絵の指南――――それは俺にとってシャレにならないほど至難の業だ。
 何せ誰かにモノを教えた事がないし、マンツーマンで教わった試しもない。

 家庭教師も塾も習い事も未経験、兄も姉もいない、親は勉強に関しちゃノータッチといった具合で、俺が何かを習ったのは三〇〜四〇名の生徒に対して一度に教鞭を振う学校の教師のみ。
 絵に関しては完全な独学であり、編集の人からもプロとしての心掛けくらいしか助言は受けてない。
 ただただ自分の描きたいように描いてきた。

 今思えば、元いた世界でダメになったのは、他人からの助言や自分以外のイラストレーターのいい部分、方法論を吸収しようとしなかったのが大きかったのかもしれない。
 きっと心の深い部分で安っぽいプライドが壁を作っていたんだろう。

 そういう意味では、俺みたいな人間に対して多少は居丈高なポーズを見せていたとはいえ、王女という立場にありながら師事を仰ぐというアルテ姫の姿勢には頭が下がる思いだ。

「これが姫の絵よ。どう? 中々でしょう?」

 ……ま、それはそれとして。

 指導するにあたって、まずアルテ姫の画力がどの程度なのかを把握すべく過去の作品を見せて貰った俺はというと、どうすればいいのかわからず途方に暮れていた。

 絵のモチーフは、城を守る騎士。
 リエルさんをモデルにしたらしく、身体は戦士の割に華奢だ。
 身体の装備は軽装なのに、何故かフルフェイス型の兜を被っている。
 ここまではいい。
 何を描いているのかちゃんとわかるだけの画力はある。

 けど……ああもう、ハッキリ言っちゃおう。
 下手だ!
 中途半端に下手だ!

 俺も決して他人にそう言えるほどの腕じゃないけど、彼女の絵は素人の域を出ていない。
 単行本や雑誌の投稿コーナーに応募したら『やる気が伝わってくるね!』とか『熱い気持ちをありがとう!』とか、精神論に終始するコメントになる事請け合いだ。

 パースも感覚的というか場当たり的だし、そもそもの空間把握能力に疑問を抱かざるを得ないくらいバランスが悪い。
 それなりに体裁が整っている分、その点が余計に目立つ。
 敢えて崩している的な堂々たる歪みでもない。

 ただ、全く見れないような下手さじゃない。 
 問題は、それが吉と出るか凶と出るか。
 よく、ド素人の方が先入観や固定観念がない分教えやすいって言うし。

「ええと……取り敢えず、今持っている知識とか常識は捨てて下さい。俺の絵を学ぶ以上、そうして頂きます」

 俺は見せて貰った絵への評価はせず、そう告げながら突き返した。
 不服そうな視線が痛いけど、仕方がない。
 本心や真実や正論だけを言えばいいって訳じゃないんだ、世の中は。

「と、とにかく。今日は基礎から始めましょう。まずは、俺の絵を複写してみて下さい。何回かそれをやって、解説を始めます」

「……そんなに、姫の絵ってダメだった?」

「さあ早く! 描いて描いて!」

 自信作が"評価なし"となった事に落ち込むアルテ姫の肩を押し、俺は人生初となる絵の指導ライフをスタートさせた。 

 


「それじゃダメです! 立体的、写実的な表現を顔に持ち込んじゃダメなんです! 顔はあくまでデフォルメに徹する! どうしても鼻の穴を書きたいのなら穴を点レベルまで小さくするようにして下さい! 陰影も不要!」

「そ、そんなに思い切らないとダメなの?」

「ダメなんです! 鼻の表現は特に重要! 最重要なんです!」

 その後――――人にモノを教えた経験のない俺は、"強気"に徹するという方針に従う意味もあり、スパルタな姿勢でアルテ姫にマンガ絵を指南した。

 場所は当然、彼女の部屋。
 俺が寝泊まりしている五〇畳レベルの部屋より更に広い。
 余りにも広すぎて、偶に自分が何処にいるのかわからなくなる。

「くっ……なんて奥が深い。でもこれこそ姫が求めてた絵……なんとしても、なんとしても身につけないと……」

 そんな庶民の俺にこれだけ厳しく指導されても、アルテ姫は怒りを露わにしたり逃げ出したりせず、真摯にマンガ絵と向き合っていた。
 その気迫は、趣味の範囲を超えているような気さえする。
 何が彼女をここまで駆り立てるんだろうか。

