リコリス・ラジアータでの俺の朝は、日本でお馴染みのこんな挨拶から始まる。

「おはようございます」

 その声を遠くで聞いたらしき初見の冒険者の少女は、古めいた赤レンガの壁にフワッとした髪質の後頭部と背中を預けながら、キョトンとした顔でこっちを眺めていた。

 当然だ。
 なんてったってここは異世界。
 日本語は勿論、地球では公用語の英語も全く通じない。

 得体の知れない相手に自分の言葉が一切通じない恐怖は、突然スマホやパソコンが謎の挙動を始め故障濃厚となった時と似ている。

 今まさに、取り返しのつかない事態が起ころうとしている――――そんな不安がコーラを一気飲みした時の胃のように心の中でパンパンに膨れ上がっていくものなんだと、ここへ来た当初は実感したもんだ。

 でも今は違う。
 羽根ペンとインク、そして紙。
 俺は怪訝そうに眉をひそめる冒険者に対しジェスチャーで『ちょっと待ってて』と伝え、紙の上にサラサラとペンを走らせた。

 描いたのは、太陽の下で手を掲げ、笑顔で何かを言っている少年。
 こっちの世界にも太陽と同じような恒星が存在していて、地球と同じように朝昇り夜沈む為、太陽を描く事で朝を表現出来る。

 つまりこれは『おはようございます』のイラストだ。

 冒険者の少女に見せたところ、あっさりとそれが伝わったらしく、俺の知らない言葉で何かを捲し立てながら近付いて来て、笑顔でお辞儀してきた。
 例え言葉が通じなくても、ボディランゲージと絵心があればなんとかやっていける。
 今日もまた、朝一番でそれを実感した。

「……それより、挨拶の言葉を覚えた方が建設的だと思うけどね」

 俺の満足感に溢れる姿から心を読んだらしく、そんなありがたくない助言を苦笑混じりに『日本語』で伝えてくる男が一人。
 この冒険者ギルド〈ハイドランジア〉で受付をやっているジャン=ファブリアーノだ。

 やや細身で小柄な彼は、俺と同い年の一九歳男性。
 正直、男の俺でもゾッとする事がある程の美形で、下ろした栗色の前髪に僅かに隠れた琥珀色の目は、じっと見ていると吸い込まれそうになるほど美しい。

 で、そのジャン。
 実はこの世界へ迷い込んだ俺の第一発見者であり、俺をハイドランジアに住まわせてくれた恩人でもある。

 そんな彼が何故、日本語を話せるのかというと――――

「君は言語を教えるのがとても上手だ。だから僕もこうして別の世界の言語を使えるようになった。それを思えば、この世界の言葉を覚えるくらい、問題なく出来るだろう? ユーリ」

 ユーリ――――来栖結理(くるす ゆうり)。
 それが俺の名前。
 俺自身が付けた、イラストレーターとしての俺の筆名だ。

「いいんだよ。俺はこっちの方が性に合ってるって言うか、『ああっ、俺のイラストが人生の役に立ってる!』って実感が湧くんだから。イラストレーターってのは、そういう瞬間が定期的にないと腐るんだよ! 描けなくなっちゃうんだよ!」

 思わず興奮気味に捲し立てる俺に、ジャンはやれやれと肩を竦める。
 こういうやり取りも日常の一部になっているくらい、俺はこのハイドランジアでの生活にすっかり馴染んでいた。

「それにしても、月日が経つのは早いよ。君がここへ来て、もう半年になるんだね」

「遠回しに『半年で日本語をマスターした俺Sugeeeee』って自慢に聞こえるんだけど」

 ま、それはいいとして……もう半年になるのか。

 俺は半年前、何らかの理由で異世界リコリス・ラジアータの小国、カメリア王国北部のウィステリアという地域にあるこの街〈ルピナス〉に迷い込んでしまった。
 その直後、ジャンに発見され、そのまま身柄を確保される形でハイドランジアへと身を寄せ、そのまま住み込みで受付の手伝いをするようになり、今に至る。
 もし俺が元いた世界でも同じだけの時間が流れているとしたら、俺は半年もの間行方不明の状態って訳だ。

「ユーリの御両親、心配してるだろうね」

 同じ事を考えていたらしく――――ジャンはカウンター奥の定位置に腰かけ、眉尻を下げつつそんな聞きたくない言葉を言ってきた。

 彼が日本語を覚えてくれたおかげで、話し相手が出来たのはありがたいんだけど、元の世界の事を色々突っつかれるのは正直好ましくない。
 俺はもう、あの場所から逃げ出したんだから。
 あっちでどうなってたって、俺の知ったこっちゃない。

