年齢は恐らく五〇前後。
頬が痩け、髪が背中まで伸び、髭も長く、見た目はだらしない。
でも妙に品のある佇まい。
服装も、青を基調としながら煌びやかな色合いのもので、身分の高さを窺わせる。
そんな異様な雰囲気の人物が、一つの絵を凝視したまま微動だにせず突っ立っていた。
見ている絵は、あのイヴ=マグリットの描いた亜獣の絵だ。
……ど、どうしよう。
この世界に来る前よりはかなり社交的になったと自負してるんだけど、流石にあんな雰囲気の人に声をかける勇気はない。
一番特徴的なのは、目だ。
横顔だからそう見えるだけかもしれないけど、イヴさんの絵を凝視するその目は、常に瞳孔が開いているように見える。
まるで、絵に魅入られているかのように――――
「何をしているの」
「はおっ!?」
不意に直ぐ傍で発生したその声に、俺は思わず自分でも引くような奇声を発してしまった。
反射的に声のした右隣を見ると、そこには恐ろしく整った女性の横顔。
「い、イヴ=マグリット……?」
"黒の画家"の異名を持つ彼女がいた。
「何をしているの」
さっきと一語一句変わらない問いかけ。
でも、回答を無視した事に怒っている様子はなく、初対面時と同じように少し素っ気なく、けれど穏やかな声だった。
「えっと……時間を潰しに来ただけ、なんですけど」
「そう」
……会話、終わったよ!
うーん、スゴい美人さんなんだけど、なんか取っつき難いというか、女性が苦手な俺にはちょっとハードルの高い人って感じだ。
こうして近くにいるだけで疲労するというか、ちょと怖い。
向こうにいる、彼女の絵を眺め続けている人物とは違う意味の怖さだ。
「んん ? ああ イヴ じゃないか。迎えに 来て くれたの かい ?」
ようやく頬の痩けた男性がこっちを向いた。
俺の存在に気付いているのかいないのか、視野にすら収めていないのか、初対面なのに完全無視だ。
「また、あの絵を見に来ていたの?」
イヴさんもイヴさんで、紹介しようという素振りもなく、男性と会話を始めた。
なんなのこの疎外感……
「うん この絵は 良くてね 君の描く 亜獣 の 中でも 特に 好きなんだよ」
「そう。この絵の何処が良いの?」
「そうだね とても 良いんだ うん とても 良い」
か、会話が成立してない……
もしかして病気なんだろうか。
なんか話し方もちょっと独特というか、棒読みのようなイントネーションだ。
「でも そろそろ 新しい 絵も 見たいかな イヴ 筆は 進んで いるかい ?」
「ええ。近い内に見せてあげる」
「亜獣の絵 早く みたいな 早く 見たいな」
ブツブツと"亜獣"と"見たい"を繰り返し、その男性は覚束ない足取りで宮殿の出口へ向かって歩いて行く。
最後まで、俺を見ていなかった。
「彼の事は見なかった事にした方が賢明」
呆然としていた俺に、イヴさんがそんな助言をくれた。
確かに、それが一番良いのかもしれない。
関わり合いになるべきじゃないと、頭の中でけたたましく警鐘が鳴っている。
俺はこの王城では部外者なんだから、安易に立ち入るべきじゃない。
「えっと……それじゃ、俺はこれで失礼します」
余り時間は潰せなかったけど、なんとなくこの場に居心地の悪さを感じ、祝賀会会場へ戻る事にした。
「……」
ついて来るし……
いや、さっきの人を連れ戻しに来たのなら、彼女ももう用はないんだろうけどさ。
やたら幅の広い廊下にも拘らず、イヴさんは俺の直ぐ隣を歩いている。
これだけの美人に近い位置で歩かれると、正直嬉しさより威圧感の方が大きい。
お互い沈黙したまま、足音だけが廊下に響く。
こういう時は、こっちが率先して話を振るべきなんだろうか――――
「貴方は」
「あ……え?」
先んじられてしまった!