 ただ、幾らやる気があっても飛ばし過ぎは良くない。
 線が明らかにヨレ出しているし、頃合いだ。

「では、そろそろ休憩にしましょう」

「え? ひ、姫はまだ大丈夫よ?」

「余り根を詰めても仕方がありませんよ。効率良くいきましょう」

「……仕方ないわね。ユーリがそう言うのなら、そうするわ」

 鉛筆をコロンと机の上に転がし、アルテ姫はその鉛筆のように床に横たわってゴロゴロと転がっていった。
 この世界では貴重品と言われている鉛筆も、ここでは簡単に手に入る。
 贅沢だと思う一方で、四、五〇〇円出せば十分な品質の物が一ダース買えた頃の記憶もあるんで、なんか変な感じだ。
 ……ま、俺なんかが王女様に絵を教えてる事の方がよっぽど変な感じなんだけど。

 と、そこでさっきの疑問を思い出した。 

「ところで、アルテ様。貴女は……」

「アルテ、で結構よ。師匠にまで様呼ばわりされたくないし」

「……いや、もしそれを護衛の兵士とかに聞かれたら俺、問答無用で斬られますよね?」

「大丈夫。あんたは国賓扱いするようちゃんと言ってあるから」

 ……俺の知らないところで、俺はとんでもないステータスを手に入れていたらしい。
 苦労して苦労して、ようやく偉くなった人からしたら、俺の存在はきっと相当疎ましいものになってるんだろうな。

「それじゃ、アルテ姫と呼ぶようにしますよ」

「……ま、別にいいけど」

 姫という一人称を使っている彼女にとって、俺の妥協案を断わる事は出来なかったようだ。
 取り敢えず、ホッとした。
 これだけのやんごとなき生まれの人との会話は、一つ間違えば人生が壊れかねない訳で、普通の何倍も疲れる。

「で、何?」

「あ……はい。アルテ姫はなんでそんなに熱心に絵を学んでいるのかと思いまして。ここ数日指南しただけですけど、趣味の範囲を超えた情熱を感じましたから」

「……」

 それまで常に明朗な反応を見せていたアルテ姫が、急に押し黙った。

「いや、無理に聞きたいって訳でもないんで、言い難いようなら……」

「ついてらっしゃい」

 ――――かと思うと、突然立ち上がってこっちも見ずに部屋から出て行く。
 機嫌が悪いって訳でもなさそうだ。
 俺は今一つ自分の投げた石が生んだ波紋の形を視認出来ないまま、言われた通りアルテ姫の背中を追いかけた。

 いくら第二王女とはいえ、王宮内を歩くのに護衛は必要ないらしく、一人で無駄に巨大な空間の廊下をどんどん進んで行く。

 ここ数日で、アルテ姫の部屋がある階層および俺の部屋の階層は一通り見回ったものの、俺はまだ王宮内の全ての部屋を把握しちゃいない。
 何しろ、一人だけで歩き回ったら直ぐに迷子になりそうなほど広い建物だ。
 しかもリエルさんは忙しいらしく、ここへ来た初日以降、とんと姿を見ない。
 なので、アルテ姫がどこへ向かっているのか、正直見当も付かなかった。 

 でも、それを聞く事は何となく憚られた。
 アルテ姫の背中が『着くまで黙っていなさい』と語っているように見えたからだ。
 無言の圧力、ってのはこういうのを言うのかも知れない。

 そんな事を考えつつ、重厚感溢れる赤絨毯の階段を下り、一階の廊下をひたすら歩き続け、その途中細い通路へと入り――――

「……ここよ」

 そうアルテ姫が告げた事で発覚した終着点は、一階にある見覚えのない一室へと続く扉だった。
 何の部屋かを示す表記は一切ない。
 ただ、いかにもブ厚そうな両開きの大きい扉が、普通の個室とは一線を画した場所だと示している。

「入ってみて」

「俺から、ですか?」

「ええ。姫の背中越しにじゃなく、あんたの世界をそのままここへ持ち込んで」

 そんな、少し意味のわかり辛いカメリア語に躊躇したものの、俺は自分の好奇心を抑えきれず、言われるがままに扉を引いていた。

 すると――――

「……これは」

 一目でそこが何の部屋なのかわかった。
 数多くの、本当に驚く程の数の絵画が部屋の壁一面に飾られている。
 他の美術品は一切なく、全て絵画。
 ただし、壁面や床は王宮のレイアウトとはかなり違う。
 何より天井がやたら高く、窓が全くない。
 これは……王宮に隣接した別の建物かもしれない。

「アニュアス宮殿。カメリア王国最大の絵画専門宮殿よ。この国の名だたる画家の作品が展示されているの」

 そうアルテ姫に説明を受けるまでもなく、ここがコンベンションホールなのは一瞬で理解出来た。
 大小様々な、技法やモチーフもバラバラな絵画が壁という壁を埋め尽くしている。
 それも、見上げないと視界に収まらないほどの高位置まで。

