――――それはまるで、夢の"外"にいるような感覚だった。

 夢を見ている時、その舞台は現実のようで現実でない、朧げな内界が広がっている。
 怖い夢であれば不安や焦燥を覚え、楽しい夢なら気分が高まるんだけど、その根底には安定した自分がいて、変容する気分を客観視している――――そんな感覚だ。

 でも俺がその時経験したのは、明らかに見覚えのない、それでいて輪郭が明瞭な空間にいる不安定な自分。
 風の感触や冷えた空気にさえ揺さぶられる、いつもの矮小な自分。
 すなわち――――そこは外界だった。

 屋根の角度がキツく、また上部の装飾が妙に豪華な明らかに日本とは違う様式の建物群。
 その建物を見上げる、少しお洒落な樹脂灯に照らされ、アスファルトのない凸凹した道路の上で気付けば佇んでいる、そんな自分。
 自分の周囲に広がる、夢でも現実でもない、それでいて藁と土が混じったような何処か田舎を思わせる匂いがする、クリアな世界。

 ……突然、そんな場所へ放り出されたんだから混乱しない筈がない。

「変わった服を着ているね。外国からの観光客かい?」

 一体どれだけ、その場に佇んでいたのか。
 背後からかけられた声に、思わず飛び上がりそうになるほど驚き、俺は反射的に顔だけ振り向いた。

「こんな時間に出歩いているところを見ると、宿が取れなかったのかな?」

 余りにも不可解な状況に怯える俺の目が捉えたのは、爽やかな笑顔で微笑む茶髪の青年。
 革製の黒い上着に白いシャツ、ピチピチの黒いズボンに身を包んだその姿は、一種の妖艶さを醸し出していた。

「……?」

「もしかして、カメリア語がわからない……みたいだね。
 ま、いいか。僕。わかるかな。僕の住んでいる建物においでよ」

 青年はまず自分を指差し、次に両手を合わせ頬に寄せ首を傾け眠っているポーズ』をして見せ、その次に『凸』を手で虚空に描き、最後に親指立てクイクイッと自分の肩の後ろを指した。

『俺の』
『寝泊まりしている』
『建物に』
『来い』

 そう理解するのは簡単だったけど、見知らぬ男にそう言われてホイホイついて行くのは、幾ら治安大国日本出身でも難しい。
 顔をしかめ、躊躇していた俺を、青年は――――

「大丈夫、取って食ったりはしないから。少なくとも、ここにいるよりは安全な筈だよ。さ、早く。直ぐ近くだよ」

「え、ちょ、ちょっとおい! 待って……」

 ――――半ば強引に袖を引っ張り、連行していった。

 幸い、目的地は歩いて五分とかからない場所にあった。

「あの建物だよ」

 そう青年が指差した先にあったのは――――赤レンガ造の建物。

 周囲には鉄筋コンクリート造と思われる建築物が多く、赤レンガの外装はかなり目立っているが、それ以上にアチコチのレンガ壁が削れたり欠損したりと古さが目立つ。

 青年に促されウェスタンドアを潜り中に入ると、驚くほど広いホールにまず驚いた。
 意味不明な記号か文字かが書かれた紙が大量に貼られたボードが全部で六つ設置されていて、その奥には丸いテーブルが合計八つ並んでいる。
 あの紙がメニューだとしたら、飲食店の可能性が高そうだ。
 ただ、受付のカウンターと思しき場所にはレジがない。
 天井も高く窓も広い為、本来なら開放的な空間という感想を抱きそうなものだけど、照明が点いてない為、開放的ってよりは巨大な闇がそびえている感じで恐怖を抱いてしまう。

「あの……」

 俺は言葉の通じない相手に、俺をここへ連れてきた意図を問うべくジェスチャーを試みる。
 でも、要領を得ない。
 海外へ行った経験もない俺にとって、かなりハードルの高い作業だ。
 多分、今日はここで休んでいっていいよ、って事だと思うんだけど……

「二階に、空き部屋がある。そこで、眠るといい」

 幸いにも、青年はこっちの意図を汲んでくれたらしく、わかり易いジェスチャーと笑顔で説明してくれた。

 取り敢えず安堵。
 とはいえ、問題は山積みだ。

 夢なのかもしれない――――そう思う自分がいる一方で、これは夢じゃないと確信している自分がいる。
 それなら、ここが何処で、一体俺の身に何が起こったのかを早めに知っておきたい。
 その為には、質問が必要だ。
 そして質問するには、俺の考えをこの青年に伝える手段が必要だ。
 正確に、精密に伝える手段が。

