ、彼女は内面を磨こうと決意した。人間の醜い部分を克服する為に。他人の、そして自分の持つ業に抗う為に。
 だけど、彼女だってわかっていない。
「甘く見ちゃいないよ。だから今日までずっと、その地獄を回避してきたんだから」
「なら尚更よ! なんで……」
「回避し続けても、結局傷付けるんだよ。他人も、自分も」
 なんの問題もなく生きていけてると思っていた。普通の人間として普通の日常を送れていると、大した根拠もなく。
 けど実際には、シュウちゃんに負担を強いているだけだった。友達から距離を置かれていると知れば、誰だって嫌な思いをするだろう。僕はシュウちゃんを上手に騙す事が出来ていなかった。それはきっと罪だ。
「黙っていても、バラしても、どっちにもリスクがある。それなら、どっちを優先すべきかの判断は自分でしなきゃいけない。例えば、シュウちゃんから両親に僕の体質について漏れるリスク。シュウちゃんが僕を気持ち悪い奴だと思うリスク。シュウちゃんが僕に距離を置かれていた事を気にし続けるリスク。色々あるよね」
「そうよ。リスクはいっぱいある。だから、私達みたいなのは波風立てるべきじゃないのよ」
「でも君は、僕を巻き込もうとしたでしょ?」
「それは……」
 責めてるだけじゃない。内面を磨くにしろ、逆境に耐えるにしろ、一人では限度がある。
 理解者や共感者なんて要らないと隼瀬さんは言った。でもそれは多分強がりだ。
 いや――――気配りかもしれない。
 彼女は自分の家庭を自分が壊したと思い込んでいる。なら、慎重になるのは当然だ。
 綺麗な顔ばかりを見て、内面に無関心な他人。
 オッドアイに対して、強い拒否反応を示す他人。
 そういう人達に強い不満を抱きながらも、原因は自分にあるという結論に着地して、強くなろうとしている。
 高潔であろうとしている。
 彼女が僕に対して不躾なのは、コミュニケーションの経験が不足しているからだけじゃないのかもしれない。
 ガス抜きが必要だったんだ。
 限界が迫っていたんだ。
 それに気付いた時、僕はようやく隼瀬牡丹という人物の全容を掴んだ気がした。
「お別れ会はすべきだよ。離ればなれになっても、友達は友達だからね」
「転校先で足枷になっても?」
「うん。転校した生徒は思い出をひきずって、ひきずって、それでもいつか新しい環境になじんでいく。見送った生徒は、思い出を引きずる転校生を思いやって、やがて『元気でやってるかな』くらいに落ち着いていく。それでいいんじゃない」
 怖がる必要なんてない。これが普通だから。
 僕らは、ある一面に対して過敏になり過ぎてる。そして、ある一面に対しては鈍麻になり過ぎている。普通になだらかに生きる事を願ってるのに、やたら波が大きくなっていて、気付けば自分から遠ざかっている。
 でも、それじゃダメだと思う。
「……私には、受け入れられない」
 そんな僕の主張を、隼瀬さんは拒絶した。
 実際、彼女の立場で受け入れる事は出来ないだろう。
『お別れ会はすべき』
 それを受け入れたら、今まで一度も開いて貰えなかった彼女のモヤモヤは、成仏する事のないまま心のあらゆる場所で浮遊し続けるに違いない。
 そういう事情がある以上、客観的判断なんて出来ない。まして、僕の意見なんて見送る側に一度なっただけの、底の浅いもの。納得しろと言える筈もない。
 同じように、“普通”に対しての異分子を持つ僕ら。
 だけど、その生き方は共有出来ない。
 ここまでだった。
「それじゃ、検証は今日までにしよう」
 終わらせる為の宣言を、僕が担う。
「……え?」
「そうすべきだと思う」
 これ以上僕の意見を続けて述べれば、例えそれが押しつけじゃなくても、彼女を傷付けてしまう。
 僕はもう、隼瀬さんと一緒にいる事は出来ない。
 幸いにも、彼女の内面の検証、それに関する結論は既に出ていた。
「そう……ね。これくらいが検証期間としてはちょうどいいかもね」
 恐らく、隼瀬さんもそう感じていたに違いない。か弱い声で、戸惑いを隠せないその声で、虚ろにそう答えた。
 本心は違うところにあるのかもしれない。
 でも、ここが引き時。幕引きにはお互いちょうどいい。
「僕なりに、隼瀬さんの性格とか特徴を観察した上での結論だけど……」
 隼瀬さんは僕の下す審判に対し、身体を強張らせ、緊張したような様子で聞き入っている。
 だけど気を遣ったら意味がない。さっきオッドアイに対しての感想を述べたのと同じように、正直に話す必要がある。
 その客観的意見が、断定的結論が、隼瀬さんの今後にプラスになる。
 僕はそう信じている。
「何も問題はないよ。大きく変えなきゃいけない所は何もない。今のままでいれば、絶対に君の内面に目を向ける人が現れるから、大丈夫」
 そう淀みなく告げた僕に対し、隼瀬さんは根拠を聞こうとはしなかった。
 その代わりに一言。
「……そう」
 照れ臭そうにそう答え、そっぽを向いた。
「私の目をハッキリ“不気味”って言った貴方の意見だもの。信じない訳にはいかないんでしょうね」
「そう思ってくれると助かるよ。じゃなきゃ、正直に言った甲斐がない」
 これで、僕の検査機関としての役目は終わった。契約満了。晴れて自由の身だ。
 そう思うと、微かにもの悲しくもあったけど。
「今後の参考にさせて貰う。ありがと」
「こっちこそ、ありがとう。おかげで色々な事が見えた気がするよ」
 握手なんてしないけど、最後にそうお互い感謝を告げ、今日は僕が先に廃ビルを後にした。
 たった一一日。だけど気の遠くなるほど長い一一日だった気がする。
 隼瀬さんへの感謝に嘘はない。僕にとって、彼女との出会いはメリットだらけだった。
 生まれて初めてデートもしたし、自分の体質に関して今までわからなかった事がわかった。将来に、現実に目を向ける事も出来た。
 シュウちゃんへの打ち明けは、彼女抜きには語れないだろう。
「ふぅ……」
 廃ビルを出て、公道を暫く歩いたところで、ふと明日学校に行かなくていい事を思い出して立ち止まる。
 そういえば、明日から夏休みだ。
 そして、それが明けると、シュウちゃんのいない日常が始まる。
 誰も友達のいない日常が。
 もし、隼瀬さんと出会う前の僕だったら、憂鬱でたまらなかっただろう。
 今は少し違う。
 憂鬱なのは変わらないけど、これまでと違った生き方をしてみようと思える自分がいる。
 顔を覚えられない僕が、新しい友達を見つけるのは至難の業。
 でも、いずれ大学を出て社会に飛び込む時、必要になる事だ。
 それなら、中学校って舞台で経験しておいた方がいい。
 僕は一ドットの異分子を持った人間。
 それをどう隠して普通に馴染んでいくか。それが今までの目標だった。
 今は違う。
 一ドットの異分子にどう向き合っていくか。
 恥をかいて、苦い思いをして、イライラしながら、向き合い方を検討しよう。
 街は相変わらず喧噪に包まれて、誰も僕を見ずに通り過ぎていく。
 出来るなら――――こういう景色が彼女に訪れて欲しいと切に願う。
 その時、僕との一一日が役立ってくれれば尚、嬉しい。
 そんな事を思いながら、僕はまた歩き出した。

 これまでとは違う、でも何も変わらない、そんなありふれた日常へ帰る為に。











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