カメリア王国の王位継承候補者の内、立場上最も国王に近いのは第一王女のメアリー姫。
本人にその気がないとの事だけど、それでも国内で最も重要な人物の一人である事には変わりがない。
「あら、これが印刷機なのですわね。実物を見るのは初めてですわ」
そんな要人が、ランタナ印刷工房の無骨な印刷機を興味深げにマジマジと眺めている姿は、本来なら相当シュールな光景なんだろうけど、変装用の質素な服装と謎のハデハデなマスカレードのミスマッチが王族と庶民のギャップを上回って、別の意味のシュールさを醸し出している。
「すいません。お仕事中にお邪魔してしまって……どうしても殿下が見てみたいと」
「と…と…と…と…とんでもねぇでございやす! おう…おう…おう…おう…おうじょさまにおかれやしては…ごき…ごき…ごき…ごき…ご機嫌うるわしゅうにございやす!」
とはいえ、それは俺がメアリー姫の気さくな部分を知っているから抱く感想であって、突然自分の店に王女を招く事態となったルカ父の緊張は尋常じゃないらしく、テンパリ過ぎてなんかオットセイが複雑骨折してるみたいになっていた。
ちなみに、メアリー姫の護衛はリエルさんのみ。
本来、第一王女ともあろうお人が護衛を一人しか付けないなど警備の観点からあり得ない話なんだが――――
「……実は、お忍びなんです」
馬車で移動中、そうリエルさんがこっそり教えてくれた。
なんでも、メアリー姫は来年から〈亜獣被害対策検討委員会〉とかいう委員会の指揮官に就任するらしく、その挨拶と視察を兼ねて、各地で遊説を行っているという。
以前ルカが話していた『亜獣被害の対策委員会』の事だろう。
公務ではなくお忍びなのは、フットワークを軽くして、より地方の亜獣対策の現状を詳しく知りたいからとの事。
実際、公務だと時間も行動範囲も限られるし、表向きの会話に終始する為、単に形だけの挨拶回りで終わりそうな気はする。
性格はともかく、責任感はかなり強いタイプみたいだな、メアリー姫。
そういう芯の強さは、アルテ姫と似ている。
「にしても、印刷所なんか見てどうするんです? 別に面白くもないでしょうに」
「なんて失礼な輩……呪……呪……」
久々にルカから呪詛を呟かれた。
突然王女が押しかけて来たというのに、親父と違ってまるで動じていないのは流石だ。
「あら、面白くないなど……とんでもありませんわ。とても興味深いですわよ。ね、リエル」
「はい。ユーリ先生の本もここで作られたんですよね?」
「んー……厳密にはこことは違う場所にあった印刷所なんですけど。店舗拡大の為にここへ移転したんです」
ちなみに、印刷機も以前とは違う物になっている。
手動式なのは同じだけど、余り力を入れずにプレス出来るタイプの印刷機らしく、比較的スイスイと印刷出来るようになっている。
ウィステリア印刷所で使われているような万能樹脂を動力とした最新式の自動印刷機は、まだ開発されたばかりで精度が低く、印刷ミスが多発するとの事で購入を見送ったそうだ。
新しけりゃいい、ってモンでもないからな。
「事業拡大の原動力はやはり、《絵ギルド》ですの?」
「へっへえ…そうでやす! 我々親子…ユーリ先生に足を向けて寝られやせん…!」
「とはいっても……資本金を前借りさせてやったから……対等……対等……」
負けず嫌いなのか、ルカは頑なに感謝の気持ちを肯定しない。
助けられたのは事実だから別にいいんだけど。
「ウィステリアの一部の地域だけしか普及していないのに、この勢い……どうやら間違いなさそうですわね。リエル」
「私もそう思います」
苦笑いしていた俺の傍らで、メアリー姫とリエルさんが頷き合っていた。
そしてこっちが不思議がる間もなく、メアリー姫はルカ父にコソコソと何かを話し始め、ルカ父が奥の方を指差しヘコヘコと何度も頭を下げたところで俺の方へ歩み寄って来た。
「ユーリ。秘密のお話がありますわ。奥の空き部屋を一室買い取りましたから、そこへ来て下さる?」
「……は? 借りた、じゃなくて買った?」
「そうですわよ。わたくしの所有物になったお部屋は、幾ら建物の所有者であっても自由に出入りは出来ませんの。そういう事ですわ」
これから話す秘密の漏洩を防ぐ為だけに、一室買い取ったってのか?