 言葉は通じない。
 ジェスチャーも不得手。
 そんな俺に出来るのは――――

「……あ」

 瞬時に自分の特技を思いついた俺は、青年へ向かって『書くモノはないか』と不格好なジェスチャーで伝える。
 幸い伝わったらしく、青年は直ぐに紙とペン、そしてインクを用意してくれた。
 驚いた事に、ペンには羽根が付いていた。

「ありがとう。えっと……ちょっと待って」

 ペコリと頭を下げ、筆記用具一式を受け取った俺はテーブルに向かい紙を置き、その上にペンを走らせる。

 描いたのは――――この建物の外装。
 敢えて看板に何も記入せず、そこをグルグル円で囲み『この建物はなんていうの?』という主旨のイラストに仕上げてみた。
 速度重視だった事もあって、決して上手くはないけど、これなら伝わる筈。

「へえ……君、絵描きなんだ。見事なものだよ。ここの名前が知りたいんだね?」

 俺のイラストを見た青年が何かを呟きながら、何度も頷く。
 意図は伝わったみたいだ。

「ここは冒険者ギルドなんだ。世界的に有名なギルドだから、君も知っているかもしれないね」

 青年は微笑み、俺と向き合う。
 俺は彼の穏やかな雰囲気に浸され、いつしか緊張を解いていた。

「ようこそ。冒険者ギルド〈ハイドランジア〉へ――――」

 


 ――――それが、俺とジャンの初めての出会い。
 俺がリコリス・ラジアータに迷い込んで、僅か数分後のシーンだ。

「……あれから一年か」

 一年前――――俺はジャンに連れられてこのハイドランジアにやって来た。
 その時の事を思い出しつつ、ギルド内のホールで椅子に腰かけ、テーブルの上の樹脂ランプをじっと眺める。

 このリコリス・ラジアータには電力流通が存在していない。
 だから街灯も家庭用照明も電気ではなく万能樹脂を使用した物のみで、ハイドランジアにある照明は〈樹脂ランプ〉というランタンのみ。
 冒険者が夜間でも活動出来るように、かなり多く取り置きしている。

 ここへ来た当初は、本当に苦労した。
 何しろ、それまで当たり前に使っていた物が急に身の回りから消えたんだから。

 二〇一〇年代の日本で普通に生活している一〇代がこのリコリス・ラジアータの生活に適応するのは、かなり厳しかった。
 それでも、イラストレーターとして落ちぶれて以降の俺は、人間不信やインターネット恐怖症になっていた事で、スマホやパソコンへの依存がなく、まだマシだったかもしれない。

 食事にしてもそうだ。
 もし俺が和食しか食べない偏食家だったら、或いは食の安全について神経質な性格だったら、かなり苦労していただろう。
 幸いにも、食事への頓着は昔からなかった。

 例えば、このカメリア王国では『アムン』という食べ物がある。
 小麦粉のような粉とミルクルを混ぜたモノを薄く伸ばして焼いた、味も食感もパン……っていうかナンに近い食い物だ。
 これに肉、魚、野菜、フルーツなど、なんでも乗せて巻いて食べるのがカメリア流。
 それにもすんなりと順応した。
 