なんか無駄に恥ずかしい。
あと三秒早く話しかけて欲しかった。
「何故、あのような絵を描けるのか、私は知りたい」
目的地までの軽い雑談を予想していた俺は、思いの外踏み込んだ質問に少し困惑した。
答えそのものは単純だ。
デフォルメという技法を知っているから。
というより、イラストレーターとしてマンガ絵を描くのに明瞭な理由なんてない。
元いた世界では当たり前の選択だったから。
でも、この理由が話せる筈もない。
どう言えばいいのか――――
「多分、自分でもよくわかってないと思います」
結局、本筋をボカしながらも本音を話す事にした。
「絵を描き始めた時から、ああいう絵を描いていましたから、特別な意識はありません。ハッキリ言えるのは、あの手の絵柄に魅力を感じているという事だけです」
現実をデフォルメした絵は、冷静に見ればかなり歪だ。
あんなデカい目の人間はいない。
それでいて、顔の全体像はかなり薄く、鼻や口なんて特に最低限の線しか入れない。
鼻のない絵でも普通に通用する。
そんな歪さなのに、何の抵抗もなく受け入れられるのは、単純に子供の頃からそういう絵に慣れ親しんでいて、抵抗がないってのが大きいとは思う。
でも、それを十分考慮しても、最終的に行き着くのは"好み"。
俺はマンガ絵が好きだ。
だから描けている。
それ以上の説明は無理だ。
「そう」
こっちの説明が単純だったからか、イヴさんの返答は最少言語だった。
ライバル宣言のようなものをした相手から技術論を聞けず、失望したのかもしれない。
それは仕方ないけど、問題はこの場でのやり取りだ。
こっちが聞かれた以上、何かしら質問を聞き返すのが礼儀、だと思う多分。
でも、何を聞こうか……
「イヴさんは今、亜獣だけを描いてるそうですね。どうしてか聞いてもいいですか?」
「……」
思案した結果搾り出した俺の質問に、イヴさんは即答をせず思案に耽った。
人間を襲う亜獣という存在は、俺の中では元いた世界における『モンスター』『魔獣』『悪魔』といったものに近い。
俺がこれまで直に見た亜獣はあのフクロウもどきの一体であり、あれは外見の作りだけならそれこそフクロウそのもので、となると鳥類、つまり動物の方向に傾くんだけど、それでもあの巨大さが前景に立つ為、異形の者という印象が強く残っている。
そういった存在に対して過剰に、或いは妄信的に執着する人は元いた世界にも大勢いた。
悪魔の絵ばかりを描くイラストレーターも少なくない。
彼女のその一人なんだろうか――――
「亜獣は誤解されている」
色々頭の中で模索していたところ、不意にそんな答えが返ってきた。
というか、意味不明だった。
誤解って何……?
「私はその誤解を解きたい。だから亜獣を描いている」
いやだから、誤解って何さ。
それを聞くべきだとは思ったんだけど、彼女の表情がそれをさせなかった。
能面のようにずっと真顔だったその顔が一瞬、綻んだ気がした。
いや……違う。
それなら想像を絶する綺麗な笑顔なのだろうと思ったけど、どうもそうじゃない。
「貴方にもわかる日がくるかもしれない」
綻んだんじゃなく――――歪んだんだ。
「いずれ、また」
黒の画家。
その異名を持つ彼女が、立ち止まる。
分かれ道も階段もないここが、別れの地点と言わんばかりに。
俺はその姿をギリギリ横目の視界に収めながら、次の歩を進めるか否か、迷っていた。
どうしてだろう。
彼女を追い越してはいけない――――何故かそう思った。
そうすると、違う世界に踏み入れてしまうような、そんな脈絡のない不安が襲ってきた。
いや、脈絡がない訳じゃない。
そもそも俺は異世界人なんだ。
ここは"違う世界に踏み入れてしまった"地点なんだ、既に。
どうしてそれを今、感じたんだろう。
もしかして、彼女は俺と異世界を繋ぐ何らかの事情を知っているんだろうか?
だから俺に関心を示しているんだろうか?