なんという金銭感覚。
なんだかんだで王族なんだよなあ、この人。
「さ、ユーリ。こっちへ」
「は、はあ」
圧倒されつつ、俺はメアリー姫に指示されるがままに奥の部屋へと入る。
新設したランタナ印刷工房は、ルカやルカ父の部屋だけでなく幾つかの空き部屋が作られており、その多くが倉庫と化しているが、メアリー姫が買い取ったのはまだ荷物も家具も置かれていない殺風景な部屋だった。
「……」
無言で施錠!?
一国の王女がなんのつもりだ……?
ちょっとイヤらしいシチュエーションだけど、どっちかってーと恐怖が勝る!
「ユーリ……」
「は、はい?」
「貴方に、わたくしと共にカメリア王国を背負う覚悟はおあり?」
……は?
ど、どういう事でしょうか。
まさかとは思うけど、それって……それって……
『わたくしと結婚して王族になりなさい!』
……って事?
「どうなのかしら?」
「いや、そのなんて言うか、一介のイラストレーターには余りにも荷が重すぎるというか」
「そんな事ありませんわ。貴方の《絵ギルド》はカメリア王国の美術史における分岐点として、何百年後にも語り継がれて行く可能性を秘めていますもの」
「そ、そんな大げさな」
扉に背を向け、メアリー姫が部屋の中央にいる俺の方へにじり寄ってくる。
ぷ、プレデター……!
メアリー姫の正体は、獰猛な肉食系お姫様だったのか!?
「《絵ギルド》が古典派の巨匠に模倣された事案もわたくしの耳に届いていますわ。写実派の精密な絵を愛するわたくしとしては複雑ですけれども、勢いのある若手が国内から出てくるのは歓迎すべき事。最早貴方は一介の画家ではなくてよ。今誰よりも注目を集めている若手芸術家ですのよ」
芸術家――――その言葉が、動揺の余りフワフワしていた俺の心を急速に落ち着かせた。
「芸術家じゃないですよ、俺は」
そんな俺の心境の変化に気付いたのか、メアリー姫の足が止まる。
「芸術家ではない……? あれだけ個性的な絵を生み出した貴方が?」
「ええ。人とは違う感性を誇りたい訳でもないし、高尚な物にしたいとも思わない。芸術家を所望しているんなら、俺以外の人を選ぶべきです」
「……ならユーリ、貴方は何故、絵を描いているの?」
その質問をされたのは、人生で二度目だった。
一度目は、初めて仕事の打ち合わせをした日。
編集部の人からそれを聞かれ、俺は確か『マンガが好きで、子供の頃からマンガばかり描いていたからです』と答えた。
きっかけは確かにそうだった。
でも、こうして別の世界に来てしまった今となっては、絵を描く理由は大きく変わってきている。
「生きる為です」
俺はそう言い切った。
「それは……生計を立てる為、という解釈でいいのかしら?」
「勿論それもあります。俺がこれから生きていく上で必要な生活費を何で稼ぐかと言ったら、絵しかないですから」
それは多分、芸術家とは対極にある考え。
さぞメアリー姫も失望した事だろう。
でもそれが、色んな経験をしてきて辿り着いた結論だ。
「ならばユーリ。もしも貴方の絵に誰も見向きもしなくなれば、貴方は筆を置くつもり?」
その問い掛けは、絵描きにとってある種"踏み絵"のようなものだ。
つまり、お金にならないのなら描かないのか、お前にとって絵とはお金なのか、あの古典派の巨匠ジャック=ジェラールと同じなのかと、そう問いかけているんだ。
メアリー姫の顔は怒っているかのように真剣で、茶化すような答えもはぐらかしも許してくれそうにない。
なら、こっちも真剣に答えないといけない。
自分の恥を晒そうとも。
「……情けない話なんですけど、《絵ギルド》を描く前の俺は、元いたせ……国でまさにそういう状態だったんです」
「え?」
「仕事を始めた頃は順調だったんですけどね。その後はめっきり需要が減って、誰も俺の絵に関心を示さなくなりました。当然仕事もないし、求められもしない。一人惨めに引き籠もってましたよ」
自嘲気味にそう述懐する俺に、メアリー姫は引くでも冷めるでもなく、真剣なままの表情で 一つ頷いた。
「《絵ギルド》を描いたのは、そんな過去の自分に報復する為です。今はここにはいませんけど、《絵ギルド》には共同制作者がいて、そいつも俺と同じで落ちぶれた過去を持ってたんで、そいつと一緒に」
「ジャン=ファブリアーノですわね」
今度は俺が頷く番だった。
「俺にとって絵は武器なんです。過去への報復の為の武器。社会で生きる為の道を切り開く為の武器。そして、自分自身の中だけには閉じ込めておけない、よくわからないけど心が湧き上がるような衝動を表に出す為の武器。だから、芸術家のような生き方は出来ませんし、望みません。単なる一イラストレーターですから」
一国のお姫様相手に、自分の意見を言い切った。
それが出来るくらい、自分の生き様を確立出来た。
リコリス・ラジアータに迷い込む前の俺には出来なかった事だと思う。
メアリー姫の求める答えじゃなかったかもしれないけど、これでいいんだ。
そもそも俺に王女と結婚なんて……
「気に入りましたわ。ユーリ」
「……へ?」
「確かに貴方は芸術家とは違うみたいですわね。どちらかと言えば、騎士に近い志を持っているようですわ。やはりわたくしの目に狂いはありませんでしたわね」
みるみる内にメアリー姫のテンションが上がっていく。
あ、あれ?