 まあ……もう二度とカレーも半熟目玉焼きもインスタントラーメンも口に出来ないと思うと、なんとなく気が滅入る事もあるけど。

 元いた世界に未練はない。
 寧ろ、理由は未だ不明ながら『よくぞ俺をこの世界に引っ張ってくれた』と感謝してるくらいだ。

 ただ――――

「眠れないのかい?」

 不意に、二階からジャンの声。
 俺は苦笑を浮かべ、肯定の意を示した。

 ……行商人に見本誌を預けて、早二週間。

 未だに馬車運輸からの注文の連絡は来ない。
 不安は日に日に募り、寝付けない日が続いている。

 三人の冒険者が一度に抜けた今、このギルドはもう風前の灯火。
《絵ギルド》がコケたら、完全終了だ。

 一年前の事を思い出したのも、その所為だろう。
 リコリス・ラジアータに来て、ここまで大きな不安を覚えたのはあの日以来なんだから。

「未知の本、未知の商品なんだから、出足は鈍い筈だよ。だから注文が来るのはもう少し先の話さ。今から神経質になるのはよくないよ」

 ジャンは二階から降りず、手すりに肘を乗せ見下ろしている。
 そんなジャンを見上げ、俺は――――

「最近……変な夢ばっかり見るんだよ」

 今の思いを溜息混じりに吐露した。

「起きたら、この世界にはいない。元いた世界に戻ってるんだ。そこで俺はなんの疑問も持たず、昔の生活に戻る。大学にも行かず、仕事もしないで昔ヒットした作品のキャラを描こうとするんだ。でも、どうしてだろう……描けないんだ。目を瞑ってても描ける筈なのに」
「……」
「これって、何かの暗示かな?」

 肩を竦めておどける俺に、ジャンは何も答えない。
 いつだって爽やかに、飄々とこっちの期待する答えをくれるジャンが。
 きっと、思いは同じなんだろう。

「……俺さ、もし……」

 ――――ダメかも知れない。

「もし《絵ギルド》が全然売れなかったら、責任取ってイラストレーターを辞めるよ」

 そんなネガティブ思考が言わせた、覚悟もへったくれもない辞意表明。
 辞めてどうするってんだ。
 今更、イラストレーター以外の何が出来る?
 それしかやってこなかった、もうすぐ二〇歳の男に何が出来る?
 ましてこのリコリス・ラジアータではまだ一年生だぞ?
 そもそもそれ以前に、辞める事が一体何の、誰への責任を果たす事になるってんだ……

 カッコ付けのポーズなのか、お得意の現実逃避なのか、自分でもよくわからない。
 わからないけど、俺はそうジャンに告げていた。

「辞めてどうするつもりだい?」

 ジャンは止める事なく、冷静な声で話を膨らます。
 そこで気付いた。

 ああ……そうか。
 俺は止めて欲しかったのか。
 俺というイラストレーターが消える事を惜しんで欲しかったのか。
 かまってちゃん、ってヤツだ。

 ……情けない。
 ちょっと理想の現実から離れると、直ぐコレだ。
 そういう自分への報復を誓ったんじゃないのか?

「……悪い、ジャン。今のは忘れてくれ」

「そう言うと思ってたよ。君が絵を辞めるなんてあり得ないからね」

 まるで最初から予測していたかのように、ジャンは呆れるでもなく安堵するでもなく、笑顔混じりに頷いていた。 

「覚えているかい? 初めて君をここに連れてきた時の事を」

「そりゃ、忘れようにも忘れられないだろ。あんな深夜に初対面の俺を、それも明らかにこの国の人間じゃない俺を自分トコに一泊させようとするんだから、こっちが逆に怪しんだくらいだ」

「はは。一応理由はあるんだよ。僕も生まれはこの街じゃないからね。外国、ましてや別の世界って訳じゃないけど、君の心細さは一目で理解出来たよ」

「そうなのか?」

「うん。ここから少し離れた村が僕の故郷さ。僕が一〇歳の時に引っ越して来たんだ。でも、僕が今言いたいのはその事じゃない。君が僕に絵を見せてくれた時の事さ」

 ジャンは遠い目をしながら、その視界に向かって微笑んだ。

「衝撃だったよ。その後に、君が別の世界から来たと聞いた時以上にね」

「大げさだな……たかが絵を描いただけだろ。しかも下っ手くそな建物の絵を」

「あの時は絵に衝撃を受けた訳じゃないよ。驚いたのは、絵を描く君の姿さ。それまで常に怯えて、まるで悪戯をして路地に逃げ込んだ子供のように震えていた君が、ペンを手にした途端に熟練の冒険者のように落ち着き払っていた。君にとって、ペンは武器なんだと悟ったよ」

 ……そんなに震えていた記憶はないんだが。

「人間、武器を捨てる事は一生出来ない。栄光は捨てられても、過去は忘れられても武器は死ぬまで手放せないものさ。自分を支えるのは栄光でも過去でもない。自分だけの武器だ」

「自分だけの……武器」

 確かに、俺にとってそれは絵なんだろう。
 ならジャン、お前はどうなんだ?
 もう戦えない身体になったお前は……かつて世界屈指の腕を誇った銃剣をまだ手放せずにいるのか?