 宮殿の壁面には足場が設置されていて、階段で上り下りが出来るようになっているけど、その断層は全部で四階分。
 王城も四階建てだから、同じ階数のフロアが存在している事になる。

「暫く見学してみて頂戴。その上で率直な感想を聞きたいの」

 アルテ姫の言葉に従い、俺は漠然と展示された絵に目を向けた。
 それぞれの絵は額縁に入れられているが、誰が描いたという表記は何処にもない。
 タイトルもなし。
 絵の中にサインが入っている事もなく、ただ絵画だけが力強く存在している。
 芸術は爆発――――そんな言葉を思わず回想するほどの迫力で。

 正直に言うと、俺は美術館や展示会などに足を運んだ事は殆どない。
 一度だけ、子供の頃に行った地元の美術館の絵にもまるで心は動かなかった。
 所謂『芸術品』としての絵画には、一切興味が湧かなかった。

 今俺が視界に収めている、王城からの入り口付近の壁は、例えば元いた世界で言うところのシュール系やモダンアート的な作品はなく、クラシカルな感じの絵画で占められている。
 その多くが油彩画で、立体感のある荘厳な雰囲気を醸し出している。
 色合いは全体的にくすんでいるというか、少し暗い。
 例えばレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロ・サンティに代表されるルネサンス美術とよく似た感じだ。

 壁際に沿ってずっと宮殿の奥へ向かうと、今度はやたら緻密に描き込んだ絵が目立つようになった。
 一言で言えば"写実的"。
 現実の世界をそのまま絵にしたような、写真に近い感じの絵が並んでいる。

 少し視線を上げると、そこはまた別世界。
 シュールレアリズムまではいかないが、現実感の余りない絵が並んでいる。
 七色の海に漂う四枚の翼を持った魚の絵や、空がまるで氷のように凍てつき、そこから氷柱が幾つも垂れている絵など、結構ファンタジックな作品も多い。
 こっちは水彩画も結構あって、淡いタッチで描かれた、パステル調の優しい花々や風景画はこの重厚なホールにおいて少し浮いている気がするけど、それがアクセントにもなっている。

 題材はてんでバラバラ。
 ノーマルな肖像画や風景画もあれば、グロい絵や裸婦も少なからず見受けられる。

 どの作品が古くて、どれが新しいのか――――元いた世界の美術史を繙けば正解に近付く事は出来るんだろうけど、生憎俺には美術の授業で習った触りだけの知識くらいしかないので、その辺はよくわからん。

 わかっている事は一つ。

 ……苦手だ!

 いや、実際にはこの手の絵こそ本来絵描きが目指すべき絵なのかもしれない。
 全ての絵が、俺なんか遥かに超越した技術によって生み出されているのも間違いない。

 でも俺は、如何にも『芸術品なんだぜぃ』という主張が見える絵画はどうも苦手だ。
 確かに迫力もあるし、綺麗だし、素晴らしいんだろうとは思う。

 だけど……なんだろう、劣等感や負け惜しみとも違う、この違和感。
 教材とかデカい壺とか、そんなのと同じ物に思えてならない。

 教科書に載っている楽曲が、現在でも活躍しているミュージシャンの手によって作られたポップスだったと知っても、なんとなくスッと入って来ない、あの変な感じと似た感覚だ。

「どう? あんたの目に、姫達の国の絵はどう映ったかしら?」

 俺の出身が海外というのは、アルテ姫にも伝わっていたらしい。
 自国の美術史が他国からどう映っているのかを知りたい――――そういう風に聞こえた。

 でも俺には、そんな観点から感想を言う事は出来ない。
 何しろ、一切精通していない分野だ。
 だから俺の答えは一つしかない。

「お高くとまってますね」

 ありのまま、素直な感想だ。
 それに対する、アルテ姫の反応は――――

「あんたならそう言うと思ってたわ」

 俺も、そう言うと思ってました。
 なんとなくだけど、彼女が俺の絵を欲した理由がわかった気がした。

「今、この国の美術は三つの様式に大別出来るの。一つは古典派。一つは写実派。そしてもう一つが幻想派よ」

 どの絵がどの様式なのかは、容易に想像出来る。
 というか、俺が見た順番そのまんまだ。

「元々、この国で一番支持されていたのは古典派の絵よ。調和を重視した濃厚で重厚な様式。でも最近は時代に取り残されつつあるのが現状ね。今の一番人気は写実派。現実をより繊細に、精密に描写する様式よ」