……バカらしい。
なんの根拠もないじゃないか。
ミステリアスな雰囲気で意味深な発言をしてくるからって、考え過ぎだ。
「……あれ?」
いつの間にか、イヴ=マグリットは俺の隣からいなくなっていた。
振り向くと、その背中が遠ざかっている。
俺が変な事を考えている間に引き返したらしい。
この異世界へ来てからのオレは、余りにも上手くいき過ぎていた。
都合良く事が運び過ぎていた。
まるで現実感のない、夢の世界のようだった。
何度もそう実感した事があった。
最初は深く考えずにただ喜んでいたけど、いつしかそのご都合主義的な状況は大きな懸念材料となっていた。
いつか落とし穴に落ちる日が来るんじゃないか、という漠然とした不安。
そしてその根底にあるのは、俺がこのリコリス・ラジアータへ迷い込んだ理由が未だにわからない事。
正確には、わかろうとしていない事だ。
本来なら第一に考えるべき『異世界迷い込みの理由』を、俺は半ば放棄していた。
理由はきっとあるんだろう。
でもそれを知っても意味がない。
俺はもうこの世界で生きていくと決めているんだから。
不安なのは――――その放棄した理由が再度襲って来る事だ。
つまり、強制送還。
元いた世界に戻ってしまえば、俺はたちまち三流イラストレーターに逆戻りとなる。
仮に彼女が何かを知っていたとしたら?
俺を元いた世界に戻す力があるとしたら?
ついそんな無根拠の警戒をしてしまう程、彼女の言動や挙動は謎だらけ。
その一方で、彼女の絵を見た時に感じた高揚感もまた、確実に自分の中にある。
近付くべきか。
遠ざかるべきか――――
気付けば、イヴ=マグリットの背中は完全に見えなくなっていた。
「いいですか? お二人は国民の模範となるべき女性なんです。相手の揚げ足をとって攻撃し自分の有利性を得る、そんな国民ばかりにしたいんですか? お二人がそのような姿勢では、この国の品位が揺らぎます!」
パーティー会場に戻ると、いつの間にかそこはお通夜の会場になっていると錯覚するほど湿っぽい空気に包まれていた。
っていうか、リエルさんが泣きながら王女二人に説教していた。
「わ、悪かったですわ。だからリエル、そう感情的にならないで下さいな」
「お姉様も姫も反省してるから、いい加減泣き止みなさい。ね? ね?」
「私は泣いていません! お二人の言い合いが余りにも……!」
修羅場と化している一角を迂回し、クレハさんとピュッピさんのいる端っこの席に戻る。
殺伐とした状況の中、二人は特に深刻な様子もなく、テーブルに並んだアムンに野菜サラダや果物を乗せ黙々と食していた。
「ちょうどいいところに来たな。そろそろオーラスだ」
「今回はちょっと長かったねっっ」
……この涙ながらの説教も毎度の事なのか。
というか、王女二人にしろ、見物している二人にしろ、どうも真剣味が足りないというか、リエルさんが困ってる姿を喜んでいるフシさえある。
真剣に怒っているリエルさんに失礼だ!
そう思いつつ、俺は今日この場面を絵にしようと密かに決心したのだった。
「全く……リエルは生真面目すぎますわ。そこが可愛いのですけれど」
一〇分後――――神経を消耗した感のある表情で、メアリー姫がこっちに近付いてくる。
どうやら説教から解放されたらしい。
直接の主従関係にあるアルテ姫は未だに絞られているみたいだけど。
「あれくらいのケンカ、何処の家庭でもありますのにね。ユーリ、貴方に兄弟姉妹はいまして?」
「いえ、一人っ子ですよ。だから姉妹ゲンカへの共感はできません。どっちかっていうとリエルさん寄りです。平和が一番」
「あら、そうでいらしたの。だとしたら大変ですわね」
「?」
妙に意味深な言い回しを俺にしつつ、メアリー姫はテーブルに並んだ葡萄酒のグラスを手に取り、不敵に笑んでみせた。
「可愛い妹の成長と愛しいリエルの困り顔を堪能できた事だし、本題に入るとしますわ。わたくしがここへ来た理由はユーリ、貴方に伝える事があったからですのよ」
俺はその瞬間、イヤな予感を覚えた。
さっき、廊下でイヴ=マグリットを見かけた時から感じていた凶兆が少しずつ歩み寄って来ているような、そんな感覚。
「ユーリ、あなたは冒険者ギルド〈ハイドランジア〉で暮らしていますのよね?」
「ええ。冒険者って訳じゃないですけど、居候してます。それが何か……?」
果たして。
「その冒険者ギルド、なくなりましたわよ」
――――予感は的中した。
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