「僕の武器は、過去の栄光でも銃剣でもない。ここだよ」

 そう問いかける事が出来なかった俺に、ジャンは読心術でも使ったかのように核心的な言葉を携え、何もない宙を指差した。
 いや、ある。
 そこは――――冒険者ギルド〈ハイドランジア〉の空間。
 つまり、ジャンの武器とはハイドランジアの存在そのものだ。

「ここがあるから、僕はまだ戦える。過去の栄光の一部だからじゃない。今もこうしてここにこの建物があって、僕を迎えてくれるからこそ、僕は僕でいられるんだよ」

「……随分と嵩張る武器だな」

「維持費もかかるしね」

 少しの間苦笑したのち、ジャンはふと真顔になった。

「だから、僕はこのギルドの一員である事を辞める事は出来ない。その為にも、ここは絶対に守り抜く。そう決めてるんだ」

「もし守れなかったら?」

「意地悪な事を聞くね。そんな後ろ向きな考えは今のところないよ」

 そうは言いつつも、ジャンは一応回答を探す素振りを見せた。
 天井を見上げるように思案顔を作り、微かに唸る。

「ま、その時は……うーん、そうだね。罰として君に利き手で殴って貰おうかな」

「なんで俺なんだよ。この細い腕で殴られても罰にならねーぞ」

「そうでもないよ。君の利き手は絵を描く為の商売道具だろう? 僕にとっては、中々スリリングな罰だと思わないかい?」

 ……つまり、殴った拍子に俺の方が手を痛めて、絵を描けなくなる事がジャンにとっての罰、ってか。
 それだけ、俺の絵が大事だと。

 随分心憎い事言ってくれるじゃねーか。
 と、そう言おうとした刹那――――

「すいません!」

 ギルド入り口のウェスタンドアが猛烈な勢いで開く!
 そして何かがホールへ転がるようにして入ってくる。

「こんな夜分にすいません! ふーっ、ふーっ……でも来てしまいました!」

 ――――正体は人間。
 ルカのツテを頼って《絵ギルド》の見本誌を預けた、あの行商人の少年だ。
 名前は……クレインだったっけ。
 俺より三つか四つ下の、快活な黒髪の少年だ。

「一体どうしたんだい? 《絵ギルド》の受注は馬車運輸を通して伝えて欲しいと頼んでおいた筈だけど……」

 息切れして倒れたままになっているクレイン少年に水を手渡しつつ、ジャンが困った顔で問う。

 俺だって同じ心境だ。
 何しろこんな時間に行商人がギルドへ来るなんて普通じゃない。
 何か事件か事故が起こったのかもしれない。

 いや……待てよ。
 例えば馬車運輸が事故で機能してないから仕方なく直接注文書を届けに来たのかもしれない。
 冷静に考えてみたら、吉報の可能性が高いぞ。

「クレイン君!」

 俺は水を飲み干して一息ついたクレイン少年に、期待の眼差しを向けた。
 顔を上げ俺を見上げるクレイン少年は、それに応えるかのように小さく頷く。

「ふーっ、ふーっ……注文が……その……」

「注文が?」

「えっとですね、ふーっ……注文が……」

「ああ、注文がどうした?」

「実はその、ふう……注文が……」

「うんうん、注文がどうなんだ?」

「ふう……注文……が、なんと……」

 なんと――――?

「ありませんでしたーーーっ!」

「フザけんなよガキ! この焼き鳥野郎めネギで挟んでやる!」

「ひえーっ!?」

 根暗で温厚な俺が三分ほど怒り狂った後――――

「……とにかく、事情を詳しく説明してくれるかい?」

 俺とクレイン少年を強引に引き離したジャンが、諭すように問う。
 だが、クレイン少年は落ち着きを取り戻した様子が微塵もなく、興奮気味に両手をガクガクと振り泣きそうな顔をジャンと俺に向けた。

「あの、ないんです! 全然ないんです!」

「うるさいな! 何度も言わなくても依頼がないのはわかったよコンチクショー!」

「違うんです! ないんです!」

 困った事に、全く会話にならない。
 それくらいクレイン少年は興奮している。
 そういえば、見本誌を彼に見せた時にもかなり興奮していたし、まだ情緒が安定しないお年頃なのかもしれない。