「もう一つの幻想派はどうなんですか?」

 アルテ姫が教えてくれた三つの様式の中で、唯一気になるのがこの幻想派だ。
 現実離れした表現って意味では、マンガ絵に一番近い。

「ハッキリ言って、まだまだ浸透はしていないわね。新しい分野だし。若い世代はともかく、お年寄りは非現実的なモチーフを露骨に嫌う人が多いのよね」 

「見たまま、ありのままを描いた絵が人気なんですね」

「そう。それ自体は妥当だと思うわ。誰にでも理解出来るし評価も出来る。でもね……」

 アルテ姫は、指を口元に当てて不敵に微笑む。

「それって、つまらないでしょう?」

 ――――俺はこの世界に来て、何度となく衝撃的な思いをしてきた。
 言語も文化も何もかも違う世界に放り出されたんだから、当然だ。
 でも、今のアルテ姫の言葉は、全く違う意味での衝撃だった。

 つまらない――――確かに、ありきたりなのはつまらない。
 でも俺は、そのありきたりを選んだ。
 だから俺の絵は、元いた世界では無個性であり無難だと評価された。
 俺自身もそう思う。

「でも、あんたの絵は幻想派すら遠く及ばない、その遥か先を行く最高に面白い絵。姫が惹かれたのはそこ。あんたなら、この国の停滞した価値観を打破出来るって思ったのよ」

 そう言いながら横目で俺を見やるアルテ姫の瞳は――――毒を盛ろうとしている魔女のそれにも、泣きながら親に玩具をねだる子供のそれにも見えた。

「姫はね、絵が好き。絵を見るのも描くのも好き。でも、つまらない絵は嫌い。現実を切り取っただけの絵は嫌い。古臭い絵も嫌い。一番マシだって思ってたのは幻想派の絵だけど、全然足りない。何が足りないのかはわかってたわ。人物よ。どれだけ風景を非日常的に描いても、人物画は普通。普通の範疇を出ない」

 どちらが正しいのか、俺にはわからない。
 見る人によって捉え方がまるで違う絵があるように、彼女の瞳もまた千差万別の捉え方があるのかもしれない。

「だから姫は、自分で描こうと思ったの。普通の枠を飛び越えた絵を。常識に囚われない、パターン化していない絵を描いて、それで……」

「それで……?」

 けれどその瞬間、彼女の瞳は大きく揺れ、一つの感情に傾いた。

 あれは――――寂しさ?

 俺にはそう映った。

「……何でもないわ。とにかく、他人が描かないような絵を描こうとしたの。でも、全然上手く描けなかった。何枚も何枚も、時間が許す限り描いたけど……頭の中に浮かべた理想の絵とは程遠い出来のモノばかりだったわ」

 そう話すアルテ姫の横顔は、妙に愁いを帯びていた。
 普段とはまるで別人だ。

「だから、諦めかけてたのよ。そんな時にあんたの絵を見たの。衝撃だったわ。人物をあんな風にムチャクチャに描いておきながら、それが人間だって直感的にわかる……これが姫の求めていた絵。姫の欲しかった絵。この国の美術を、常識を、現状をひっくり返してくれるような絵だって、そう思ったわ」

 俺は思わず息を呑んだ。
 明らかに俺より年下のこの王女は、自国の美術――――絵画について思うところがあって、自分でその解決策を見出そうと必死になっていたのか。

 俺の絵がこの国の美術や常識をひっくり返す、ってのは流石に過大評価だし、ちょっと重いとも思うんだけど、そこまで気持ちを入れて俺の絵を習得しようとしてくれている心意気は、素直に嬉しい。
 でも同時に、危うさも感じていた。
 決して人格的に成熟していない彼女が抱くその野心は、一つ間違えば彼女の身を滅ぼすんじゃないか、と。

 出る杭は打たれる。
 元いた世界では、インターネットの発達でそれがより明瞭化していた。
 異端だから必ずしも叩かれる訳じゃないのかもしれないけど、叩かれやすいのは確かだ。
 俺の絵は、彼女に破滅をもたらしはしないだろうか――――そんな懸念を抱いた。

 俺はどうすべきなのか?
 彼女にこのまま俺の絵を教え続けてもいいんだろうか?

「ユーリ、お願い。姫の――――」

「その辺りにしておいては如何でしょう、殿下」

 もしかしたら、その答えかもしれなかったアルテ姫の声は、宮殿の入り口――――俺達が入って来た扉とは違う正規の入り口の方向から聞こえてきた声によって遮られてしまった。









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