この流れ、もしかして結婚フラグ、立った?
「あらためてユーリ、貴方にお願いがありますわ」
「え、いや、その、それはちょっと……」
「どうか貴方の絵で、お父様を救って下さいませ」
「結婚はやっぱり好きな人と……は?」
「は?」
「は?」
お父様って、国王様?
あれ?
結婚するとか、そういう話じゃなかった……?
「ユーリ、貴方もしや……」
や、やっちまった!
人生で一番恥ずかしい勘違いだった!
うわーっ、これはマズい!
恥死という新しいジャンルの死亡原因が生まれそうなくらい恥ずかしい!
そうだよ、そもそもメアリー姫が俺に求婚する理由ないじゃん!
自惚れにもほどがある!
「もしや、リエルと結婚したかったんですの?」
「違……ぅえ?」
「"騎士に近い"とわたくしが言った直後に結婚の話。そこから導き出される答えは一つしかありませんわ。わたくしが、『騎士の志を理解しているのなら、リエルと結婚しても問題ないですわね』と、そう繋げると思ったのでしょう? フフフ、我ながら名推理ですわ」
迷推理過ぎるわ!
元はと言えば俺の迷走が原因とはいえ、リエルさんにまで飛び火しちまったよ。
「ユーリの気持ちはよくわかりましたわ。でも、リエルはやれませんのよ。何故ならあの娘はわたくしが貰い受けるのですから!」
「そ、それはそれでおかしいです!」
そのツッコミは俺じゃなく――――扉を蹴破る勢いで部屋に入ってきたリエルさん。
このタイミングで入室してくる貴女も、それはそれでおかしいです。
「あら、立ち聞きしてましたの? いけない娘」
「部屋の前で見張りをしていたらイヤでも聞こえてきます! それよりも!」
「おほほ、ちょっとした冗談よ。生憎カメリア王国では同性婚は認められていませんもの。現在調整中ですわ」
調整……法整備する気か。
王族だけに冗談に聞こえないぞ。
「戯れが過ぎます! 私だけならまだしも、ユーリ先生だって困っていらっしゃいますよ!」
「あら。ユーリだって満更ではないでしょう?」
「……」
はい、満更じゃないです。
生まれてこの方20年、この手の話を自分が向けられるとは夢にも思わず。
とはいえ、本気でリエルさんが嫌がってたら傷付くんで、程ほどにして欲しい。
「す、すいません……メアリー殿下の悪いクセなんです。私をからかう余り他の人にまでご迷惑を……」
「いや! 迷惑じゃないですよ! 全然!」
「そ、そうですか?」
「そうですよ。迷惑なんかじゃないです。全然」
「そ、そうですか」
うう、照れ臭すぎて照死しそうだ。
圧倒的にこの手の雰囲気に対する経験が不足してる人生だったからなあ……
「二人とも初心ですわね。見ていて甘酸っぱくなりますわ」
「殿下!」
「はいはい、悪かったですわよ。からかうのはここまでにしておきますわ。それで、ユーリ。先程は話が逸れてしまいましたけど」
高らかに、軽やかに微笑んだ後、メアリー姫はさっきのような真剣な顔を俺に向けてきた。
「わたくしがお願いしたいのは――――絵。貴方に一枚の絵を依頼したいのですわ」
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