「もう怒ってないから落ち着け。で、注文がないから何なんだ?」

「違うんです! 注文が……電撃的に多すぎて注文書を送る余裕がありませんでしたーっ!」

 な……

「何ィィィィィィィ!?」

「最初に行った隣街のアドニスで見本誌を見て貰ったんですけど! みんな我先にって注文書を奪い合って……全部ビリビリにやぶけっちゃったんで、注文しようにも出来なかったんです! だからこうして!」

「直接来てくれたって訳だね」

 首をガクンガクンと縦に振るクレイン少年に、ジャンは冷静な対応を見せる。
 だけど、俺は気付いていた。
 ジャンの両耳が赤くなっている――――高揚している事を。

「で……注文数は?」

「一日、それもアドニスの分だけで、八〇冊!」

 ……は?
 一つの街で、それも然程大きくもない隣街だけで一日八〇冊……?

「やっぱりボクの思った通りです! 《絵ギルド》は伝説になります! 伝説の誕生に関われてボク幸せです! リコリス・ラジアータに生まれてよかったーっ!」

 両腕を高々と掲げて吠えるクレイン少年。
 それを向かい合う形で、俺は――――未だに信じられずにいた。

 初版四〇冊に対し、注文がその倍の八〇冊。
 しかも一つの街だけで。
 予想を遥かに越えた、突き抜けた結果だ。

「……ほ、本当に……そんなに注文受けたの……?」

 そう問う俺の声は、震えていた。
 それを察してか、クレイン少年は興奮を抑え、それでも力強く頷く。

「まだまだ増えますよ! ユーリ先生の描いた絵、大絶賛でしたから! 見本誌を見た殆どの人が『これを描いたのは誰だ』って騒いでたくらいです!」

「俺の……絵を……?」

「はい! みんなユーリ先生の絵を欲しがってます!」

 自分の唇が震えているのがわかる。
 俺の絵が……一度死んだ俺の絵が?
 過去の栄光に縋って生きるしかなかった、俺が?
 ニート寸前の落ちこぼれイラストレーターの、この俺が……?

「ユーリ」

 俺の肩に、ジャンが手を乗せる。
 その笑顔はいつだって余裕綽々で、偶に嫉妬する反面、いつだって心強かった。

「おめでとう。君は、君の絵は見事に報復を果たしたんだ」

 報復。
 ジャンと誓い合った、過去の自分への報復。
 俺は……果たせたのか?

「この結果ならもう疑いようがない。君はこのリコリス・ラジアータで誰より必要とされる絵師になる。僕がずっとそう言ってきたようにね。ありがとうユーリ。君のおかげで、僕は自分に自信が持てそうだよ」

 いかにもジャンらしい、キザな言い回し。
 だけどジャンの過去を知る俺にとっては、その重さは痛いほどわかる。

 誰も自分の言葉を信じてくれない。
 自分自身でさえも信じられない。
 そういう、二人だった。
 だから――――信じ合えたのかもしれない。

「……う」

 でも、そんな気取った言葉は出せなかった。

「うう……うぐっ……」

 出てくるのは嗚咽と涙だけ。
 初めてだった。
 生まれて初めて俺は、人目も憚らず号泣した。

「うぐ……うあ……あああああ……」

 何でだろう。
 成功体験は初めてじゃない。
 まだ全てが上手く行くと決まった訳じゃない。
 なのに何で……こんなに心の底から涙が出てくるんだろう?
 なんで止まらないんだろう?

「ユーリ先生……おめでとうございますうーっ……」

「はは、もらい泣きしちゃうね、全く」

 目を赤くして顔をクシャクシャにするクレイン少年の背中をポンと叩き、ジャンは奥へと引っ込んでいった。
 泣き顔を見るのも見せるのも照れ臭いんだろう。
 俺だって同じだ。
 だから、言葉には出来ないけど、心の中で言う。

 なあ、ジャン。
 "ありがとう"はこっちのセリフなんだよ。
 だって、俺がこの世界に来て最初に声を掛けてくれたのも、最初に絵を見てくれたのも、最初に絵を褒めてくれたのも、最初に信じてくれたのも……全部、お前なんだから。
 お前がいなきゃ、やれなかったよ。

 生憎、ありがとうの最上級を俺は知らない。

 だから、やっぱり――――ありがとう。

 俺は何度も何度も、震えのない声でそう叫び続けた。









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