「俺の前の世界の事はどうでもいいんだよ。過去より現在の方が大事だろ?」

「……そうだね。確かに君の言うように、現在の……このギルドが直面している問題の方が深刻だね」

 別に意趣返しのつもりだった訳じゃないが――――俺の言葉に、今度はジャンが不穏な空気を漂わせ始めた。

「何しろ、解決策が見当たらない。僕一人の力じゃ何も出来ない。受付なんて非力なものさ……」

 うーん……どうやら地雷を踏んでしまったみたいだ。
 とはいえ実際、これは俺の事情とは違って逃避出来ない問題だ。

 ここハイドランジアは現在、潰れかけている。

 近年、カメリア王国ではギルドの刷新が政策的課題となっていて、国に不必要と見なされたギルドは淘汰され、新しいギルドの普及が進められているそうだ。
 中でも、冒険者ギルドは採算がとれず不良債権となっているとの指摘がなされていて、近い内にほとんどの冒険者ギルドが消滅すると言われている。

 ハイドランジアは、明日その通告を受けてもおかしくない経営状況。
 手伝いをしていても、それはよくわかる。

 さっき朝一番で冒険者がやって来たけど、これは稀な事だ。
 俺がここでお世話になって以降、一日の平均訪問者数はおよそ四人。
 登録している冒険者の数よりも少ない。
 需要面では絶望的な数字といえる。

 冒険者ギルドってのは元々、世界各国の未踏の地や未発見の生物や植物、お宝などを発見する為の冒険者を支援するという名目で発足したギルドだ。
 また、俺はまだ遭遇した事はないけど、街の外には『亜獣』という怖い生物もいるらしく、その調査や撃退も行っている。
 今ではそれ以外にも、市民の隣人トラブルから山賊への対応まで、本来は警察や傭兵ギルドが行うべき職務にまで範囲を広げており、最早"何でも屋"の様相を呈している。

 これらの事情もあり、冒険者ギルドは特定の職業の互助組織というよりは、各国が自国の繁栄と安全を目的に設立した公共団体としての意味合いが強い。
 その為、補助金という名目で国が支援する割合も多く、他のギルドからしてみれば『フザけんなよ、こっちは貴族や大商人にヘコヘコ頭下げてパトロンになって貰ってるんだぞ!』ってなもんで、目の敵にされる事も少なくない。
 まして、リコリス・ラジアータの多くの国では、もうあらゆる領地と領海、動植物の調査が一段落している為、発足時の目標は既に達成している状況だ。

 それでも何とか今の時代まで生き残っているのは『亜獣の最新情報を常に取得しておくのが国の安全を守る上で必要』という社内コンプライアンスっぽい言い回しの大義名分によるもの。
 でも実際には、もう何年も新種の亜獣は見つかってないらしく、流石に各方面からのクレームが後を絶たない状態となり、冒険者ギルドは廃止の方向で調整が進んでいるそうな。

「これも時代なのかな……」

 カウンターに両肘を突き、寂しそうにジャンは呟く。
 ここが潰れれば当然職を失う訳で、受付なんていう大して潰しが利かない立場の彼にとっては死活問題だ。

 俺としても、ここを失えば唯一の拠点をなくす訳で、大問題なのは間違いない。
 けど、国が削減の方向で検討しているのを俺たちがどうこう出来る筈もない。
 国家権力に逆らえるほどの金も名前も持たない俺たちが出来る唯一の抵抗は、このハイドランジアを栄えさせ、街のお偉いさんに『このギルドは街になくてはならないのです!』と陳情して貰うくらいだ。

 でも、現実には――――

「よう、ジャン。視察にきてやったぜ。相変わらず見窄らしい、まるでお前の経歴のようなこの腐りきったギルドの成れの果てをな」

 ――――と思った傍から、その現実をこれでもかと見せつけてくる男がギルドのウェスタンドアを蹴破る勢いで入って来た。

 ジャンとは対照的な外見の、厳つい身体付きと強面の顔をした金髪坊主野郎。
 ウィステリア市長ウンベルト=ジョルジョーネの息子、リチャード=ジョルジョーネだ。

 そんな男の登場と同時に、先程俺にお辞儀した冒険者が顔色を変えてギルドから逃げ出すように出て行く。
 その様子を寂しそうに眺めていたジャンは、搾り出すように言葉を紡いだ。

「リチャード……考え直してはくれないか? このハイドランジアが、かつてこのルピナス……いや、カメリア王国を代表する冒険者ギルドだったのは君も知っているだろう? 国の象徴とも言われたこのギルドを安易に取り壊すのは、決して得策じゃないと思うんだ」

 この国の公用言語『カメリア語』で何かを訴えるジャンに対し、リチャードは無視を決め込む。 
 横柄な態度と表情でギルド内に設置された依頼用掲示板を一通り見渡し――――

「確かに、ハイドランジアは街の中心だったさ。昔はな。でも今はどうだ? いつ来てもロクな依頼がありゃしねぇし、詰めてる冒険者もとんと見当たらねぇ。落ちぶれたもんだぜ、お前と一緒だ。ヒャッハハハハハ!」

「それは君が何度もここへ来て『このギルドに来る奴は国の政策に反対する非国民だ』って……」

「言うからってか? 恫喝するからってか? 笑わせんじゃねぇ!」

 目玉が飛び出そうなほど見開いた目で、ジャンの顔に極限まで自分の顔を近付ける。
 あれだ、ガン垂れるってやつだ。
 どうやら、この世界にも通用する威嚇方法だったらしい。

「俺様はなぁ、助言してやってんだよ。こんな落ちぶれギルドと心中してもいいのか? ってな。お前は別だぜ、ジャン。お前にはお似合いだ」

「……」

「このギルドを拠点にして『陽性亜獣』からカメリア王国を救った"ハイドランジア四英雄"の中の一人。しかも当時一四歳。そんな神童が今はどうだ? こんな腐敗が進んだギルドの受付にまで落ちぶれるたぁ、誰も予想出来なかっただろうよ。なあ?」

「昔の事は……言わないで欲しい」

「ヒャッハハハハハ! 過去の栄光に浸ってりゃ、もう少しマシな人生を送れるだろうにな! ま、お前を追い込んでも俺の仕事は捗らねぇし、ここらで勘弁してやるぜ。忙しいんでな、元英雄さんと違って」

 この世界に迷い込んで半年、俺はまだカメリア語をロクに話せないし、リスニングの方もからっきし。
 だから早口で捲し立てるリチャードの言っている内容は、正直殆ど理解出来なかった。
 でも、彼の剣幕とジャンの表情、何より彼が来る事でギルドを訪れていた冒険者がいなくなってしまう事実から、なんとなく内容は想像出来る。

「そっちのお前も悪い事は言わねぇから、早い内にここから離れな。年内には跡形もなくブッ潰れちまうような場所にしがみついても、なれるのは化石くらいだぜ? ヒャッハハハ!」
「……」

 ジャンは高笑いしながら出て行くリチャードの背中を見る事も出来ず、ずっと俯いたまま歯を食いしばっていた。
 リチャードが現れた際の、いつもの光景――――じゃない。
 いつもはここまで落ち込んではいなかった。

 どうしてなのか。
 その理由は、直ぐに判明する。

「…………も」
「?」
「もう……我慢出来ない! もう! もう僕は! 僕はもう、もう僕は僕はもう我慢出来そうにないっ!」

 こ、壊れた!
 ジャンが壊れていた!
 なんか急に三白眼になって首をカクカク上下左右に動かし、カメリア語で叫び始めた!

「お、落ち着けよジャン。受付が取り乱すようなギルド、末期だぞ?」

「末期!? ああそうさ、末期さ! ギルドも僕ももう終わりなんだ! ああ、あああ、あああああ! あああああああああああんもおおおおおおおおおおおおおおおおぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ!」

 まずい、これは……錯乱だ!
 生真面目な人間がストレスを溜めに溜め込んで、ついに限界を超えた時に起こる、狂おしいほどの魂の悲鳴だ!

 普段のジャンは知性的、かつ至って冷静。
 でも、いやだからこそ、こういう崩壊の時は……怖い!
 傍で見てるとゾッとする!

「うっうわああああああっ! 僕はもうダメだ! いや最初からダメだったんだ! そもそも僕なんかが英雄なんて祭り上げられる事自体が歪だったんだ! 嫌だ! そんな過去はもう嫌だ! 過去が僕を……あの輝かしい過去が僕を嬲りに来る! 嬲って嬲って干涸らびるまで嬲りつくすつもりだんもおおおおおおおおぼぼぼぼぼぼぼぼぼ!」

「落ち着けってば! なんか過呼吸なのかアワ吹いてるのかよくわからんけどおかしな呼吸になってるから!」

 ……異世界に迷い込んで半年。
 俺はこの世界唯一の友人が生々しく発狂する姿を延々と見せられるという、嫌な罰ゲームを受けるハメになっていた。









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